episode.147 彼からのお茶のお誘い
トランは去った。まさかこんなにもあっさり別れることになるとは考えてもみなかったけれど、ひとまず、約束を交わすことはできた。それだけでも十分な成果だろう。
命を狙ってくる敵は一人でも少ない方がいい。
今はただ、そのためにできることをするだけ。
ようやく用を終え解放された私は、静かにゆっくりと腰を上げる。しばらくじっとしていたがために固まっていて、少しばかり痛みを感じてしまった。が、痛みは一過性のものであり、特に問題はなく。だから私は、そのまま部屋を出ることにした。
「終わったのですか? エアリ」
扉を開け、廊下へ出た瞬間、リゴールの声が聞こえてきた。
声がした方へ視線を向ける。
華奢なリゴールが廊下の端にちょこんと立っている。細いラインの体つきだけでも控えめな印象を受けるが、その遠慮がちな表情も、また、控えめな雰囲気を高めていた。
「リゴール。待っていてくれたの?」
「はい」
彼はそっと笑う。
どことなくぎこちない笑み。
「待たせてごめんなさい」
「あ……いえ」
「それで? 私に何か用?」
急ぎの用事だったのなら申し訳ないことをしてしまったな、などと思いつつ、私は尋ねた。
すると彼は、首を横に動かす。
「いえ。実は……これといった用はないのです」
右手を胸の辺りに当てながら静かな声で述べるリゴールは、緊張しているような面持ちだ。
「そうなの?」
「ですが、もし良ければお茶などどうでしょうか」
「お茶?」
「あ……えっと、実は、以前習ったお茶の淹れ方で実際に試してみたいものがありまして……」
私は、屋敷の外へ出てどこかの店に行きたいと言われているのだと思っていたため、屋敷の中でのお茶というのは意外で、少し驚いた。
だがその方が良いかもしれない。
リゴールを連れて外を歩くのは少々不安なものがあるし。
危機に晒される可能性に怯えていては何もできない、というのも真理ではあるけれど、敢えて自ら危険な目に遭いにいくこともない。屋敷の中でできることなら、屋敷の中で行うのが理想だ。
「そうだったの! それはいいわね。そうしましょ!」
するとリゴールは、ふぅ、と安堵の溜め息を漏らした。
「……良かった」
リゴールはその時になってようやく頬を緩める。
「では、参りましょうか!」
「えぇ」
隣り合い、私たちは歩き出す。
——こうして、トランの一件は幕を下ろしたのだった。
食堂の端の席につき、私はリゴールを待つ。
あの後リゴールは、「美味しく淹れる」といつになく張りきって、食堂の奥へと消えていった。
だから私は一人きりで待たなくてはならない。
今は食事の時間でないから、人は一人もおらず、食堂内はとても厳かな雰囲気に包まれている。
静かで、しかしながら少し張り詰めているような、独特の空気。どうも肌に馴染まない。永遠の静寂の中へ一人放り込まれたみたいで、薄気味悪ささえ感じるほど、しっくりこない。
ただ、今からリゴールと交流することを思えば、このような人のいない時間帯が望ましいと言えるだろう。
今の食堂には、私とリゴールが関わることを良く思わない者はいない。それは、私としてはとてもありがたいことだ。変に気を遣わずに済むから、かなり気が楽である。
待つことしばらく。
リゴールがお盆を持ってやって来た。
小さめの体に似合わぬ大きな木製のお盆には、ガラス製で縦長のポットと、透明のグラス二つが乗っている。ポットは完全に透明ではなく、磨りガラスのように少しばかり曇っているものだったが、中に茶色の液体が入っているということは全体的な色みから理解することができる。
「大変お待たせしました」
涼しげにそう言って、リゴールはお盆をテーブルの上に置く。
近くでよく見ると、双子のように並んでいる透明のグラスには氷が入っていることが分かった。
「アイスなの?」
「はい。冷たいものを用意してみました」
「へぇ、それは良いわね」
そんなつもりはなかったのだが、少々上から目線な物言いになってしまったかもしれない、と心なしか不安を感じる。デスタンが見ていたら「王子に対してなんという失礼なことを!」と口を挟んできそうだ。
ただ、リゴールは不快感を抱いてはいないようで、直前までと変わらずにこにこしている。
「それでは注ぎますので、もう少しだけお待ち下さい」
縦長のポットを持ち上げ、液体をグラスへと注ぎ込む。
顔つきは真剣そのもの。緊張感がある。
しかし、手つきは安定していて、初心者とは思えない。
これまでも幾度かリゴールお手製の飲み物を飲ませてもらったことはあるが、食堂で二人きりでというのは新鮮な気分。
「はい! お待たせしました!」
私の目の前へグラスを差し出してくれる。
僅かに赤みを帯びた茶の中で、宝石のように輝く氷が眩しい。
「ありがとう」
「いえ」
「ところで、このお茶は、珍しい何かなの?」
実際に試してみたい、というようなことを言っていたから、不思議に思って。
「淹れ方が特別とか?」
「あ……」
「あるいは、何か、日頃は淹れられない理由が?」
「え……っと……」
途端に気まずそうな顔をするリゴール。
もしかして、聞かない方が良かったのだろうか。
「……実は、ですね」
「なになに?」
「その……あのような言い方をしたのは、本当は、嘘なのです……」
リゴールは顎を引き、平常時より数センチほど俯く。そして、目線だけを僅かに上げて、顔色を窺うようにこちらを見つめる。
「え。そうなの」
「はい、あの……申し訳ありません」
「べつに平気よ。気にしないで」
理由が嘘というくらいなら、こちらに特別大きな害があるわけでもないし、気にするに足らない嘘だ。ただ、なぜそんな地味な嘘をついたのか、気になってしまう部分はある。
どうしてもお茶を飲みたい理由があったとか?
お茶を飲まなければいけない個人的な事情があるとか?
「でも、どうしてそんな嘘を?」
そう問うのは、偽りを述べられたことに怒りを覚えているからではない。
これは、ただの好奇心からの問いである。
私が放った問いに、リゴールは、身を小さく縮めながら答える。
「本当は……エアリとゆっくりお話したかったのです」




