episode.145 いたずら、困る
「……もう私たちを狙わないでほしいの」
静寂の中、私は一番根本的なところを告げる。
「貴方の人生だもの、絶対に戦うなとは言わないわ。ただ、リゴールやその周りに手を出すのは、もう止めてほしいのよ」
すぐ隣にいるトランは、こちらをじっと見つめていた。その見つめ方といったら、理解不能な動きをする生物を見ているかのよう。
「今日は気が弱いんだね」
「……平穏に暮らすのが、私たちの願いよ」
するとトランは、ぷっ、と吹き出す。
「ふふふ。君がそれを言うと変だね」
「どうして?」
「君はもっと血気盛んなタイプだと思っていたからさー。正直びっくりだよー」
そんな風に驚かれるなんて、と、少しばかりショックを受けた。
私は普通の女なのに。リゴールと出会ってから少し力をつけただけで、それ以外は何の変哲もない娘なのに。
「ま、でも、誰だって二面性はあるものかなぁ」
ショックを受けている私を見て、トランは笑いながら言った。
言葉だけ聞けば、軽くフォローしてくれているかのようだ。しかし、愉快そうに笑っている時点で、まったくフォローになっていない。
——その時。
「エアリ!」
声と共に扉が開き、リゴールが入ってきた。
「良かった、ここに。少しお話したいことが——」
瞳を輝かせたリゴールがそこまで言った、瞬間。
トランは、突如体を動かし、私の頬に唇をそっと当ててきた。
「なっ……!」
リゴールの顔が全体的に強張る。眉や目もと、口角までも、引きつっていた。
そんなリゴールを、トランはさりげなく横目で見る。勝ち誇ったような、刺激するような、そんな表情で。
「彼女、結構可愛いよねー」
「不潔ですよ! エアリから離れなさい!」
「やだねー」
煽るような発言を続けるトラン。リゴールはその煽りにすっかり乗せられて、顔を真っ赤にしながら、ズカズカとこちらへ向かってくる。
「異性に唇を当てるなど、無礼にもほどがありますよ!」
「えー。どうしてそんなに怒ってるのかなー」
トランは私の頬から唇を離し、舌を僅かに出しながら、ニヤリと笑みを浮かべる。その様は、まるで、親にいたずらを咎められた幼児のよう。これがトランの本当の姿であれば良いのに、と、そう思わずにはいられない。
そんなトランのもとへ、苛立ちを匂わせるような力んだ足取りで迫るリゴール。
「君、一人でそんなにイライラして、何が楽しいのかなぁ?」
リゴールが怒りに満ちていることを知りつつも、さらに挑発を続けるトラン。
もう止めて。それ以上刺激するような発言をしないで。
個人的にはそう思っているのだが、トランは、挑発をまったく止めそうにない。
だが、リゴールは大人だった。かなり怒りに震えているような様子だが、すぐに攻撃を仕掛けることはせず、トランの正面へさっとしゃがみ込む。
「えー? どうしたのかなー?」
——刹那、リゴールはトランの片頬をはたいた。
ぱぁん、と乾いた音が鳴る。
その様子を間近で目にした私は、言葉を発することができなかった。想定外の展開に、ただただ、愕然としながら見つめていることしかできなくて。
言葉を失っているのは、はたかれたトランも同じだった。
彼はリゴールからの奇襲に戸惑いを隠せずにいる。
「口づけなど、論外です!」
私もトランも何も言えない状態に陥ってしまっている中、リゴールだけが口を開く。
それからしばらくして、トランはようやく発する。
「……暴力反対ー」
そんな風に言われても、リゴールは固い表情を崩さなかった。
リゴールはいつになく険しい顔をしている。戦場にいる戦士かと見間違いそうなほどに、勇ましく、険しく。あどけない少年の面持ちは欠片も見受けられない。
「次にそんなことをしたら、どうなるか分かっていますね」
「偉そうー」
「分かっているのですか!?」
トランは悪ふざけの多い子ども。
リゴールはそれをいつも叱っている厳しめの親。
段々そんな役どころを二人が演じているかのように感じられてきた。
「……はいはい」
トランはかなり面倒臭そうだ。
「理解できましたね?」
「うん。分かったー」
「なら、今回のいたずらだけは見逃しましょう」
そう言って、リゴールは視線を私の方へ向けてくる。
「エアリ。今少し、お話しても構いませんか?」
「え、えっと……」
今はトランと話をしているところだ。彼が軽い雰囲気を醸し出してくるせいで軽い雰囲気になってしまっているが、一応、真面目かつ重要な話をしているところである。せっかくの機会だから、可能なら、もう少しトランと話したい。そして、もう私たちの命を狙わないように、と頼みたい。
だが、ここしばらくリゴールを放置するような状態になっていたのも事実。この期に及んでまだトランを優先するとなると、リゴールに寂しい思いをさせてしまうかもしれない。それはそれで申し訳ない気もする。
どちらを選べば良いのだろう——悩んでいると。
「ふぅん。王子って言っても、意外と愛されてるわけじゃないんだねー」
トランがいきなり失礼なことを述べた。
リゴールのこめかみに怒りの筋が走る。
「今……何と?」
日頃は大抵穏やかなリゴールだが、今日は真逆。温厚さなど、どこにもない。どうやら、非常に怒りやすい精神状態にあるようだ。
「えー? ボク何も言ってないよー?」
「……とても失礼なことを言いませんでしたか?」
「言ってないってー。失礼なのはそっちだよー」
リゴールが怒りの感情を露わにしても、トランはちっとも動じない。いや、動じないどころか、へらへらしている。余計にリゴールを刺激しそうな表情と言動。
この二人を近くに置いておくのは危険かもしれない。
特に、今は。
「待って。リゴール。少しだけいいかしら」
イライラし過ぎるのは健康に良くないと思うから、私は、細やかな勇気を出して口を開いた。
「……エアリ?」
「申し訳ないのだけれど、少しだけ外に出てもらいたいの」
こんなことを頼むのは酷かもしれないけれど。
「え……あの、なぜです?」
それまで怒りに満ちていたリゴールの顔に、悲しみの色が広がる。
見ていられない、可哀想で。
私は選択を誤ったかもしれない、と、既に後悔が始まっている。
「あ、あの……もしかして、わたくしの存在が邪魔で……?」
「違うの。そうじゃないわ。ただ、トランと大切な話をしているところだったから。だから、もう一度二人にしてほしくて」
悲しみに満ちた顔をしているリゴールを前にしたら、罪悪感を掻き立てられて、胸が痛い。息が苦しくなる。
私の選択ゆえのものなのだから仕方がないのだが、自業自得なのだが、耐え難い苦痛がある。
それでも、もう引き返す道はない。
「お願い、リゴール」
あとは思いが伝わることを願って。
私はリゴールの青い瞳をじっと見つめる。
それから十秒ほど、沈黙。
そして、その後に、リゴールはそっと口を開く。
「……そ、そうですね。承知しました」
優しく返してくれたリゴール。彼の顔は、とても悲しそうだった。瞳は震えていたし、眉の角度からでさえも哀を感じられた。




