episode.119 痛くないようにして
「どうよ!」
リョウカは王妃の胸に刀を突き立てたまま発した。
王妃は顔をしかめながらも、体を大きく左右に振る。その三往復目辺りで、リョウカと刀は振り飛ばされた。
一メートルほど飛ばされ床に落下したリョウカは、状況を即座に理解することができなかったのか、暫しきょとんとした顔をしていた。
対する王妃は、左手で胸元を押さえつつも、辛うじてまだ立っている。しかし、その表情は苦しげで。呼吸も乱れている。
「小娘ごときが……!」
王妃は獰猛な獣のような目でリョウカを睨む。
立ち上がり再び刀を構えたリョウカは、勇ましく睨み返しながら、強い調子で言う。
「小娘とか! 失礼っ!」
リョウカは不満げだ。
「次は首を貰うからっ」
「……ふ。そうかそうか……首……んふふ……」
憎しみのこもった目でリョウカを睨んでいた王妃が、突然、不気味な笑みをこぼし始める。
得体の知れない振る舞いに、私は動揺せずにはいられなかった。
「舐められたものね……」
王妃は低い声で呟く。それとほぼ同時に、彼女の体を黒いもやが包み込む。暗雲のようなそれがどこから湧いてきているのかは、私には分からない。ただ、量が増してきていることは確かだ。
「ちょ、何なの!?」
リョウカはまだ剣を構えている。だが、溢れ出す黒いもやのようなものにかなり驚いているようで、誰にでも分かるくらい派手に瞳を震わせている。
王妃は右腕を真横に伸ばす。
すると、黒い鎌がその手に引き寄せられる。
胸に一撃を受けてもなお、彼女の動きが止まることはなく。むしろ、それまでより凶悪な表情を唇に浮かべて。
「可愛くない小娘に手加減はしない……覚悟なさい……」
唐紅の髪が、まるで床から風が吹いてきているかのように、ふわりと浮き上がる。
——直後、王妃は一瞬にしてリョウカの背後に回った。
「え?」
何かが起こるかもしれないと考え、じっと見つめていた私にすら、何も見えない速度の移動。もはや人間の域を超えている。
「凄惨な死を」
そう呟き、王妃は鎌を振り下ろした。
宙を舞うは、朱と黒の混じった飛沫。
「そんな……!」
私は思わず漏らす。
リョウカは弱くなどなかった。経験も技術も、さして不足はなかったはず。
それでも、王妃の鎌はリョウカの背を捉えた。
「んふふ……可愛くない娘に容赦はしないわ……」
数秒すると、リョウカの背を黒いもやのようなものが覆った。得体の知れないもやは、どうやら、鎌が命中したところから溢れ出ているようだ。
「何するの!」
堪らず叫んでしまう。
すると王妃はくるりと振り返り、両方の口角をゆっくり持ち上げる。
「んふふ……てこずらせてくれたお礼よ。あなたも彼女も……痛い目に遭わせてあげるわ」
黒いもやに包まれているリョウカが、ゆらりと立ち上がり、体をこちらへ向けてくる。
その顔つきを目にした時、私は愕然とした。
力のない死人のような目をしていたからである。
リョウカはこんな顔をする少女ではない。彼女はいつだって明るく、向日葵のような、太陽のような、そんな少女だ。
「な……リョウカに何を!?」
「邪術をかけたのよ」
数秒空けて、王妃は続ける。
「彼女はもはや……彼女ではないわ。ただの操り人形なの」
その時ふと、デスタンがトランに操られた時のことを思い出した。今のリョウカが、あの時のデスタンによく似ていたからかもしれない。
「さ、生意気な小娘。彼女をやっておしまい」
王妃が命じる。
死人のような顔をしたリョウカは、僅かにさえ顔色を変えることなく、こちらへ向かってきた。
「リョウカ!? 待って、止め……っ!!」
振り下ろされる刀。
鋭い一閃。
私はそれを半ば無意識のうちに防いだ。
偶々持っていた木刀で、である。
「待って、リョウカ! 止めて! 止めるのよ!」
攻撃を止めてもらおうと叫ぶ。
けれどリョウカには届かない。
「んふふ……無駄よ」
王妃は薄暗い笑みを浮かべ、直後、一瞬にしてその場から消えた。
だが、リョウカの術は解けない。
彼女は躊躇なく攻めてくる。
——死にたくない。
その一心で、私はリョウカの攻撃を防ぎ続ける。
けれど、あちらは本物の刀なのに対し、こちらはただの木刀。威力にも耐久性にも大きな差がある。こちらも剣が使えれば少しは戦えるかもしれない。が、今のままでは明らかに不利。取り敢えず、その差をどうにかしなければ。
「リョウカ! 聞こえないの!?」
「…………」
「私たち、仲間じゃない! それに、もう友人でしょ! 斬り合うなんて絶対おかしいわ!」
必死に訴えても返答がないという虚しさ。
「こんなの変よ! だって私た……」
躊躇なく振り下ろされる白刃。
見えない!
木刀を反射的に胸の前へ出す——直後、今までで一番凄まじい衝撃が腕に駆け巡った。
衝撃に続き、メキメキという痛々しい音。恐怖で何も思考できない。そのうちに、胸の前へ出していた木刀が真っ二つに折られてしまった。
もはや木刀は使い物にならない。そう悟った私は、ひとまず、大きな一歩で後ろへ下がる。
呼吸が乱れる。
激しい運動ゆえか、極度の緊張ゆえかは、はっきりしないけれど。
リョウカは息を乱していない。それも、まったくと言っておかしくないほどに。
彼女はこちらへ歩いてくる。
攻撃の嵐から一旦逃れることはできたが、これでは、また仕掛けられるに違いない。こうして距離をおいていられるのも今だけだ。
戦わなくては。そう思うのに、そのためにどう動くべきかがはっきりしない。焦りや不安で脳内は掻き乱され、正常な判断ができなくなってしまっているみたいだ。ペンダントの剣は使えない、木刀は折れてしまった、と、そんな悲観的なことばかり考えてしまう。
その間にも、リョウカは近づいてくる。
「ま、待って! 駄目!」
「…………」
近づかれた分、後ろへ下がる。
それを繰り返しているうちに、背が壁にぶつかってしまった。
これ以上は下がれない。
刀を静かに構えたリョウカが、一歩、また一歩、こちらへ向かってくる。ゆったりとした足取りではあるものの、止まりそうにはない。
「待って! 待つのよ!」
リョウカは無言で刀を上げる。
「止めてっ!」
悲鳴のような叫びを放ちながら、瞼を閉じる。
あぁ、どうか、痛くないようにして——。




