episode.116 消毒液が染みる朝
私は今、バッサに、傷の手当てしてもらっている。
「では消毒しますからね。染みるかもしれませんが、動かないで下さいよ」
ベッドに腰掛ける私に、バッサは前もって注意してきた。その手には、消毒液に浸した脱脂綿をつまんだV字形の器具。
「じっとなさって下さいね」
「分かってるわ、バッサ」
私はそう返したけれど。
「イタッ!」
脱脂綿が左腕の傷に触れた瞬間、反射的に叫んでしまう。
また、叫ぶと同時に、左腕を少々震わせてしまった。
だが、こればかりは仕方ないだろう。何せ、反射的に動いてしまったのだから。意図的に動かしたわけではないから、仕方がないはずだ。
「じっとなさって下さいね?」
「イタタ……分かってるわ。でも、勝手に動いてしまったの。仕方ないのよ……」
するとバッサは、呆れたように溜め息をつき、「そういうことなら仕方ありませんが」とぼやいていた。
「今後は、このようなことにならないよう、細心の注意を払って下さい」
「えぇ、分かっているわ。気をつける。だから、母さんには黙っていてちょうだいね」
「今回だけですよ」
次にこんなことがあれば、バッサは黙っていてくれないかもしれない。彼女の反応を見て、そんな風に思った。
けれど、今回は黙っていてくれる。
ならそれでいい。
このタイミングで、というのを避けられるのならば、それで十分。次のことは、最悪、その時に考えれば良いのだから。
その日の昼食は、皆が食堂に集まった。
私、リゴール、エトーリア。そしてリョウカも。デスタンはいないが、それ以外のメンバーは勢揃いしている。
しかし、空間は静かだ。
リゴールは小さく口を開け、スプーンでポタージュを飲んでいる。顔色を窺うようにエトーリアをちらちら見ているが、何かを発することはしない。
一方エトーリアは、白くて丸く柔らかいパンを音もなく千切りながら、ぼんやりしている。考え事でもしているのか、視線が定まっていなかった。
そんな中におかれ気まずい思いをしていると、リョウカが小声で話しかけてくる。
「ねぇねぇエアリ」
場の雰囲気に気を遣っているのか、リョウカらしからぬ控えめな声だ。
「何だか妙に静かじゃない?」
「そ、そうかしら」
咄嗟に気づいていないふりをしてしまった。
「だってほら、リゴールもエアリに話してきてないしっ」
「確かに……それもそうね」
リョウカは恐らく、私たちの事情を何も知らないのだろう。だからこそこんなことを言ってきているに違いない。
複雑な事情を敢えて説明することもないだろう——そう思い、私は気づいていなかったふりを続けることにした。
「エアリ、リゴールと何かあった?」
リョウカは私の方へ、不安げな眼差しを向けてくる。
心配してくれているのだろうか?
だとしたら、少し申し訳ない気もするが。
「まさか。何もないわ」
「本当にー?」
あ、怪しまれている……。
「えぇ、もちろん。本当よ。だって、そんな嘘をつく意味がないじゃない」
嘘を隠すために嘘をつかなくてはならないなんて、何とも言えない心境だ。けれど、気づいていないふりをしていたとバレたら、今以上に気まずい空気になってしまいかねない。また、活発なリョウカのことだから、何を言い出すか分からない。そういうのは困る。
ややこしいことになるのは避けたいから、申し訳ないけれど、ここで真実を打ち明けることはできないのだ。
「うん。ま、そうだよねっ。エアリが嘘つくわけないしっ」
向日葵のような笑みを浮かべてくれているリョウカを見たら、少し胸が痛くなる。本当のことを話せなかった後ろめたさが、胸の奥を突き刺して。
「じゃあ、リゴールが大人しいのは体調不良か何かかなっ?」
「私には分からないわ……」
「何も聞いていないの?」
「えぇ。特に聞いていないわ」
「そっか」
リョウカとの会話はそれで終わった。
私はパンをかじりながら、気まずい空気に耐える。
結局、その後誰かが話を振ってくることはなかった。
さほど楽しくはない昼食だったけれど、エトーリアに何か言われるようなことはなかったし、良かった。そんな風に密かに安堵しながら、私は自室へと戻る。
扉を開け、誰もいない自室の中へ——だが、そこは無人ではなかった。
「待っていたわよ……んふふ」
いつも私が寝ているベッドに腰掛けていたのは、ブラックスター王妃。
血のような色の髪と、豊満な肉体。そして、どことなく甘い香りを漂わせている。
そんな彼女は、確かに、私の目の前に存在していた。
「え……」
思わず漏らしてしまう。
彼女が再び現れるとは、欠片も思っていなかったからだ。
数日か数週間が経過してまた現れたというのなら、まだ分かる。完全に諦めてもらえたとは、こちらも思っていないから。けれど、昨夜戦ったばかりで今日のうちにまた現れるとは、理解できる範囲を超えていた。
「驚いてるって顔ね」
「……実際、驚いているわ」
「んふふ……正直だこと。嫌いじゃないわ」
王妃はベッドからするりと立ち上がると、片手で赤いドレスの裾を簡単に整え、それからこちらへ歩み寄ってくる。
彼女の体からは、得体の知れない圧力のようなものが発されている。そのせいで、距離が近づくにつれて後退したい衝動に駆られてしまうのだ。
けれど私は、衝動に何とか抗おうとする。
「何しに来たのよ」
強気なのは発する言葉だけ。
けれど、その言葉は、この心をほんの少しだけ強くしてくれる。
「なぜ『死が救済である』と言うのか……昨夜、聞きたがっていたでしょう? だからね……んふふ。話しに来たの」
王妃は右腕を伸ばし、私の背へと回す。
一瞬かなり警戒したが、その手つきから攻撃の意図を感じることはなく。拍子抜け、という感じだった。
「どういうつもり」
「聞きたかったのではないの?」
確かに「なぜそんなことを」と思った部分はあったけれど。でも、そんなことを話すためにわざわざやって来るなんて、理解できない。
「確かに、気になってはいたわ」
「そうよね……んふふ。少しばかり暗い話にはなってしまうかもしれないけれど……聞かせてあげるわ。ブラックスター王妃になる前の……日々のお話」
王妃は私の背に片腕を伸ばしたまま、ベッドの方へと歩いていく。体に腕をしっかりと絡められているため、私は、王妃から離れることができなくて。仕方がないから、抵抗せず、流れに従うことにした。なぜなら、今の王妃からは殺気を感じなかったからだ。




