episode.109 そんなのは思いやりじゃない
その日、夕食の後、帰ってきていたエトーリアに呼び出された。
あまり使われていない一室。木の窓枠がいかにも古そうな窓があり、そこからは、外の景色が見える。とはいえ、今は夜。だから外は暗く、それゆえ、窓から見える景色もはっきりとはしていない。木々のシルエットと灰色に塗り潰された空少しが見える程度で。ただ、かなり大きな窓なので、昼間であればもっと景色がはっきりと見えそうだ。
そんな部屋に、私は呼び出されたのである。
バッサからの伝言によれば「一人の方が良い」とのことだった。
なので、私は、一人で部屋に入ったのだ。
部屋の中では、美しい金髪を下ろし緩やかなラインのワンピースを着たエトーリアが待っていた。
「来たわね、エアリ」
そんな言葉で私を迎えてくれたエトーリアは、室内に二つ置かれている一人掛けソファの片方に、足を揃えて座っている。
長く伸びた金髪。滑らかな肌に、しわの少ない顔。少女的な印象を与える、体のラインの出ない白のワンピース。
今のエトーリアは、まるで人形のよう。
すべてが整っていて、美しく——しかしながら、どことなく不気味。
母親に対し「不気味」などという言葉を使うのは、失礼と思われるかもしれない。だが、今私が感じているものに相応しい言葉は、他には見つけられないのだ。
「母さん……何か用?」
気まずさを感じつつも、尋ねてみた。
するとエトーリアは静かに口を開く。
「また敵襲があったのね」
発言の意図が分からない。
どう返せば良いのか。
「え、えぇ……そうなの。けど、皆無事だったわ!」
私は悩みつつも、そう返した。
「そうね。安心したわ」
エトーリアは微笑む。
だが今は、その微笑みさえも、怪しげに感じられて。
彼女の顔を直視できない。
「……ねぇ、エアリ」
「何?」
「こんなことを言っては貴女を傷つけることになるかもしれない……そう思って、今までは黙っていたわ。けれど、今日、言おうと決意したの」
エトーリアは真剣な声色で言う。
これから何を告げられるのだろう、と不安になりつつも、私は再び「何?」と返した。
「やっぱり、彼とは一緒にいない方が良いわ」
「……彼って、リゴールのこと?」
戸惑いつつ確認すると、エトーリアはこくりと頷く。
「そう……怒らないで聞いてね、エアリ。わたし、やっぱり、エアリは彼と共に在るべきではないと思うの」
どうして?
なぜ、いきなりそんなことを言い出すの?
頭の中が疑問符で満たされていく。
エトーリアの発言の意味をすんなり理解することは、私にはできそうにない。
「これからもこんなことが続いたら危険だわ。だからエアリ……彼とは離れた方が良い。わたしはそう思うの。せめて、一緒にいないように心掛けるくらい、した方が良いわ」
エトーリアはそんなことを言う。
でも、同意はできない。
「私はそうは思わないわ」
「エアリ……なぜ分からないの? 彼といれば、敵襲が何度も繰り返されるのよ?」
「彼の力になると決めたの。だから私、今さら去れないわ」
リゴールを護ろうと、彼の剣になろうと、そう決めたのだ。誰に何と言われようが、その決定を変える気はない。
「あのね、エアリ。わたしはただ、エアリに傷ついてほしくないだけなの」
「……傷ついてほしくないなら、そんなことを言わないでちょうだい」
「いいえ。言うわ。エアリはわたしの娘だもの」
エトーリアは、きっぱりと言い放つ。
「彼は強くはないとしても男性だわ。でもエアリは違う。貴女は女の子。だから、エアリが無理して彼を護ろうなんて、しなくていいことなのよ」
彼女が私の身を案じてくれているのだということは分かっている。心配しているからこそ、こう言ってくれているということは、理解できる。
でも、彼女が言っていることは、私がリゴールを護らない理由にはならない。
男だから、一人で生きてゆけるわけではない。
女だから、誰かを護ってはいけないわけでもない。
「私はもう決めたの。彼の力になるって。……だから、心を変えるつもりはないわ」
「力になろうという想いは責めないわ。でもね、エアリ。それによってエアリ自身が傷つくのなら、わたしは母親として、その選択に賛成はできないの」
緊迫した空気が室内を埋め尽くす。
エトーリアは譲らない。
もっとも、私も譲る気はないから、お互い様といえばお互い様なのだが。
「今からでも遅くはないわ。どうか身を引いて。ここには、わたしやバッサさんがいるじゃない。わたしたちと、穏やかに暮らしましょう」
——穏やかに。
それは魔法のようであり、逆に呪いのようでもある。
——穏やかな暮らし。
それはきっと素晴らしいこと。
けれど、リゴールを失う悲しみは、その素晴らしさよりもずっと大きいだろう。
「……望まないわ、そんなこと」
「どうして? 平穏が一番じゃない。ゆっくり眠ることさえできない毎日なんて——」
「リゴールと離れたくないの! ……たとえ平穏を手にしたとしても、彼と別れる悲しみの方がずっと大きいわ」
でも、これは私の我が儘。
エトーリアの屋敷に住ませてもらっている私に、こんな我が儘を言う権利はないのかもしれない。
ミセの家に住ませてもらっていた時、デスタンはずっと、ミセの望むデスタンを演じていた。それと同じで、私も、エトーリアの望む私でいなくてはいけないのだろうか。
もし、そんなことを求められるのなら。
なら私は、もう、ここに残る気はない。
「母さんがどうしても嫌なら、私、ここから出ていくわ」
「どうしてそうなるの」
「住ませてもらっている以上、我が儘は言えないわよね。だから、私はここから出ていくの。そうすればもう、母さんには関係ないでしょ」
あの火事の後しばらくそうしていたように、エトーリアとは離れて暮らせばいい。大丈夫、きっとできる。リゴールの傍にいられるなら、きっと平気。
「待って、エアリ。そうじゃないのよ。わたしはね、ただ、エアリのことを思って——」
「そんなのは思いやりじゃない!」
私は思わず叫んだ。
エトーリアの言葉を、途中で遮って。
「善意の押し付けよ!」
そう言って、私は部屋から飛び出した。
なぜ、理解しようとしてくれないの!
どうして、一方的なことばかり言ってくるの!
駆けているうちに、涙が溢れた。悔しくて、悲しくて、どうしようもなく。ただただ、辛かった。
「っ……」
途中で足が絡んで、転びかけ、床に座り込んでしまって。私はそこから、立ち上がることができなくて。
エトーリアに腹が立っていた。
でも、少し経って私は気づく。
——彼女は、鏡に映った私。
「母さんには関係ないこと……放っておいて……」