episode.105 やり取りしつつ
扉一枚挟んだ向こう側に、不気味な生物が存在している。そう考えると恐ろしく、扉を開ける気になれない。皆と合流するには部屋から出なくてはならないわけだが、今この扉を開けてしまったらそれが戦いの幕開けになりそうで、ノブに手をかける勇気が出なかった。そんな私に、リゴールは声をかけてくる。
「大丈夫ですか? エアリ。顔色が良くありませんよ?」
すっきりした顔立ちの彼に見つめられると、日頃なら、少しはドキッとしたかもしれない。けれど、今の状況においては、見つめられて胸の鼓動を速めている余裕はなくて。
「え、えぇ……ただ、開けてみる勇気がなくて」
「その目とやらが怖いからですか?」
「情けないことだけれど……そうみたい」
するとリゴールは真剣な顔つきになり、落ち着きのある声色で「ではわたくしが開けます」と言ってくれた。
先ほど一瞬扉を開けた時に見えたのは、目だけだった。つまり私は、扉の向こう側にいる何者かについて、ほとんど何も知らない状態なのだ。だが、それゆえに、恐怖心が高まるのかもしれない。人間は知らぬことや見たことのないものほど、異様に恐れるものだから。
「頼んで構わない?」
「はい。もちろんです」
そう言って、本を取り出しつつ、扉のノブを掴むリゴール。
「リゴール、大丈夫?」
彼とて無敵ではなかろう。見えぬものへの恐れも、少しくらいはあるはずだ。だから私は、確認のため質問してみた。
けれど、リゴールは意外としっかりしていた。
「もちろん。お任せ下さい」
彼はそう返し、微笑む。
それは、夏の空のような、とても爽やかな笑みだった。
扉がゆっくりと開く。
その隙間には、やはり眼球。しかも、血のように赤黒い。
それを目にしたリゴールは、ほんの一瞬、顔を強張らせた。が、すぐに落ち着いた表情になる。凛々しい目つきだ。
人一人が何とか通れるくらいまで開いた時、赤黒い眼球の持ち主は、その隙間に入り込んできた。
「……入らせません」
リゴールは息を吸い込む。
そして、魔法を放つ。
黄金の光が、扉と壁の隙間に向かっていく。
室内に入り込もうとしていた薄緑の体の敵は、筋になった黄金の光をまともに食らい、焼けるように消えていった。
「行きましょう、エアリ」
「不用意に出歩いて大丈夫かしら……」
またあんな生き物に遭遇するかもしれないと思うと、部屋から出る気にはなれなくて。
「エアリ? 不安なのですか?」
リゴールは心配そうな顔で歩み寄ってきてくれる。
彼のそんな姿を見ていたら、少し、申し訳ないような気分になってしまった。本当に不安なのは、私ではなく、彼の方だろうに。
「……平気。どうってことないわ」
私は笑顔を作って返す。
が、リゴールは怪しむような顔をするだけ。
「……本当ですか?」
「えぇ」
「本当に?」
「えぇ」
ほぼ同じやり取りを二度繰り返した後、リゴールは柔らかに微笑んだ。
「分かりました。では参りましょう」
私たち二人は廊下へ出る。
いつもなら人のいない廊下は静かなのだが、今日は少し違っていた。何やら騒々しい。使用人がパタパタと行き来しているのも、日頃とは違う。
リゴールと話し合った結果、まずはデスタンの部屋に行ってみることになった。
——だが、その途中でリョウカと遭遇。
「エアリ! リゴール!」
リョウカは私たちをすぐに見つけ、小走りで寄ってくる。その面に笑みはなく、とにかく真剣な表情が浮かんでいて。ただ、それでも顔立ちの可愛らしさは消えてはいない。
「何か起こっているの?」
「そうそう! また敵襲とか何とか!」
まったく、もう、面倒臭い。またか、と言いたい気分だ。
でも、言えない。
多少なりとも身の危険はあるわけだから、そんな呑気なことを言っていられるような状況ではないのだ。
「だからあたし、剣を取りに帰ってるところなの!」
「そうだったの」
「うんっ。戦わなきゃいけないかもしれないから!」
リョウカまで巻き込まれるのだと思うと、とても明るくはいられなかった。だから、暗い顔になっていたのかもしれない。そんな様子を見てか、リョウカは問いかけてくる。
「エアリ、大丈夫? 何だか体調悪そうだよ?」
またもや心配させてしまった。
「そんなことないわ。元気よ」
「そうは見えないけど……ま、いっか。とにかく、敵には気をつけて!」
こうしてリョウカと別れた私とリゴールは、再び足を動かし始める。目的地であるデスタンの部屋にたどり着くために。
デスタンの部屋に到着。
その室内へ駆け込む。
部屋には、ベッドに横たわっているデスタンとそれに付き添うミセ、二人だけがいた。
「あーら、エアリ。それにリゴールくん!」
エアリの部分とリゴールの部分の温度差が、微妙に気になる。しかし、今は、そんな小さなことを気にしている場合ではない。
「デスタン」
てってってっという軽やかな足取りでベッドに向かっていくのは、リゴール。
「無事ですね」
「はい」
「良かった……」
リゴールはミセの存在を微塵も気にしていない様子。だが、相手がリゴールだからか、ミセの方もさほど気にしていないようだ。
「王子も、ご無事で何より」
「ありがとうございます」
「またしてもブラックスターですか?」
「はっきりとは分かりませんが……恐らくそうかと」
リゴールは、ベッドの脇に座り込み、横たわるデスタンの片手をそっと握っている。デスタンは横になったままだが、髪に隠されていない側の瞳で、リゴールをじっと見つめている。
そんな二者を後ろから見守るミセは、母親のような、穏やかな笑みを浮かべていた。
「いきなりお邪魔してすみません、ミセさん」
「あーら? いきなり謝るなんて、エアリ、おかしいわねぇ」
何と返せば良いのか。
「驚かせてしまったのではありませんか?」
「別に。大丈夫よ」
ミセの口調は驚くほどさっぱりしていた。
こんな状況におかれているにもかかわらず、彼女はとても落ち着いている。声も動作も、冷静そのものだ。
「それより、ここ、本当に何がどうなっているの? 色々わけが分からないわぁ」
「で、ですよね……」
ただ苦笑するしかなかった。
私とて、すべてを把握できているわけではない。
それゆえ、何とも言えないのである。




