episode.104 ギョロリ
ブラックスターが動き出したと、ウェスタから聞いた。しかし、私はまだ理解できていない。動き出したとだけ言われても、何をどう理解すれば良いのか分からなくて。
「伝えに来てくれてありがとう、ウェスタ」
ひとまず礼を述べておく。
すると、ウェスタは首を左右に動かした。
「いえ」
伏せた目を囲む銀色の睫毛は、思わず撫でたくなるような柔らかさだ。
「ウェスタさん、一つだけ聞かせて。私たちはどうするべきなの?」
「……それは、分からない」
少し空けて、ウェスタは続ける。
「ただ……戦闘の準備はしておいた方が良いと、そうは思う」
ウェスタが発する言葉は、なぜか、不思議なくらいの説得力があった。彼女の言葉からは、ただ聞いただけなのにすんなり納得してしまうような力が感じられるのだ。
「戦闘準備……」
半ば無意識のうちに、独り言のように呟いてしまった。
そんな私を見てか、ウェスタは小さく口を開く。
「……戦力が不足しているというのなら、協力しても構わないが」
「協力してくれるの!?」
ウェスタの提案は、想定外の提案だった。
「……そちらが望むのならば」
「望む! 望むわ!」
既に戦いから降りた者を再び争いに巻き込むなんて、望ましいことではないだろう。けれど、それでも、貸してもらえるならば貸してほしいと思わずにはいられない。敵襲の可能性がある以上、戦闘能力のある味方が一人でも多くいてくれる方が安心だから。
「あ……けど、この屋敷で受け入れることができるかどうか分からないわ。人が増えてきて、今は手が一杯だから……」
まず、空き部屋があるかどうか分からない。それに、彼女にもここで暮らしてもらうとなれば、色々準備を整える必要があるだろう。食事、洗濯、入浴。一人増えるだけで、とにかく色々な用事が増えてしまうのだ。
「……元より、ここで暮らす気はない」
「そうなの?」
「この屋敷の近くでブラックスターの力を感じたら、駆けつける。それなら……そちらの負担も減るはず」
ウェスタはタオルで腕を拭きながらそう述べた。
「じゃあ、それでお願いするわ」
私に絶対的な決定権があるわけではないが、この程度の内容なら、勝手に決めても文句を言われはしないだろう。
「構わない?」
「……分かった」
念のため確認すると、ウェスタは静かに頷いた。
彼女が本当に味方してくれるのか、はっきりとは分からない。絶対、という保証など、どこにもありはしない。
だがそれでも、今は信じようと思っている。
ウェスタは、告げるべきことを告げると、すぐに去っていった。
その後、私はエトーリアのところへ行って、近いうちにブラックスターの輩が来るかもしれないということを伝えた。また、ウェスタが力を貸してくれると言っていたことも、彼女に話した。
エトーリアは困惑したような顔をしていたけれど、最終的には「良かったわね」と言ってくれ。私はその言葉を聞き、ホッとした。
さらに三日ほどが経過した、雨降りの日。
午後、自室のベッドの上にてリゴールと指で遊んでいたところ、バッサが駆け込んできた。
「エアリお嬢様!」
「バッサ?」
「屋敷付近にて、またしても、不審な者が発見されました!」
バッサが部屋に駆け込んできた時点で薄々気づいてはいたが……やはりブラックスターの手の者なのだろうか。
「そうなの!?」
「外出中のエトーリアさんには、既に連絡しております」
「母さんは仕事?」
「はい」
指遊びを中止し、ベッドから下りる。
ペンダントは確かに胸元にある。これなら、敵が攻めてきても対抗できるはず。
「ところでバッサ、不審な者って?」
「目撃情報によれば、怪しげな男性だそうです」
怪しげな男性、か。
心当たりがあまりない。
グラネイトは戦いから下りてくれたはずだし、トランなら「怪しげな男性」という表現はされそうにない。せめて「怪しげな少年」だろう。
そこを考えると、私の知らない者の可能性が高いと考えて問題ないかもしれない。
「ミセさんは?」
「いらっしゃっています。現在はデスタンさんのお部屋に」
「一応知らせておいた方が良いかもしれないわね」
すぐ隣に立っているリゴールは、不安げな眼差しをこちらへ向けている。今の彼は、顔全体を強張らせていた。
「承知しました。ではお伝えして参ります」
バッサは帽子を被った頭を一度だけ軽く下げ、部屋から出ていった。
彼女の姿が部屋から消えてから、私はすぐ隣のリゴールと顔を見合わせる。
「やはりブラックスターでしょうか……」
「その可能性が高そうね」
僅かに言葉を交わした瞬間、リゴールの表情が暗くなるのを感じた。微かに引いた顎の角度が、そう見せているだけなのかもしれないが。
「大丈夫よ」
私は片手を伸ばし、彼の肩をポンと叩く。
「これまでだって乗り越えられた。だから大丈夫」
大丈夫だという保証はない。
けれど、それでも、彼に不安を感じてほしくなくて。
「……そうですね」
だから笑おう。
笑みを絶やさずにいよう。
——せめて。
それから一時間ほどが経過した頃、何者かが扉をノックした。コンコン、と軽い音。
「何でしょう……?」
「きっとバッサよ! 開けてみるわ」
私は速やかにそちらへ駆け寄り、ノブを掴んで、扉を開ける。
そして、唾を飲み込んだ。
「……っ!」
開けた扉の細い隙間から、ギョロリとした赤黒い瞳が覗いていたからである。
リゴールが背後から「エアリ?」と声をかけてくるのが聞こえた。けれど、何か言葉を返すことはできなかった。目の前の不気味な瞳が恐ろし過ぎて。
私はすぐに、扉を閉ざす。
できるなら見なかったことにしたい。
「エアリ? 何があったのです?」
「……バッサじゃなかったわ」
リゴールは怪訝な顔で歩み寄ってくる。
「何なのですか?」
彼はそう問うけれど、すぐには答えられなかった。ほんの一瞬見てしまったものを、どう表現すれば良いか分からなくて。
「化け物でもいました?」
「……そう」
震える唇から、声がこぼれた。
きょとんとした顔をするリゴール。
「え。化け物がいたのですか」
「そんな感じかしら」
「何をご覧になったのです?」
「……目」
するとリゴールは、顔に、驚きの色を浮かべた。
「目、ですか……」




