prologue
暗い森を駆ける。ただひたすらに、駆ける。
夜が来てしまった。
早く村へ帰らなくては。
ちなみに、今がどういった状況かと言うと。
今日は特に用事がなかったため一人で隣街へ行っていたのだが、買い物に夢中になってしまっていて、気づけば夜になっていたのである。
親からは「一人で行くなら日が落ちるまでに帰れ」と言われている。
しかし、もう日は落ちきってしまった。
私はどのみち怒られる。
日が落ちるまでに帰られなかったのだから。
だから本当は、駆ける必要なんてないのだ。
いくら走ったって、説教から逃れることはできない。急いでも、ただ体力を消耗するだけ。無意味なのだ、駆けるなんて。
それでも、ゆっくり歩こうとは思わなかった。
……否、思えなかった。
背後から悪魔に襲われでもしそうなこの森を、のんびりまったり通過する。私には、そんな度胸はなかったのだ。
だから、私は走る。
買った物を詰めた手提げを持って。
しかし、そんな私も、あるものを見て立ち止まった。
「……人?」
森の中にある、今はもう何にも使われていない煉瓦の壁。半分以上が崩れ、苔も生えたそれに、もたれ掛かっている者がいたのだ。
遭難でもしたのだろうか?
そんな風に思いつつ、恐る恐る歩み寄る。
もしかしたら悪い人なのかもしれない。私みたいな短絡的な女は、格好の獲物なのかもしれない。
だが、どうしても気になって、私は歩み寄らずにはいられなかった。
「やっぱり……!」
煉瓦の壁にもたれ掛かり、地面に座っているのは、やはり人間だった。
薄黄色で詰襟という見慣れない服を着ていて、外向きに跳ねた黄色の髪が目立つ、どこか大人びた顔立ちの少年。
彼は瞼を閉じている。
眠っているのか、気絶しているのか、そこは分からない。
話しかけるか否か、迷う。
個人的には興味があるから、声をかけてみたい。しかし、早く家へ帰らなくてはならない。
一体どうすれば——。
迷いに迷い、ついに声をかけず歩き出した時だった。
「……ん」
少年が、唐突に声を漏らした。
私は驚き、振り返る。
それにより、目と目が合った。
「あ」
いつの間にやら、彼は目を開けていた。
意識が戻ったのだろう。
私は最初、このまま行ってしまおうと考えた。今ならまだ、気づかなかったふりをすることができそうだったからだ。が、やはりどうしても放っておけず、結局私は彼のもとへと戻る。
「……目が、覚めたの?」
怖々声をかけてみた。
すると少年は、青い瞳で私をじっと見つめてくる。
「どうかした?」
少年はしばらく黙っていた。何も発することなく、ただひたすらに、私の顔を見上げ続けている。
「えっと……この辺りに住んでいるの?」
前の問いの答えはまだ返ってこないが、次の問いを放つ。すると少年は、今度は小さく「いえ」と答えた。短い返答ではあったが、彼は確かに、私が放った問いに答えたのだ。声が聞こえていない、ということはなさそうである。
その数秒後、彼はゆっくりと立ち上がる——が、急にかくんと膝を曲げた。
私は咄嗟に手を伸ばし、その細い体を支える。
「大丈夫!?」
「はい、ありがとうございます……っ!」
私が支えているにもかかわらず、少年は顔をしかめた。
体のどこかに不調があるのかもしれない。
「大丈夫? 無理しないで」
「……ありがとうございます」
頭上を覆う木々が揺れる。
早く帰れ、と急かされているみたいだ。
でも、今さら「じゃあね、さよなら」なんて言えない。声をかけておきながら途中で放り出すなんて、そんな無責任なことは絶対にできない。
どのみち怒られるのだから、もういっそ、大幅に遅れてしまおう。
「無理に立たない方がいいわ」
「お気遣い……感謝致します」
私は彼を再び地面に座らせ、それから名乗る。
「私の名はエアリ・フィールド。近くの村に住んでいるの。貴方は?」
「わたくしの名は——」
その時、突如、少年が飛びかかってきた。
身構えていなかった私は、二三メートルほど後方に飛ばされ、地面に落ちた。上には少年。地面に押し付けられているような体勢になってしまっている。
急展開に頭がついていかない。
何? 何なの?
そんなことばかりが、脳内をぐるぐると巡る。
——直後、大きな爆発音が響いた。
「な、何が……」
「ご無礼をお許し下さい」
爆風が木々を激しく揺らす。揺らされた木々から、葉が、ぱらぱらと落下してきた。
何がどうなっているのか、本当に分からない。謎が多すぎる。
ただ一つ分かるのは、緊迫した状況であるということ。それは、私に覆い被さっている少年の様子を見ればすぐに分かった。
「一体何が起きているの……?」
震える声で尋ねる。
すると少年は、ゆっくりと体を起こす。
「どうやら、敵襲のようです」
「敵襲!?」
聞き慣れない言葉に、思わず叫んでしまう。
「えぇ。わたくしを捕らえ始末したい追っ手といったところでしょうか」
そう言って、少年は一度振り返る。
「しかしご安心下さい。わたくしとて、何もできぬわけではございません」
少年は私を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
その笑みは優しげで。でも、どこか儚げでもあって。少しでも小突けば壊れてしまいそうな、そんな繊細な笑みだ。
「どうか、お逃げ下さい」
彼はそんなことを言う。
だが無理だ。
儚げな笑みを浮かべる彼を、背もあまり高くなく線の細い彼を、こんな危険なところへ残していくなんてできない。
だから私は、彼の手首を掴んだ。
「貴方も逃げるのよ!」
知り合ったばかりの相手にいきなりこんなことを言うのはおかしいかもしれないと、思わないことはないけれど。
「……な」
「いいから! 急ぐわよ!」
細い手首を掴み、走り出す。
「な、な、何を!?」
「走って!」
少年は戸惑ったような顔をしながらも、足を動かし始めた。
止まっていた時が動き出したかのように、私たちは夜の森を駆ける。背後からは、時折爆発音。しかし、その正体を見ようと振り返る余裕はない。
ただひたすらに走る。
私が選べる選択肢は、それしかなかった。