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やまない雨

作者: 遊楽 逍遥

 「平成最後の夏」――それはいつもより騒々しい夏になる。

 だれがそんなことを言い出したのかわからないが、たいへんやかましい夏になっているなあと、少年は諦観にも似たため息を吐き出した。やかましいのは何もフライングして野外ライブを絶賛開催しているセミたちのせいだけではなかった。

 「あ~ハッカのにおい! スーッとしていいよね。レオくんはいつも虎拡散のど飴持ち歩いてるもんね。そういうところもなんかクールだよね!」

 レオと呼ばれた少年は、手元にあった小説の文字列を追うのをやめて目線を上げた。

 「なにか用?」

 「え~!? 聞いてなかったの?」

 「ハッカ飴は好きだし、集中できるし、のどの乾燥にいいから持ち歩いてるだけだよ」

 「そこじゃないって! もう、わかって言ってるでしょ」

 「わかった、わかった。今度の日曜日に図書館で勉強教えればいいんでしょ。二時くらいにはいるから」

 「ありがとっ! 忘れたりめんどくさがったりしないで来てね」

レオは少女にばれないようにもう一度ため息を細長く吐き出した。

 「あとさ」

 「えっ、何、まだなんかあるの?」

 「あるよ! レオくん勉強の話ばっかりじゃん。もっと違うお話したいなー。えいえい」

 彼女のほっそりとして滑らかな指先が、本を開いたままにすべく頁を押さえつけているレオの指を突っつく。レオはセミにまとわりつかれる木々の気持ちを知ったような心地だった。

 「ほら、飴あげるから。自分の席に戻りなって。もう先生来るよ? ほら、話す内容も考えてなさそうだし、またあとで、ね?」

 「ふむ、もらえるものはもらうのが私のポリシー。今朝のところはこれで引き下がってあげましょう! ってか、レオくん、今、あとで話そうって言ったよね!? 約束だよ? 後で絶対お話しするからね!」

 少女は子供かと言いたくなるような剣幕でまくしたてた後、席に戻っていった。

 そう、いつになく騒々しい夏になりそうなのは、クラスで一番といっても過言でないくらいうるさい女子にまとわりつかれるようになったからである。レオはすっかり読む気を削がれてしまった本を閉じて、窓の外に視線をやった。先程までそばにいた太陽みたいな存在がいなくなったからか、やや涼しく感じる窓際より眺める外は、すっかり夏の装いであった。梅雨の時はあまり会うことのできなかった青空と太陽が存分に自らを主張している。

 雨が好きなレオにとっては、世人が喜ぶこの季節をそこまで歓迎する気にはならなかった。ああもうるさい存在に絡まれてしまうとあっては、その感情もひとしおであった。ほっそりとして形の良い眉を少し下げると、自分がどこで、何を間違えて太陽なぞを身近に招いてしまったのかを反省することにした。



 あれは偶然としか言いようがない出来事だった。レオはあまり人には言えない趣味を持っている少年だった。といっても、別段いやらしいものではない。彼は雨の日に散歩することが好きなのである。

 ――その日は、どしゃどしゃと傘をたたく雨粒がけたたましく、雷鳴すらもかすれてしまっていた。灰っぽい街並みを目的もなく歩く。相棒は味も素っ気もないビニール傘だが、傘の表面を水滴がなぞり落ちていく様は目を楽しませるし、傘越しにうっすらと透けて見える風景はレオにとって好ましいものであった。

 あまり流行っているとは言えない街で、この雨模様だからか、通行人は著しく少なかった。灰色の幕が下りた通りには、墨を垂らしたように黒々とした人影がぽつりぽつりとあるのみだった。打ち付ける雨の調子とは裏腹に、レオの足取りはどことなく軽いものだった。

 公園に差し掛かった時だった。彼の視界に異物といってもいい、いろどりが映り込んだ。それは、静かな暗い海に鮮やかな魚が迷い込んでしまったような印象を彼に与えた。ただ、色彩以上に奇妙だったのは、パステルカラーの女性の足元に、きれいな柄の傘が開いた状態で落ちていることだった。そして、滝行でもしてるのかと声をかけたくなるような有様の女性は、なんだか見たことのある顔であった。

 レオは長いこと相当に間の抜けた顔をしていた。

 滝行少女の正体がクラスメートであるらしいことをレオが悟るまでには、少しの時間を要した。

 さすがに毎日顔をあわしている知り合いを放置して風邪をひかれては寝覚めが悪いと、レオが動き出すまでには、さらに少しの時間が必要だった。

 その不動ぶりは石像みたいだなと、花も恥じらう女子高生に対していささか以上に失礼な感想を抱きつつ、レオはゆったりと近づいていった。

 「大丈夫?」

 レオなりに様々挨拶を考えた結果である。ただ、どう見ても尋常ならざる様子であることは明らかであった。レオは返事を聞く前に地面に置き去られていた傘の柄の土を払いつつ、彼女の上に立てた。

 「……うん、ありがと」

 面を上げた少女の顔は、ひどく切ないものだった。レオの記憶が正しければ、このクラスメートは賑やかが服を着て歩いているような人物であったはずである。それがどういうわけか、物言わぬお地蔵さんのようなたたずまいになってしまっていた。

 長いこと雨にさらされていたのだろう、華やかな黄色いカーディガンは、水を含んで、ずったり、重そうであった。顔を明るくメークアップしたであろうお化粧はかなり流れてしまったように見える。頬は血色を失くし、唇も少し紫がかっていた。軽快に風に踊るはずの前髪は、額にぴったりついて、はなれない。

 「どうか、したの?」

 しばらく間をおいて、絞り出すように、レオは尋ねた。

 「うん、ちょっとね」

 ともすれば雨音にかき消されてしまいそうなほどか細い声だった。レオはあまりこの少女と親交をもっていなかったが、声音が彼女の本調子と明らかに遠いことはしっかりと理解できた。

 「とりあえず、一回座ろう」レオは避難場所として目を付けた東屋に誘導することにした。彼は小柄な頭が隣にいることを確かめながら、ゆっくりと歩いて行った。

 とりあえず、屋根のある所に避難した二人の間を沈黙が支配した。レオはもともと口の多い性分ではないし、少女のほうは言わずもがなである。

 くしゅん。

 空白の時間にしぶきが飛んだ。レオはハッとした。濡れ鼠の彼女は、冷えに体力や免疫力を奪われた状態である、それに加えて、精神にも不調をきたしていることは確実である。

 「家、近いから。バスタオルとかとってくるから。少し待ってて」

 風邪をひかさないという当初の目的を思い出したレオは、急いで家に帰った。

 公園に戻ってくると、彼女は変わらず東屋の隅に座っていた。少女を打ち据えた雨水がしみだして、東屋のベンチと背もたれを黒っぽくしていた。ずっとうつむいたままだったからか、顔や髪から落ちた水滴が、大きな円形のシミを床に作っていた。

 「タオル、持ってきた」

 レオは短く言葉を吐き出した。濡れぼそって明るさを失った茶髪が彼女の横顔に貼りつき、表情を伺うことが難しかった。薄暗い公園の片隅で、彼女の周囲は、さらに暗い雰囲気を醸し出していた。レオはその空気に呑まれてしまい、何があったのかを聞くことは、ためらわれた。

 「タオル!」放心しているのか反応が薄い、というよりほぼ無反応に近かったので、タオルを押し付けるような形で少女に呼び掛けた。

 「あ」

 返事とも吐息ともつかない音が唇の隙間から漏れ出た。少女はやや呆けたような顔でレオを見上げるも、手を動かす気配すらなかった。潤んでいる大きな瞳は、雫をたたえているにもかかわらず、光が散逸していて意志を感じさせない虚ろなものであった。

 これじゃあまるで糸の切れたマリオネットみたいだ――

 レオはいったい何が彼女をこんななりにしてしまったのか、見当もつかない。かといっていつまでも二人して呆然としているわけにもいかなかった。

 「本当に、このままだと風邪ひくよ」

 レオは二枚あるタオルのうち一枚を頭にかぶせ、もう一枚は肩にかけた。

「うん。ありがと」

 少女はゆっくりと頭にあるタオルを動かし、髪についた水けを除いていく。そして、肌の露出している部分を肩にかかったタオルで拭うと、レオに渡した。

 「あ、洗濯して返したほうがいいよね?」

 「や、別にいいよ」

 「ごめんね、迷惑かけちゃったよね。もう、帰るね。今日は本当にありがとう」

 彼女の声はか細かった。しかし、最後はまくしたてるような勢いがあり、レオは少し気圧された。少女は返事を待つことなく立ち上がると、今度はしっかりと傘をさして、東屋の外に足を踏み出した。華奢な後姿がレオの網膜に映り込む。意外に心丈夫な足取りで雨の中にかすんでいく少女をレオは見送ることしかできなかった。その背中に、拒絶するような気配が見て取れたからである。レオの手中にあるタオルは、たっぷりと水分を含み、重たげであった。雨脚はいまだ衰えることなく、絶え間ない雨音だけが、レオの耳の底に響いていた。

 


 翌日、少女は教室に現れなかった。先生によれば、風邪をひいたのだという。この日も朝から雨で、どんよりとした空気が教室に広がっていた。いつもならうるさいくらいで辟易するような快活さでもって休み時間中話し続けるクラスメートが欠席したことも、教室の雰囲気が明るくならないことの一助となっているかもしれない……。

 レオはここまで考えたところで、愕然とした。昨日まではうるさくて鬱陶しいくらいにしか思ってなかった一人のクラスメートがいないことに、今日は引っ掛かりを感じている。雨の中に消えていく小さな背中が脳裏をよぎった。雨の日の邂逅は、レオの脳みそに平常はカンカン照りでうざったい太陽も陰ることがあるのだ、ということを刻みつけた。この日、日課である読書はまるで進まず、授業もどこか上の空であった。

 その翌日は、朝から快晴だった。梅雨の切れ間にいよいよ夏の到来を予感させるような、肌の表面を焦がすような日差しが地上に容赦なく突き刺さっていた。レオはやっとの思いで教室に辿り着いた。今日使える元気はすでに半分を切ってしまったような心持がした。

 「あ、レオくん! おはよっ!」

 教室にもさんさんと輝く太陽があった。エッジの効いたミディアムヘアーは明るめな髪色とも相まってさらさらと軽快に踊り、大きな瞳には力が充溢している。輝くような笑顔を向けられたレオは眩しそうに顔をしかめた。

 「……おはよう。もう、体調は大丈夫なの?」

 「うん! おかげさまで。心配かけたなら、ごめんね。おとといは本当にありがとう」

 レオは妙に勢いづいて迫ってくる少女を何とかかわしながら、席に着く。普段全くと言っていいほど話すことのない二人の会話に、また、なんだかただならぬ事件があったようなことをにおわせる会話の内容に、クラス中の視線が突き刺さった。少女は全く気にした風もなかったが、レオはとてもいたたまれない気分になった。レオは一つため息をつくと、朝礼の時間まで日課である読書をすることにした。

 「レオくんてさ、ほんとに本を読むのが好きだよね」

 レオは平穏な日々の壊れる音を聴いたような気がした。雨の日の礼はもう受け取ったので、もうかかわることもあるまいと思っていたところだったが、どうやら先方にその気はなかったらしい。少女は話しかけようとしていたクラスメートを避けて、わざわざレオの机の隣にやってきた。少女の足取りには元気がみなぎっているのが見て取れた。

 「まあ、嫌いではない」

 「あ、その言い方すごくレオくんぽいね」

 「……」

 レオの心中はあまり穏やかではなかった。なぜこの少女はここまで自分に話しかけてくるのか。いったい何が彼女の気をひいているのか。雨の日の記憶を手繰ったところで、たいした言葉をかけたわけでも、彼女の心をいやしたわけでもない。

 「あ、別に嫌味ってわけじゃないんだよ? レオくんてなんか物静かな感じがするし、なんか、クールっていうか……」

 照れたように語尾がしぼんでいく。少女の頬がわずかに紅潮しているようにレオには見えた。しかし、なぜ照れているのかレオには皆目見当もつかなかった。

 「えっと、まだなにか用とかあった?」

 「えー、用がないと話しかけちゃいけないの? 私、レオくんとお話がしたいなあって。あと、できれば勉強とか見てほしいんだよね。レオくん頭いいから」

 「……勉強か。暇な時なら教えてあげる」

 レオは少し得心のいった様子で答えた。絡まれる理由にひとつ心当たりができた彼は、少女に頭がいいと褒められたことを否定せずにおいてしまった。

 「やたっ! じゃあ昼休みに数学教えてね!」

 レオは、担任が教室に入ってくるのとほぼ同時に身をひるがえすクラスメートの姿を見送りながら、これからあの少女に絡まれ続ける未来を想像した。確かに、絡んでくる理由はよくわからないが、少し騒々しいくらいの明るさでもって話しかけられることは気分の悪いことではなかった。同時に、あの日に何があったのか、知りたいと思う気持ちも大きくなっていることを自覚していた。

 「おいこらレオ! 何イチャイチャしてんだよ!」

 「うわっ」

 少し口元が緩んでいたかもしれないレオの頭がラグビー部に入っている友達のごつい腕で締め上げられ、レオはたまらず悲鳴を上げた。

 レオが思わず向けた視線の先では、あの少女が一瞬目を丸くした後、花が咲くように笑っていた。ただ、その笑みに少しのにやけが混ざっているのを認めたレオは、クールだとかなんとかはそっちが勝手に言っているだけだろうと心中で憤慨していた。



 人間万事塞翁が馬という。これは、「にんげん」ではなく「じんかん」と読むのが通らしい。要するに、いいことがあった後は悪いことが起こるということだ。もちろん、その逆もある。

 何だかんだ僕は彼女のことを受け容れていった。彼女と騒々しく過ごす日常が当たり前のものになり、あの大雨の日に見た彼女の姿は夢幻のようにかすんでしまっていた。最初抱いていた疑問の多くは、水たまりが日光によって蒸発するみたいに消えていった。彼女とつるむようになってからすぐ、梅雨明けが発表された。もちろん偶然だろうし、彼女も私そんなすごくないよーと笑っていた。僕も、好きな雨の日は減ったけど、心がポカポカするような少女と日々面白おかしく過ごせるなら、それも悪くないと思うくらいだった。

 あの少女は、これまでに親交を持った人間の中にはいないタイプの人だった。少し子供っぽいところもあるけれど、底抜けに明るい性格は魅力的だった。……僕は何を考えているんだろう。

夏季休暇初日たる今日も、快晴の予報だった。

 だが予報は外れ、今は、雷鳴とともにすさまじい量の雨が僕の体に降り注いできている。

 「大事な話がある――」

 彼女はそう言っていた。珍しく改まった調子で言ったものだから、聞いてる僕まで少し緊張してしまった。いつも目元を緩めている彼女が、眦を決した、というと少し大げさすぎるけど、いつになく真剣な表情をしていた。図書館で勉強していた時の休憩中のことだった。

 奇妙な邂逅から始まった微妙な距離の関係は、確かに縮まっていった、と思う。というか、あちらのほうは最初から妙になれなれしい感じがしたので、僕のほうが歩み寄ったというべきか。いつも明るくて元気をくれる彼女と一緒に過ごすうちに、惹かれていった。パズルの凹凸がかみ合うように、感じていた。ひょっとしたら、なんて思うこともあった。

 ――でも、彼女は来ない。

 快晴の予報に反して、空が薄暗くなってきたのは集合時間の四十分ほど前だった。電車で一駅の大きめの町で待ち合わせをしていた。ちょうど家を出るころ、空が薄暗くなり始めた。集合時間の二十分ころ前から、大粒の雨が降り始めた。少しだけ、不安を感じた。傘は持っていなかった。降りしきる雨の中、僕は待ち続けた。スマートフォンを見ても、何の連絡も入っていなかった。仮に風邪を引いたにしたって、連絡の一つくらい寄越せるはずだ。まさか交通事故に? いや、そんなはずはない。僕の頭は悪い考えに支配されていった。雨が強くなればなるほど不安は肥大していく。驟雨にさらされ続けた僕の服はぐっしょりと濡れて、重い。まるで、

 「まるで、あの日みたい」

 つぶやくようにして小さく漏らした声は想像以上にかすれていた。小さく開いた唇の間から雨粒が侵入してくる。雨に味なんてないんだろうけど、ひどく苦々しく思えて、舌の上にはざらりとした感触が残った。

 そういえば、「あの日」も暑かった。そして大雨が降った。僕の奥のほうに沈んでいた遠い日の忌まわしい記憶がその桎梏から解き放たれ、脳裏を侵食し始めるのを抑えることは難しかった。



 「あの日」はうだるように暑い夏休みの直前だった。小学校の頃の話だ。それなりにみんなませてきて、コイバナも各所で囁かれるようになった、それくらいの時。とあるクラスメートの女子から、花火大会に行こうと、誘われた。場所取りをしなきゃいけないからと、花火大会の三時間前に集まることにした。誘ってきた女子はクラスの中心的な子で、少し、派手なところがあったように思える。が、当時の僕からすると、なんだか大人びて見えて、誘われてとても舞い上がった気持ちになったことを覚えている。翼がなきゃ舞い上がったって落ちるだけだというのに。

 僕は律義に三時間前に集合場所へ行き、レジャーシートを敷いた。その場所は打ち上げ場の正面に位置していて、もし花火が打ちあがったのなら、存分に堪能できたに違いなかった。レジャーシートはきっかり二人分の大きさであった。僕はその片方に座り、あの女子を待った。しかし、いつまでたっても女子は現れなかった。場所取りは暑さとの闘いである。灼熱の日差しが照り付ける中、僕は必死で待ち続けた。若干意識も怪しいところがあったかもしれない。僕はあの女子のためにだいぶ頑張ってたと思う。でも結局、打ち上げ開始時刻の一時間前になって、あたりが薄暗くなってきても、姿を見せることはなかった。

 僕は、事ここに至って騙されたという事実を飲み込み始めた。考えてみれば、何の脈絡もなく誘うはずがない。とても情けない気持ちになった。頬が熱い。耳の裏まで熱くなっている。日差しも気温もすごかったけど、この熱さは体の中心からふつふつと湧き上がってきて肌を内側から焦がすようだった。夏休み前とはいえ、まだ学校に行く日数は残っている。明日からどんな顔をして学校に行けばいいのか。気持ちがぐるぐると回る中、唐突に後ろから姦しい声が聞こえてきた。

 「えー、さすがにもういないっしょ」

 「いや、アイツはアタシが誘った時、ウチのペットみたいな顔してたから、まだいる気がするんだよね~。ステイッ! なんちゃって」

 「それウケる! って! あれ見て! あそこにいるのアイツじゃね?」

 「お、マジでいるじゃん。でしょ! アタシが言った通り!」

 振り返ると、その女子のグループである4人がこちらを見つめていた。

 一番合いたくない奴と目が合った。僕の怒りに油が注がれたようだった。

 「だましたのか」僕の声は震えていた。

 「え~、別にだましてないじゃん。ほら、こうやって来てあげてるし?」

 女子はわざとらしい調子で言い放った。これに対して、わ~やさし~と合いの手が入る。僕は血潮が頭のてっぺんまで登っていく様子を手に取るように感じることができた。ふざけるな。

 「ふざけるな! なんでこんなことをしたんだ!」

 女子たちは、僕の剣幕にたじろぐ様子もなかった。周りの見物客から奇異の目で見られることにもまるで頓着した様子はない。その女子は、幼い瞳にある種酷薄な色を浮かべてこう言った。

 「なんでって、じゆーけんきゅーかな」

 その目は、虫や植物でも見るような、無機質なものだった。

 「なんか、クラスのおとなしい男子を、デートに誘ってみて、それを冷かしたらどんな反応するのか気になったんだよね~。いやーダンシってバカね、バカ。てか単純? だって、フツーに考えたらたいして話してもないアタシがアンタを誘うわけなくない? あ、レジャーシートのそのスペース、もしかしてアタシが座るためのやつ? あ~一緒に花火見ようとか思っちゃったんだ。わ、すっごい顔してるね。普段おとなしいくせに、怒るとそんな顔するんだ。勉強になったわ、ありがとっ。じゃねー」

 怒りで目の前がちかちかするほどであった。バイバーイと手をひらひらさせて踵を返す女子どもを見ながら、あまりの情けなさと憤りに涙が止まらなかった。この視線で殺せるものなら殺してやりたいくらいだった。

 その頬に、ぽつりと、雫が落ちてきた。もともと僕の周辺は子供たちの巻き起こした珍事によって異様な雰囲気に包まれていたが、それとは別な理由でざわざわし始めた。さきほどまで晴れていた空には、薄暗いながらも黒々とした雲が覆いかぶさるようにこちらへと向かってきているのが確認できた。その後雨脚は激化の一途をたどり、土砂降りになってきた段階で、花火大会中止の放送が鳴り響いた。

 僕の燃え滾る感情が、降り注ぐ雨によって鎮火されていくような心地であった。蒸気でも出るんじゃないかと思うくらいだった額の熱も冷却されて気持ちがよかった。やがて、体の内側で暴れるように脈動していた怒りも、少しずつ散っていった。

 そう、雨はすべてを洗い流してくれる。理不尽な女子に対する怒りも、自分の情けなさに対する激情も、そして、忌々しい花火大会も、すべてが空より落ちる大量の水によってどこかへと消えていってしまった。

 僕はこの日以来、雨の日が好きになった。花火はあれから一度たりとも見に行ってない。



 あの少女は、こんなことをするようには見えなかった。そこまで長い付き合いというわけではないが、日々顔を突き合わせて、会話して、勉強した。逆に言えばその程度のことしかしてなかったのかもしれないけど、彼女の人となりはある程度つかんだつもりでいた。頭の片隅が、彼女が何らかの事情で来れない可能性を叫ぶ。だが、やはりその可能性は低いはずだった。高度な通信網でつながれた現代において、連絡がこないなんてことはほぼありえない。

 「彼女は、「あの女子」とは、違う」

 僕の声は驚くほどに弱々しいものだった。違う? 本当に違うのだろうか。そもそもなぜ彼女は僕にかまうようになった? 最初は変だと確かに認識していたはずだ。いつから、いつからそれを忘れてしまっていたのか。僕が彼女にしたことは、傘を拾ってタオルをかけただけ。それだけで僕に好意を抱くなんてことがあるのだろうか。僕が太陽である彼女に向って築き上げてきた好意の塔は、実は張りぼてだった? 

 僕の頭を殴りつけるかのような勢いで落ちてくる雨粒は、僕の中の塔を打ち壊しにかかっている気がした。僕が好意を寄せるようになったのは、彼女からの無条件といってもいい好意の反射だったのかもしれない。僕はあくまで受け身であった。彼女のことを太陽のようだと思っていたが、その好意は果たして僕だけに向けられたものだったのか。考えてみれば、太陽は誰に対しても光を与える存在である。

 気持ちの整理が全くと言っていいほどつかない。幸いと言っていいのか、「あの日」みたいに、どっきりテレビのネタばらしよろしく本人が眼前に現れることはなかった。単に大雨だから来るのも嫌になっただけかもしれないけど。

 僕はそれからしばらくして、家路についた。



 私は、雨の日が嫌い。まあ、そもそも雨自体、基本好まれないと思う。じめじめしてるし、普通にぬれると風邪をひいたり衣服をだめにしたりするし、泥にはまみれるし。激しくなれば災害にだってなる。

 決定的だったのは、私の心が大雨の日に断線させられたことだった。

 私は、自分で言うのもなんだけど、少しうるさい。明るいね、と言われることのほうが多いけれど、「あいつ」にはそう映らなかったのかもしれない。「あいつ」。今となってしまっては、なんで好きになったかもわからなくなってしまった人。私の顔が好みだった、というのは聞いた。でも付き合ったら無駄にガキっぽくて、カワイイと思えなくなったんだって。なにそれ。で、ほかに彼女ができたって。なにそれ。

 公園に呼び出された時点で、おかしいとは思った。「子供」な私が行ったことないようなところに、いつも「あいつ」は私を連れ出した。「あいつ」は私を「大人」にでもする気だったのだろうか。おあいにくさまってね。

 鏡に映る私の姿は、結構キマッテいた。ファッション雑誌から切り抜いたような格好――というか、真似しただけなんだけど。暑いし、レオくんが好むかなと思って、できる限りシンプルになるようにまとめてみた。でもアクセントに普段使わないサングラスなんて掛けちゃって、ちょっとフェミニン。私は恋に燃える雌ガール。

 なんて言えるのは、あくまで格好だけのことだった。

 鏡に映る私の顔は真っ白だった。計算したメークによって色味を整えたはずの顔面は、そもそもの地肌が蒼褪めたことによって、違和感がすごい。鮮やかな色のリップが妙に浮いて見える。

 窓を突き抜けて耳に届く雷鳴が、心臓をわしづかみにしてくる。可愛いファーのついたサコッシュのひもを握る指先が冷たく、しびれたように感じる。部屋の中に入ってくる光が秒ごとに少なくなってきた。いや、私の視界がおかしいのか。世界から色が失われていくのがつぶさに感じ取れる。飛行機で高いところを飛んでるときみたいに耳の底までふさがってしまうような気がして、無駄に整わない脈動だけが脳みその中に響いていた。

 雨だ。

 大雨だった。

 部屋の中にいてもわかるほどの雨の音がする。家の近くの駅で待ち合わせるからって、油断しすぎたのがいけなかったのかもしれない。ぎりぎりまで身だしなみのチェックをしようと思って。その結果、私は深海にでもいるような感じになってしまった。暗くて、体が重くて、自分一人では動くこともできない。向かうべき方向もわからない。呼吸も浅くなって、もがくような気持ちだった。あの日、公園で犬でも捨てるみたいに別れを一方的に通告された時の感覚がよみがえってくる。「あいつ」は知らない人みたいな顔をしていた。事実、私は「あいつ」の本当の心を何一つ理解してはいなかったのだけど。

 外でひときわ大きな雷鳴が響き渡った。パッと、視界が開ける。手元の時計が集合時間を三十分も過ぎてしまったことを知らせてきた。レオくんは、あきれてもう帰っちゃったかもしれない。突然足に力が入らなくなって、膝から崩れ落ちてしまった。いったん明瞭になった視界も、夜明け前にまどろんでしまった時みたいに、急速に光を失っていく。体は震えてしまって、まるで力が入らない。底のない沼に沈み込むように、意識が暗闇に飲まれていくことだけしか、私にはわからなかった。



 夜、僕はSNSで連絡を取ることにした。雨はもう上がっていた。

 表示される「友だち」の中から「マナ」をタップする。ペットだろうか、少しごつい犬とツーショットしているプロフィール写真が浮かび上がってきた。ペットという単語を思い浮かべるだけで「あの日」の女子の視線を思い出し指が鈍る。厭な気分が心中にもくもくと広がる。ともすれば震えそうになる指先で文字を打った。

 「なんで来なかったの」想像以上に責めるような文体になった気がする。

 しばらくして、返信が画面にポップアップした。

 「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

 彼女が僕の言葉をどう受け取ったのか、おおよそ想像がついた。彼女の言葉は何の説明にもなっていないが、「あの日」のような、最悪の状況になるようなことは無さそうで、スマートフォンを持つ手に少し力が入った。

 「でも、少しうれしい。レオくんから連絡してきたのって、これがはじめてだよ?」

 背中に電流が走ったような気がした。一瞬痙攣した僕は思わずスマホを取り落としてしまった。そうだった。僕は「マナ」に一度たりとも自分から話しかけたことも、会う約束をしたこともなかったのだ! 唯一僕から話しかけたのは、あの公園のときだけだった。僕の基本的な態度は、受動だった。いつもマナからの行動に巻き込まれたり、付き合ったりしていた。

 でもなぜ今になって、このタイミングで、自分からマナに連絡を取ったのか。僕は自分の心に正直にならなければいけなかった。雨降りの僕の心に、いつの間にか棲みついた太陽がいることを自覚しなければいけなかった。先刻の待ち合わせをすっぽかされたくらいでは、崩壊しなかったマナに対する好意の塔の強靭性を確認しなければならなかった。

 僕は、何か返信しなくてはならないと思い、スマホを手に取った。

 「レオくんには、ずっと話そうと思ってて、言えなかったことがあります。

 私には、ついこないだまで、付き合ってた人がいました。公園で、レオくんに助けてもらった日にその人に振られました。そして、レオくんに出会いました。

 誰でもよかった、とは言いません。私を助けてくれたのが、たまたまレオくんだったから、縋り付いたのだと思います。

 レオくんは、クールで、私がワーッとはしゃいでも、仕方ないな、みたいな顔をしてくれて。前の彼氏には受け容れてもらえなかった騒がしさを、いっぱいだしても、やさしい顔でいてくれてうれしかった。公園の日のことも、結局何も聞かないでくれたし。

 レオくんと一緒に居れたから、つらいことも忘れていられたの。

 でも、今日、大事な話をしようと思って、緊張してたら、雨が降ってきて、あの公園のことを思い出しちゃって、行けませんでした。

 だから、ごめんなさい」

 「っ!」

 僕は気づいたらスマホをベッドに向かって投げつけていた。スマホはベッドで一回跳ねて壁にぶつかり、鈍い音をたててベッドの上に転がった。訳が分からなかった。僕は彼女にとっての何だったのだろうか。虫歯治療で削った歯に詰め物をするような感じで、彼女の心の隙間を埋めた存在に過ぎなかった、ということなのだろうか。僕は彼女の心を慰めるための道具であった。まるでぬいぐるみである。確かに僕は彼女に何らアプローチをしなかったのだから、ぬいぐるみというのは言い得て妙か。本当は薄々わかっていて考えなかったようにしていただけかもしれないという変な考えが僕の心の中に起った。

 彼女に悪意はなかったのかもしれない。彼女だって傷ついて、苦しくて、たまたま寄り掛かれるものがあったから使った。それだけのことなのだろう。僕だって自分から彼女に積極的に関与することはほとんどなかった。そのことを差し引けば、彼女を一方的に責める権利なんて僕にはないのかもしれなかった。

 でも僕は、愚かにも彼女に、マナに、惹かれてしまっていた。大事な話があると切り出されて、待ち合わせしたいと言われて、また、舞い上がってしまったのだ! 大事な話というのは、今のメッセージによれば、僕がほかの男の埋め合わせに過ぎないとかいうものだったが……。彼女が僕に寄せていた好意らしきものの根源がひどく薄弱であることが暴露された今、僕は単に彼女にのぼせ上っていた、とんだ道化であることをも白日の下にさらされることになった。今日だけで、僕の気持ちは何度浮き沈みしたことだろうか。精神の均衡はジェット気流に呑まれてしまった飛行機のように不安定だった。ベッドの上に転がっている金属板が、ひどく汚らわしいものに見えて仕方なかった。

 「ふうー」

 少し呼吸が激しくなりすぎたのか、視野が狭まっていたことを自覚した。

 「もう、寝よう」

 僕はこれ以上考えるのが厭になり、ベッドにもぐりこんだ。



 私が目を覚ましたのは、スマホが甲高い音を立てたからだった。何かメッセージでも受信したのかなとスマホを手に取ると、レオくんからメッセージが来ていた。今日来なかったことを責めるようなことが書いてあった。そりゃ怒るよね。何の連絡もしなかったんだから。

でも、少しうれしくなっている自分もいた。私はたぶんうざいくらいにレオくんに絡みまくったけど、レオくんからというのはあんまり、というかほとんどなかった。

 まずは謝罪と、うれしい素直な気持ちをタップして送った。

 そして、今日話そうと思っていた大事な話の前半を書いた。少し長文になっちゃったし、連投する形になってしまったので、一度レオくんからのレスを待つことにした。既読もついてるし、すぐ返信が来るはず。

 「あれ?」

 20分経っても、返信は来なかった。

 「なんかまずいこと書いちゃったかな」

 何度も自分の送った文面を読み返す。実際に顔を合わせて話してるわけじゃないから、伝わりにくいところもあると思うけど、自分なりに書くべきことを書いたつもりだった。不安が風船みたいに膨らんで、心が苦しい。真っ黒なスマホの画面を見ても、レオくんの気持ちを欠片もうかがい知ることができない。鏡みたいにピカピカのスクリーンは、私の顔を映すだけだった。目の前にレオくんが居ないことがもどかしい。

 またこちらからメッセージを送っても、返信してくれるかわからない。スマホを力いっぱい握ったって、振り回したって、レオくんにつながるはずの糸が見えない。電子の糸は確かにレオくんのところにつながっているはずなのに。いつでも連絡が取れるからこそ、既読がついたからこそ、なぜレオくんからの返事がないのかわからなくて、居ても立っても居られない気持ちになる。

 もう一度、SNSのメッセージ画面を立ち上げる。かわいい「ぐでっとしたタマゴ」でカスタマイズされたメッセージボックスが表示された。

 「返信してくれないのは、怒ってるから? それとも、がっかりしてる? 私には、今のレオくんの気持ちがわからない。でも、わかりたい。返信ください」

 ひとつため息をついた。ほんのちょっと、気持ちが落ち着く。レオくんがため息をよくついていたことを思い出して切なくなった。私が騒いで、レオくんがため息をつく。これが私たちの関係を象徴するパターンだった。だから、今回のメッセージにも、レオくんはため息をつきながら、仕方ないなって返信してくれると思っていた。

 今度は、既読すらつかなかった。

 夜が明け、お昼になっても一切反応がなかった。

 私は、気づけばレオくんでもないただの通信機器に虜にされてしまっていた。いつ既読がつくか、返信が来るか、気になって気になって。スマホを片時も手放すことができなくなってしまった。私が後生大事に握りしめているものは、レオくんでも何でもないのに。磨き上げられたスマホの背面の風合いがクールで、レオくんに見えてきちゃったりして。このままレオくんから返信がこなければ、次に会うのは二学期になってしまう。しかも、そんなに間があいてしまったら、なんて声をかければいいのか、きっとわからなくなって、他人になる。それは嫌だった。

 私にとって、あの大雨の日の公園での出会いはそれだけ大きなものだった。レオくんにとってはただクラスメートを助けただけかもしれないけど、あの出会いは、間違いなく私を救った。何も聞かないでくれるレオくんのやさしさが断裂しかけた私の心を癒してくれた。それでいて私が風邪をひかないように、多少強引にでもタオルを押し付けてくれた気遣いがとてもうれしかった。結局風邪はひいちゃったけど。

 そんなレオくんだから――

 一度でいいから、今、どうしても直接会って話がしたかった。

 「大事な話、したい。これだけは、直接会って伝えたい。お願いします。もう一度、チャンスをください。できれば、今日にでも」

 今日は、レオくんを誘おうと思っていた花火大会の日。誘えずじまいでいたけど、もし今日会えたなら、仲直りして、花火を見たい!

 既読がついた!

 私は思わず唾を飲み込む。緊張して待つこと、数分。

 レオくんから返信がきた。――って、え?

 「え? なにそれ」思わずつぶやきとなって私の口から言葉が滑り落ちた。びっくり。レオくんからこんな言葉が返ってくるなんて。

 でも、これで覚悟が決まった。

 「いいじゃない。受けて立つ!」

 私は急いで出かける支度を始めた。今日は私の最終戦争。できうる限り精一杯の準備をして、臨まなきゃいけない。今度こそ完全にレオくんを惚れさせてやるんだから。今の私はもう無邪気なだけの明るい少女ではない。私は恋に燃える雌ガール。狙った獲物は、どんな手を使っても逃さない。なんちゃって。



 夕暮れ迫る河原で、一組の男女が向かい合った。

 口火を切ったのは、男――レオだった。

 「なんだか妙に人出があると思ったら、今日は花火大会か。まあいいや、大事な話の残りが聞きたい。あのSNSの内容が半分っていうのは本当?」

 「レオくん! 私は今ちょっと怒ってるよ」

 「は?」

 「大事な話の前半は、SNSで送った通りだよ。なんで私がレオくんにたくさん話しかけたり、勉強教えてもらおうとしたりしたか、その理由。でもね、後半の、一番大事な話は、私が、レオくんを好きだっていうことだよ!」

 「……」レオは石像のごとく立ち尽くしている。そんなレオの様子を気にした風もなく、マナはまくしたてた。

 「それをさ、私は直接会って言いたかったの! なのにレオくんてば「そこまで言うなら、大事な話の残りを聞くよ」って、何様!? 私が本当に話したかったことは、残りなんかじゃない! こっちこそが、本題なの!」

 マナは怒鳴るようにしゃべったせいか、呼気が荒くなり、肩で息をしている。一方のレオと言えば、真正面から暴風が吹いてきたかのような有様であった。肩はこわばって少し身をすくめるような状態であった。しかし、マナの騒ぐに任せていたレオにも、言いたいことはあった。レオは昂りそうになる感情を抑えるために、軽く奥歯のかみ合わせを確認した。

 「い、いや、ちょっと待ってほしい。その、マナが僕のことを、す、好きっていうのは分かった。まったく理解できないけど!」「え?」「考えてみればおかしな話さ。ああ、おかしい。君は僕を傷薬かなんかと勘違いしているんじゃないか。君が大雨の日に来れなかったわけはよくわかった。辛かったんだろうさ。君はあの日目の前にいたのが僕だからこそ、僕に、その、惚れたといった。それって本当なの? 違う人でも同じようなことをするだろうし、僕じゃなくたって別によかったんじゃないか」

 レオは一気にまくし立てた。平生の彼からは考えられない長文を一息で話し切った。レオは心臓が痛いくらいに鼓動しているのを感じていた。同じ脈拍でこめかみがびくびくと動き、まばたきもその回数を増した。話しながらレオは腑に落ちる感覚を味わっていた。レオが異性として気にしていた少女は、明るく笑い、いい意味で何も考えていないような人物だった。そこにはある種の処女性があった。だが今現在レオの目の前にいる女は、男に袖にされた日に、自分に惹かれたのだという。太陽に月がかぶさって真っ黒になってしまった、とレオは思った。そこにレオは激しい怒りを覚えるのだと、自覚した。

 マナはそんなレオをきょとんとした風で見遣っていた。それから、口の端っこのほうをくっと持ち上げた。次いでレオを観察するように細めた瞳には、レオがこれまで見たことないような光が宿っていた。

 「ふうん」

 「なんだよ」

 「うぶだなって」

 レオの目がつりあがった。

 「そんな顔するレオくんも結構好きかも。私が怒ってる、って言ったとき、変な顔してたけど、その理由が分かった。SNSでは他人行儀なこと言ってくれたなって思ったけど、その気持ちがやっとわかった。レオくんは私にがっかりしてるのね。それも、がっかりポイントは大雨の日に行けなかったことじゃなくて、私がレオくんに仲よくしようとした理由がレオくんの期待を裏切ったから」

 レオはむっつりと黙り込んでいる。眼を鋭くして、マナの唇のしわ一つまで見極めてやろうという意気であった。

 マナはそんなレオの様子を面白そうに眺めた後、しわなど見当たらない、艶やかに彩った唇を、ゆっくり開いた。レオには唇が狡猾な光を帯びたように感じられた。

 「そう、私にほかの男の手あかがついているのもなんとなく気に入らないし、まるで前の彼氏の埋め合わせみたいに扱われるのも、もっと気に入らない。そんな感じでしょ。でもね、レオくんにはこういう経験がないからわからないかもしれないけど、あの公園の日は、特別なんだよ。突然視界が奪われて混乱してた時に、手を引いてくれた。レオくんから見たら、ただの人助けなんだと思う。それに助けられた私が、どんなに救われたか、わからないんでしょ。レオくん、うぶだから。もっとクールで、そんなこと気にしないかと思ってたのに」

 「前から言ってるけど、クールってのはあくまで君が勝手に押し付けてきているだけだ」

 「君じゃない、私はマナ」

 「っ、マナ。僕にだって言いたいことはある。マナが僕に恋しているのは、錯覚の産物にしか思えない。さっきも言った通り、あの大雨の時傘を差しだしたのが僕でなくっても、マナはその人に恋をしたんだろう。しかもそれは、前の男の埋め合わせだ! 僕にはそれが気持ち悪い。マナが恋をしている人間は本当に僕なのか? その確証が持てないんだ」

 「平行線だね。ぶっちゃけさ、理由なんてどうでもいいと思うんだよね、私。ねえ、私と過ごした時間は楽しくなかった? ちゃんとした理由がないと私のことを好きになれないの?」

 レオはしばし語る言葉を失った。胸中には、今や遠い日にも思える騒がしい日常の風景が去来していた。楽しい日々であったことは間違いなかった。

 「けど――」

 「けど、学校の時の私と、今の私は違う人間?」

 蠱惑的な瞳がレオを見上げていた。レオは視線も心もそこへ吸い込まれてしまいそうになった。目の前にいるマナという女は、レオが見てきたどのような人間にも当てはまらないように思えた。その印象はマナを底抜けに明るいだけと思い違いをしていた時よりも一段深まった。

 「そんなことはない。私はずっと私。だって、レオくんを好きだというこの気持ちは一貫しているから。性格とが一致していないように見えるってレオくんは思ってるかもしれないけど、レオくんと私はそんなに長いこと一緒にいたわけじゃないし、仕方ないと思う。でもやっぱり、私はレオくんが好き」

 レオはすっかり呼吸を忘れていたことに気づいた。マナと一緒にいて楽しい時間を過ごせたことに偽りはない。そしてマナの言う通り、その付き合いは楽しくも浅いものだった。なにせレオのほうから連絡を取ったのは、待ち合わせがうまくいかなかった日だけだ。いつもマナのほうからアプローチを受けて、レオが応じるというだけの関係。ただ、連絡を取ろうと考えたのは、目の前の少女に想いを寄せていたからだった。確かに、レオが「うぶな」感傷に引き摺られないで見れば、相思相愛のカップルが誕生するはずである。ただ、それでも、ボタンを掛け違えたような違和感がレオの背中にのしかかっていた。どうにも、レオにはマナの「好き」が独り歩きしてしまっているように思えた。

 レオは一度ため息をつこうと口を開いた。そこへ、水滴が飛び込んできた。二人は弾かれたように空を見上げる。すでに日は暮れようとしていたが、夕焼けの名残をかき消すように暗雲が空に立ち込めていた。土手のほうでは、花火が中止になるのではないかと、少し騒ぎになっていた。

マナが震えている。つい先ほどまで意気軒昂であった彼女の面持ちは、蒼褪め始めていた。レオはハッとさせられた。レオの服の裾を、マナがそっと握った。雨が強まる。

 「レオくん、私、雨が嫌い。普段はそんなに気にならないけど、こういう時は、だめ」

 「うん。それは、わかってる。マナが来れなかったことについて、僕は責める気になんてなれないよ。でも」

 「でも、私を好きになるのに、ためらいがある?」

 レオは、震えている少女を目の前にして、うんとは言いづらかった。

 黙り込んでしまったレオに、マナがやさしく声をかける。

 「レオくんは、私がレオくんに恋してる確証が欲しいって言ったよね。それなら今ここで確かな証拠をあげる。

――ねえ、キスしてよ」

 それは甘い毒だった。レオの脳みそに皮下注射された、甘美な毒だった。

 そこにあるのは、熱に浮かされたような、危険な輝きに満ちた瞳。

 レオは怖くなってしまった。ここで進退を間違えれば、二度とマナとの関係は望めまい。しかし、どうしても「あの日」の「あの女子」の無機質で冷酷でさえあった笑顔が脳裏によぎる。このまま流されてしまって良いのか。この違和感を置いたままにしても良いのか。また騙されて、地面に堕とされてしまうのではないか。……。

 天より激しく降り注ぐ雨粒が、レオの考える力を奪い去っていく。この時、世界は二人だけのものになった。視界は雨に霞み、耳も雨音にふさがれた。レオの裾をつかむマナの手に尋常ならざる力が入り、指が真っ白になっている。マナはぐっとレオを引っ張った。

 レオは頭が真っ白になった。意識が脳みそのてっぺんのほうまでのぼせ上ってしまっていた。すぐそこにある可愛らしい顔は、雨粒が滴って生々しく潤っていた。ほっそりとして形の良い鼻筋に雫がすっと流れた。それを目で追いかけたレオは、雫の終着点である、あでやかに主張する唇を見つめないではいられなかった。マナはただレオを見上げ続けた。

 レオは、考えるのをやめた。

 考えなしのレオが身を任せたものは、獣欲といっても過言ではなかった。

 雨中にけぶる影は、ほどなく一つになった。

 しばらくして雨は弱まり、小雨程度になった。

 「ねえ、レオくん」

 「なに?」

 「花火、行こっか。あ、ハッカの飴ちゃんちょうだい」

 「うん。花火、上がるんだね」

 「そうだね。あ、手、つなご?」

 「うん」

 花火をできる限り近くで見ようとするのはみな同じであるので、会場に近くなればなるほど混雑は度を増した。マナがレオに絡み、レオがこれに静かに応じる。いつもの光景だった。一つ違うことがあるとすれば、二人の距離が近いことだった。

 花火が打ちあがる――

 思いのほか近くで打ち上がった花火は夜空に大輪の華を咲かせた。少し遅れて、鼓膜を頭の中心にまで押し込んでしまいそうな爆音が、おなかの中をかき混ぜるように轟いた。数々の華が夜空に咲き定まり、世界を揺るがすように響き渡る。それは、すべてが非日常に溶け込んでいくような光と音の祭典だった。小雨など吹き飛ばしてしまうようなパワーで天空を一時賑わせた。二人は場所を取っていたのではないため、そう長いこと見ることはできず、人の流れるままに会場を後にした。

 二人の後ろでは、まるで太陽のような光と熱が何度も何度も無邪気に空へと舞い上がっていた。しかしその「太陽」は刹那のうちに空気中に散じていってしまう。そしてそれを埋めるように間髪入れずにまた打ち上がっていた。雨はいまだやむことなく、しとしとと二人の背中に降り注いでいた。レオの心中には、雨のやまない夜空に、花火が打ちあがる情景が映し出されていた。その風景に、もはや太陽は失われていた。満足げな表情で、半分もたれかかるようなマナを支えるレオの肩は、レオ自身も知覚しないうちに、こわばって固くなっていた。


お疲れさまでした

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