リサイクル
水洗いの音の合間に、外からスピーカーで声がする。古いステレオ、テレビ、パソコン、バイクなどはございませんか。無料にてお引取り致します。洗い物を片付けながら、そうだ。最近は粗大ごみも捨てにくくなった。この町も、有料化の方向に向かっている。だからこそ、無料でごみを回収するということが、商売になる。時代が変わると、色々なことが違ってくる。うちにも、引き取ってもらいたい粗大ごみがある。有料でもいいから引き取ってもらいたいものが。そんなことを考えていると、続きになっている居間のソファから、寝返りをする気配と、うーんと伸びをする声。それから、起き上がったらしい。息子の亮太はテレビを観ている。その側で夫は、何やらテーブルの上や衣装ダンスの上などを調べている。
「おい、あれ、どこやった」
「あれって」
「ほら、この前、来ていたチラシの」
チラシの郵便など毎日のように来る。
「捨てたのか」
「知らないわよ。朝、忙しいから、何気なく片付けたんでしょう。いちいち覚えてない」
「何で、そう、すぐすぐに捨てるかな」
夫の言葉に、
「そんなのテーブルの上に放っておいたら、片付けるに決まっているでしょう。大切なものなら自分でちゃんと取っておけばいいじゃない」
亮太がすっとリモコンを持つと、テレビの電源を切る。さりげなく席を立つと、二階の自室へ移動する。それを見ながら、まずいな。だけど、一旦口に出された愚痴は消えてくれない。亮太も小学校四年生になり、最近では、二人が言い争いを始めたら、避けるようにその場を離れていく。夕食時も、だんだんと口数が減ってきている。長男の真翔は、とっくに二階に上がっている。中学に入ってから、自室にいることが多くなった。家族の間が薄くなっている。せめて、子供の前では喧嘩などしたくないけれど、ついつい言い争いになってしまう。夫も疲れているのかもしれないが、わたしだって疲れている。子供もこれからますます育ち盛り、食べ盛りになるので、少しでも家計の足しにと、夫と相談してパートタイマーの仕事を始めた。最初の約束では、多少は家事の負担を分け合うことになっていたのだが、結局はずるずるとわたしが引き継いでいる。それはまあ、いい。家事はどっちみちやらなければならないものなのだから。だけど、せめて自分の事ぐらいは自分でやってくれないものだろうか。子供でも、学校の準備くらい一人でもうできる。家事を直接、手伝ってくれなくてもいいから、それ以上の煩わしさを増やすようなことはやめてもらいたい。女は基本的には家庭を守るようにできている。片付けは自然とやってしまうもの。家にあるいらなくなったもの、無駄なものを早急に処理するのは、主婦の仕事のうちなのだ。今、家の中で、一番無駄なもの、役に立っていないものは何なのだろうか。ふと目の前の夫を見ながら、この頃、考えてしまうことがある。
驚いたのは最初だけだった。次には冷ややかな気持ちになった。また厄介な事ばかり増やしてくれる。電話を受けながら呆れていた。パートタイマーの仕事から帰ると、すぐに電話が鳴った。低い男の声で、夫の名前を告げると、奥さんですかと尋ねてくる。警察の者ですが、ご主人が交通事故を起こして、男性を撥ねてしまい、重態になっています。怪我をした人は慰謝料として百五十万円払ってくれれば公にしないと言っている。今から銀行で振り込んでもらえないだろうか。それを聞くと、束の間うろたえたが、それも夫の運命なのだろうと思った。起こしてしまったものは仕方が無いのではないか。夫の名誉。それは大事だが、百五十万円とは大金だ。掻き集めれば払えないことは無いが、無理をして慌ててすることもない。事故を起こしたのなら、しかるべき処置を取ってもらってからでも、お金は間に合うのではないか。だから電話口に、分かりました。しかし、百五十万円などすぐに用意はできないので、取り敢えず警察に身元を預かってもらえないだろうか。後から夫を引き取りに伺うから。そう言った瞬間、何だか自分は夫を見捨てたような気分がした。わたしが捨てたかった物。夫の名誉よりも、今、自分はお金を取ったのだ。電話を切ると、すぐに、子供達にはどう話したらいいだろうかと思った。自分の父親が人を撥ねて、怪我をさせた。さぞかしショックを受けるだろう。中二の真翔は、始めは戸惑うかもしれないが、順々に話して聞かせれば、人を轢いた事件に対する重みを受け止め、父親が例え交通刑務所に入っても、きっときちんと償いをしなければならないことを納得するであろう。だが亮太は。父親が刑務所に入るというだけで、夫が犯罪者のように感じるかもしれない。それは、確かにいいことをした訳ではないが、事故はどこか不可抗力のことがある。いつ、誰が被害者になるか、加害者になるか分からない。だから普通の犯罪とは多少ニュアンスが違う。その微妙な差異をわたしはきちんと説明できるだろうか。真翔は部活がある。だが、亮太はそろそろ帰ってくる頃だ。説明の言葉を考えておかなければ。夕食の準備をしながら考えていると、亮太が帰ってきた。ランドセルを置くと、居間のテレビにゲーム機をセットする。いつも、夕飯が出来るまでの間なら、してもいいと言ってある。それ以上する時も、きちんと時間を決めてやらせている。今のところ、ちゃんと親の言いつけを守っているみたいである。亮太がゲームに熱中している間、説明の言葉を考えつつ、電話を気にしていた。そろそろ事故の詳しい状況などを知らせに、警察からもう一度電話が掛かってくる筈だ。そうでないと、どこに引き取りに行けばいいのかも分からない。うちの管轄は南署だけれど、事故を起こしたのはどこなのか。そう言えば、それも聞いていない。そんなことを思っていると、思わず吹き出した。亮太が、
「どうしたの」
包丁を動かしながら、
「御免。ちょっと思い出し笑い」
「ふうん」
変なの。そんな感じで亮太はゲームを続ける。そうだ。先程の電話は何だかちょっとおかしかった。考えてみれば、事故で怪我をしたのに、その人がすぐに賠償金のことを口にするものだろうか。通常、交通事故を起こした場合、大抵の人が保険に入っていて、そこから支払う人が多いのだから、実際の金銭のやり取りは事故があっても、大分後のことである。当日に即払えと言ってきたあの電話は、辻褄が合わないことが多すぎる。なるほど。初めてだったけれど、あれが、今、新聞やメディアで盛んに報じられている、所謂、振り込め詐欺という奴か。良かった。すぐにお金を振り込まなくて。うちもとうとう振り込め詐欺の電話が掛かった。考えてみたら、とてもおかしい。騙されなかっただけ安心感ができたせいか、何だか笑える電話だったように感じる。案の定、いつもと同じ時間くらいに、夫は帰ってきた。子供が寝た後で、早速、今日の電話のことを夫に話す。お金を集める手間を止めて、夫の名誉をすぐに見限ったこと、夫をその時見捨てたように感じたことは話さなかった。ただ、電話の様子が少し変な感じがしたことと、百五十万円という金額がちょっと大きかったので、
「そんなに簡単に払える訳ないよね。騙そうとした人も、うちにそんなに余裕があるように思えたのかしら」
「だけど、悪質な電話だな。良かったじゃないか。すぐに払ったりしないで。さすが、こういうときは冷静だな。頼りがいがあるから安心だよ」
「そんなことないわ。電話で聞いたときは、はじめはショックを受けたわよ。どうしたらいいのかちょっと分からなくなった。でもしばらくしたら、何だが変な印象を受けたのよね。金額もちょっとわたし一人の手には余る額だったし。これが五十万円位だったら振り込んでいたかも」
本当にそうだろうか。金額がいくらでも自分は払わなかったかもしれない。夫はこの話を聞いて、
「お前がしっかりしてくれているから、安心してこの家を任せられるよ」
そう話す。その言葉に、いつもは、きちんと家事ができていないとか、いるものかいらないものか区別せずにすぐ捨てるとか、わたしに怒っているくせに、こんな時だけ調子がいいのだからと思う。今日の事態を切り抜けられた最大の要因が、夫の名誉や体裁などどうでもいいと感じていたから、夫のことをもうあまり大事に思っていなかったからだったと知ったら、果たして夫はどう思うだろうか。お金を払うことよりも、夫を交通刑務所に服役させても良いとあっさりと思ったから、騙されずに済んだのだと知ったら。だけど、本当にそうなの?そこまで、もう、夫に対する愛情が残っていないのだろうか。並べた布団に入りながら、考える。夫は横でもう軽い鼾を掻いている。
亮太から頼まれた時、そう言えば、そんなことを夕方のニュースでやっていたっけ、と覚えがあった。片付けや風呂の準備などをしながら、流れている映像をちらりと見ているだけで、細かい所までは知らないが、近くの砂浜で、汚れたごみを清掃する行事があると報じていた。ここ数年、海水浴や遊びに来る人達が捨てていったごみで随分汚れているらしい。違法投棄で粗大ごみを置いていく業者もあるとかで、ちょっとした社会問題になっている。捨てる人がいれば、拾おうとする人間も必ず出てくる。人間とは不思議なものだ。あるボランティア団体が呼びかけたその行事に、亮太も参加したいと言って来た。環境問題について、授業の総合学習で取り上げられたばかりらしい。その清掃活動は、小学生以下は保護者同伴が原則となっている。夫はその日、真翔の部活動の試合がある会場へ送ることになっている。海とは反対方向で、二人を送るのは面倒臭いと、わたしに頼むように言ったらしい。夫の場合、送るのも大儀なのかもしれないが、その後の掃除をするのも嫌なのだと思う。ごみ拾いなんて面倒臭いに決まっている。家でも掃除を小まめにしない人が、誰が汚したかも分からないようなごみの掃除をする訳がない。そうよね。真翔なら、試合会場に一旦送ってしまえば、後は試合を見るだけ。嫌なら、終わった頃を見計らって会場に戻ってくれば済む。その間は自由だ。やっぱり、煩わしそうな事はわたしに押し付けて、それでもちゃっかりと子供のご機嫌は取っている。亮太が窺うように、こちらを覗き込む。夫に対して腹を立てていたことを見透かされたかしら。心配になる。こちらが返事をしないので、駄目押しのように、亮太は話し掛けてくる。
「きれいになったら、きっと気持ちがいいよ。そりゃ、暑くて大変かもしれないけれど」
大人よりも、子供の方が真っ直ぐだ。良いと思ったことは、迷うことなくできる。せっかくのその芽を、親として簡単に摘むような真似はしてはいけない気がして、わたしは清掃活動に参加することに同意した。
うろこ雲が浮かんでいる空に太陽が出ている。車の助手席には亮太が窓に張り付いて外を眺めている。カーステレオには、わたしのお気に入りの曲を集めたMD。通勤に使っている自動車なので、当然、車に積んであるのはわたしのものばかりだ。正直、運転は得意ではないので、普段はステレオを掛けないこともあるのだが、今日は長距離なのでヴォリュームを少し絞り気味に流していた。亮太は特に気にしていないみたいだった。出掛ける海岸は、今の夫と、若い時にも行ったし、子供達とも行った事のある海で、道順は分かっている。だから少し運転にも余裕があるので、標識や信号を確認しながら、音楽にも耳を傾けていた。久し振りに掛けると、当時していたことや、流行していたものなど思い出す。ふっと、大きな交差点で信号待ちをしていると、亮太が、
「この曲、聴いたことがあるよ」
どうしてこんな古い歌を知っているのだろうか。すぐには分からなかったけれど、テレビで何か流れていたと続けた台詞に、
「ああ、最近、コマーシャルに使われているわね、そう言えば。こちらがオリジナルよ」
信号が青になる。ブレーキを離す。
「オリジナルって」
亮太に訊かれてちょっと困る。
「えっと、元々の、ってことかな。最初のやつって言えばいいのかな。CMのは、歌っている人が違うし、バッグの楽器の演奏も違うでしょう」
「本当だ。そういえば、ちょっと違うね」
「最初に発表されたのがオリジナル曲で、それをアレンジなんかを
変えて他の人が歌い直したのが、カバー曲って言うの。最近はカバーとか、昔のヒット曲を持ってくることが多いな。昔の曲をそのまま持ってくるのは、ちなみにリバイバルって言うのよ」
「そうなんだ。これは母さんが若い時の歌なの」
「うん。大学生くらいの頃かな」
窓を見ていた良太が身を乗り出す。
「見て。もう、海が見えるよ」
「運転中だもの。あんまりよそ見はできないわ」
言いながら、それでも堤防沿いの向こうに広がる海が目に映る。堤防の壁を散歩や自転車が通れるように舗道が付いている。こんなに綺麗な場所なのに、実際には砂浜の汚れが深刻化しているのだ。周りの見てくれだけを整えてもいけない。少し車が多くなった。同じように清掃活動に参加する人たちなのだろうか。海開きはまだなのだし、この先はそんなに観光スポットや遊ぶ場所はない。意外と参加する人がいるのだな。亮太に言われて何となく来たけれど、半端な気持ちではいけないのかもしれない。連なった車を見ながらちょっと思った。
係員の説明が済むと、参加者はビニル袋を持って砂浜を散る。用意していた軍手を嵌める。目に立つ所に、足の踏み場のないくらい、ごみが散乱している。お菓子のビニル袋、ペットボトル、カップラーメンの容器。驚いたことに、まだ中身があって、鴉などがつついた後で残ったものが干からびているものまであった。亮太が岩場の下に手を突っ込むと、空き缶、しかも五百ミリリットルのチュウハイの缶。と言う事は、捨てたのは大人である可能性が高い。亮太が差し出したのを受け取り、ビニル袋に入れながら、何だか恥ずかしい気持ちになった。決して、自分が捨てたのではないが。一般に遊泳として開放されているよりも奥の、柵がある側に、タイヤのチューブや冷蔵庫、革袋にくるまれた何か機械の残骸を発見した人がいた。中央に持って来られたそれらを見た係員は、溜め息を吐きながら、
「仕方がないですね。これらは後から廃棄業者の方に頼んで、引取りに来てもらいましょう」
信じられないようなごみの山。それを一心に拾う参加者達。近くにいた若い父親が、腰が痛いなとぼやく。わたしも、ずっと屈んで疲れてきた。確かに何度かお世話になった海だし、これからも来る事があるかもしれないが、経営関係者でもないのに、どうしてわざわざこんな事をしているのだろう。環境問題も大切な事だ。それは認める。だけど、わたしにとっては、毎日を彩る身近な生活の事も大事だ。今、自分にはもっとしなくてはいけない事があるような気がする。地球が無くては、わたしのささやかな暮らしも成り立たない。地球の環境保全と家庭事情。そのどちらが重いかなんて、秤にかけることはできない。腰を擦りながら伸びをする。熱心にごみを拾う亮太の姿が目に映る。あんなに一生懸命な息子。そんな息子達や夫のことで揺れ動く自分。わたしは何をすればいいのだろう。分からないけれど、気が付けば、取り敢えずはごみ拾いに戻っている。
時間が来て、参加者が集合し、それぞれ集めてきたごみを一箇所にすると、随分な量になった。砂浜を見渡し、
「わあ、きれいになった」
子供達が歓声を挙げる。大人もつられる。本当に見違えるようになった。来た直後は分からなかったが、砂は淡い黄色で、こんなにもきめが細かく、さらさらとしていたのか。何年か前に海に行った時、サンダルを履いていたので感触までは覚えていなかったが、まだ結婚前、夫とは、ここで裸足になってビーチバレーをしたこともある。その頃は、海の色も砂も、汚れているとか、そんなことすら気に留めることもないくらい、ただ海を、夏を満喫していた。いくつかの歳月が自然までも変えてしまう。うっすら、汗を拭いながら、大人達は日陰の場所を探す。しかし、子供達は砂浜で遊びたいみたいだ。亮太も行こうとする。
「濡れたら困るから、波打ち際の近くまで行っちゃ駄目よ」
分かったと言って、亮太は駆け出す。自分達で汗を流し、片付けて美しくなった砂浜で遊ぶ。その背中はとても清々しく映った。夏休みになったら、またこの海に行ってもいいかな。その様子を見ながらぼんやり思った。その後ですぐに、それは夫も一緒?真翔も一緒に来るかしら?綺麗になった砂浜のように、心も美しくなったら。何かを思っても、すぐに打ち消しや、疑いや、怯えが襲ってくるこの心。何かを面と、真剣に向かい合うべき時期なのかしら。それともそっとしておくのがいいのかしら。人との関係はいつもいくつかの波に揺れている。打ち寄せている波をじっと見ている亮太。
「それ以上、行ったら駄目よ」
亮太は振り向き、にっこり笑う。帰り際、参加してみてどうだったと尋ねられたので、
「そうね。予想した以上に汚くて、始めはびっくりしたけど、あれだけの人数で拾ったら、随分綺麗になるのね」
「きれいになって、良かったよね」
「うん。参加した甲斐があった」
「人間の力ってすごいよね。あんなに広い場所でも、力を合わさればあっという間に元に戻るんだから」
子供の感性はすごい。成長はすごい。あれだけの時間で、何気なくただ拾っているように見えながらも、ちゃんと色んな事を考えている。色んな事を受け止めている。息子の言葉に、大人のわたしが驚いた。ああ、感受性では、もう勝てないな。素直にそう思った。感心していると、
「まあ、あっという間では無かったかな。屈んだり、荷物を持ったり、結構、大変だった。もうくたくただよ」
一転した言葉が、逆に子供らしい純粋さを感じて微笑ましくなる。時にはとても鋭くて、時にはとてもわがままで、時にはとても頼りない。まだまだ子供。まだまだかわいらしくて、何だかほっとした。
「お母さんも、ばてばて。帰りに何か食べようか」
「やったあ」
「お母さんは甘いものが欲しいな。亮太は何がいい」
「僕も。フルーツパフェが食べたいな」
「それ、いいね。うん。そうしよう」
緩やかに、車は帰り道を走っていく。ステレオから懐メロが流れながら。
家に戻ると、夫と真翔はもう先に帰っていた。息子は、試合で疲れたのか、居間のソファにだらりとしながら座って、目を閉じている。テレビが勝手に話をしている。
「試合、どうだった。勝った?」
真翔は右腕をぶらぶらさせながら、
「全然。三回戦で終わった」
「そう。残念だったわね」
「別に。うちの学校、そんなに強くないから」
負けを自分なりに受け止めているのか、冷淡なのか、大したことがないような口調であっけらかんと答える。慰めるのがいいのか、そんなものよねと同調したほうがいいのか、判断しかねる。真翔もそれ以上は何もしゃべらない。話の接ぎ穂に困る。わたしは夕食の支度に取り掛かる。亮太は服を着替えに自室に上がり、そこでくつろいでいるのか降りてこない。夫は台所の真向かいのいつものソファにいる。
「あなたも試合を見たの」
「まあ、少しは」
用事をしながらなので、はっきりと姿を確認できないが、多分、目はテレビ画面に向いたままだと思う。
「どんなだった」
「チームは三回戦で負けたけど、真翔は結構、活躍していたぞ。二回戦の時だってゴールを決めたし」
詳しく語り始めた夫に、
「いいよ。そんなこと言わなくても」
真翔が遮るので、会話が途絶える。自分はこれまでも、特に成績のことや試合の結果に対して、もっと頑張れと発破を掛けたことはあまり無い筈だし、試合の様子を聞くのも、負けたことや息子の活躍がどうであったかを責めるつもりではない。ただ、最近、会話が減ってきたし、話の種として、そういうことしかきっかけとして思い浮かばなかっただけなのだ。それでも、真翔は黙ったままである。一体、何を話せばいいのだろうか。男の子の母親として、どんな会話が適切なのか。正直、分からない。ニュースを見ていた夫が、
「おっ、今日、お前らが行った砂浜が出ているぞ」
そう言えば、テレビや新聞の取材者らしき人が来ていた。台所を仕切るカーテン越しに映像を見る。
「亮太や母さん、映っているかな」
夫が言う。真翔が、亮太を呼んでくると言って、階段に向かう。ばたばたと降りてくる足音。今、怒っているようであった真翔が、ニュースを弟と見ている。この頃は本当に何を考えているのか、よく分からない。映像を見ながら、会話らしい会話、絆らしい絆を感じられなくなった家族の事を考える。ニュースは最後に綺麗になった海岸を映す。それを見ながら、ああ、この海に、嫌な事や厄介な事を全部捨てたい。ポイ捨てをする人は、食べた後の袋はいらないから捨てた。飲んだ後の缶はいらないから捨てた。いらないものを捨てるその気持ちは分かる。今日、わたしはそれとは逆の拾う行為をやってきたばかりだというのに、実は日常では捨ててしまいたい事がたくさんある。放り投げてしまいたいものをたくさん抱えている。ニュースではたくさんのボランティアの人が参加していて、環境問題に取り組んでいる人が増えてきた事を誉めているが、こんな気持ちで参加したわたしの行為が、果たして称えられるような事なのだろうか。却って、わたしの様な気持ちで参加したことで、ごみは無くなったけれど、何かを汚してしまったのではないか。包丁の手が少し遅くなる。じっと動作が止まる。ほんの束の間。テレビに向いている家族には気が付かない程度の時間。そして、いつものように食卓にできた食事を並べていく。
お風呂は久し振りに夫と入りたいと、亮太が言うので、先に二人が入る。昨年くらいから、母親のわたしと一緒に入ることは無くなった。ある程度、家の用事が片付いたので、居間に行く。真翔が左端に座り、テレビを観ている。少し間隔を取って、右端に座りかけた時、カレンダーに目が留まる。
「そう言えば、来週から期末試験だったわね」
首だけで頷く。
「じゃあ、お昼の用意をしておかないといけないんだ。亮太はまだ、もう少し給食があった筈だけど」
独り言のように呟くのを、真翔は横目で見る。試験があるのに勉強しなくていいの。少しその言葉が出てきたが止める。どうせ、すぐに夫と亮太が風呂から上がってくるだろうし、そしたら続けて入ってもらえば、その後でわたしも入れて、早く片付く。そんなに優秀ではないが、特に成績が悪い訳でも、急に落ちた訳でもないし、あまりとやかく言わない方がいいと思う。しかし、今、息子が掛けているのは、さっき夫が観ていたNHKのニュースの続きである。もう番組は変わっているが、中学生の男の子が喜びそうな番組ではない。もっと面白そうなの、やっていないの。わたしは新聞を手に取る。
「別に。どこのチャンネルも似たようなのだよ」
真翔が答える。相変わらず言葉が少ない。今、何に一番興味を持っているのだろうか。スポーツも、さっきの会話から察するに、部活動でやっているが、際立って熱心にやっている訳でもなさそうだし。小学生の時は、プラネタリウムに嵌っていて、よく夫に連れて行ってもらっていたし、天文学者になりたいと語っていたこともあるが、最近はそういったことも言わない。夜中に、ベランダで星を見ることもなくなったようだ。興味を失ったのか、中学生なら、大分現実のことが分かるようになってきて、天文学者になるのがいかに難しいかが分かって諦めたのか、よく分からない。将来、なりたいものは何なのだろう。中学生なら、少しは社会や現実のことも知って欲しいが、でもまだ、夢も持っていて欲しいと思う。そんなことを思うのは親のエゴだろうか。そうだ。思い出す。真翔が六年生の時、誕生日プレゼントに天体望遠鏡をねだったことがある。夫は、買ってやってもいいような言い方をしたが、わたしは反対した。そんなに高価なものを、誕生日とは言っても、そうそう簡単に与えるのは、教育上良くない。そこで、今回、プレゼントは無しにして、いくらかのお金を上げるから、それにプラスして、小遣いやクリスマスの分、お年玉などを自分で貯金して買いなさいと提案した。それを聞いて、値段と貯まるまでの日数を考えて無理だと思ったのか、もう望遠鏡を欲しがらなくなった。その時は、何か欲しいものを手に入れるためには、何がしかの努力や苦労が必要であることを、息子に具体的な実感を伴って教えることができたと思った。だが、それで、自分の家庭の事情や能力などを考えて、学者になるには大学に行かないといけないし、更に大学院やその先もあり、うちでは無理と早々と夢を諦めてしまったのだろうか。あの時のわたしの方針は間違っていなかったと思うけれど、そのために息子と自分の間に溝ができてしまったのだろうか。両刃の剣。教育とは何と難しいものなのだろう。亮太達が風呂から上がってくる。何も言わずに真翔は風呂場に向かう。
寝室で、わたしは夫に今日のことを聞いてみる。最近、真翔が余り口を利かなくなって。試合の状況を聞いたのは、何かまずかったのかしら。夫は、
「まあ、年頃だからな。うまくできても、できなくても、むやみに親に言いたくないんだろう。俺も、試合は何となく見たって感じで見学していたし。知っている人に、じっと見られたら、やりにくいだろう」
「そんなものかな」
「ああ。俺が見た感じでは、試合はうまくやっていたし、チームの仲間とも楽しそうにしていたから、部活動はそれなりにこなしているようだよ」
「楽しそうだった?家ではあまり笑わなくなったように思うけど」
「親の前では照れ臭いだけだよ。別に気にすることはないと思うよ」
それを聞いて、ひとまず安心した。そして久し振りに、夫と、短いながら、夫婦のような会話を交わせたことも良かった。鏡の前で寝る前のクリームをつける。
「もう、休むか」
夫が言う。
「ええ。わたしも亮太と大掃除をしてくたくた」
「ご苦労様」
夫は既にベッドに入っている。
「電気、消してくれないか」
わたしは、分かったと言って立ち上がる。
翌日は日曜日ではあったが、昨日、全員が出掛けたので、今日は家に大人しくしているみたいだ。真翔は朝食を済ませると、すぐに自室に行く。居間では珍しく、夫が亮太と遊んでいた。だが、何故だろう。さっきから違和感がある。不自然な動き。対戦型のゲームやトランプなどをしている間に、何やらごちょごちょと話をしている。心なしかそんな折、わたしを気にしているように夫が目配せをしている気がした。午前中は、それでも二人で楽しそうに遊んでいた。良太は、午後はクラスメイトから誘われて、外に遊びに出掛けた。その間、夫は一人でくつろいでいた。わたしは隣でカタログ雑誌を読んでいた。よく利用している通信販売だ。あるページで目が留まる。今から夏になって着る、薄いブラウス。外出用に一着欲しいのだが、少々値が張る。昨年のが着られない事もないし、今年は見送りで良いか。横になっている夫に、
「あなた、夏物のカッターシャツ、そろそろ新しいのがいるんじゃない」
うーん、何。気のない返事が返ってくる。男物が載っているページを開くと、どれがいいの、選んでよ。寝ている夫を促して見せる。
「そうだな」
「これとここらが、三点で千五百円なんだけど。暑いし、汗を掻くし、三着くらいいるでしょう」
それから夫はしばらく眺めて、デザインと色を決める。
「子供達のもどうしようかな。亮太も大きくなったし、昨年のはもう履けないだろうしな。ズボンと上と両方いるか。真翔はジーンズはまだ大丈夫だと思うけど、Tシャツは新しいのがいるよね」
「お前はどうするんだ」
「そりゃ、欲しいのはあるけれど。着られない事もないし。来年でいいかな」
「どれが欲しいんだ」
先程のページを開く。
「これ。外出の時にちょっと羽織るのにいいかなと思って」
「ふーん。でも、同じようなのを持っているんじゃないか。女の人の服って、皆、似たように見える」
これだから男は。わたしからすると、男の服の方が、ヴァリエーションが無くて、似たように思えるのだが。絶対に服は女性の方が多彩で華やかで、見ているだけでも楽しい。
「だから、わたしは来年で良いって。子供達の方が優先でしょう」
「まあな」
それから再び横になる。
夕方になって、亮太が帰ってくる。勉強にも疲れたのか、パソコンや漫画にも飽きたのか、籠りきりだった真翔も、下に降りてくる。既に居間で遊んでいた亮太と夫に加わる。亮太が真翔に耳打ちをする。真翔は、その時、夕食の支度のために、台所に移っていたわたしをちらりと見たような気がする。それからだ。男三人の様子が何だかおかしいのは。用事のために、わたしが台所から居間に行くと、ぴたりと話しを止めたり、何やら広げていたものを閉じたりする。それからすぐに、普通に遊んでいるように続けるのだが、わたしが台所に戻ると、またひそひそと夫は何かをやり始めている。夕食はいつもの通り、亮太が今日、友達と遊んだ時の事をちょっと話したくらいで、特に何事も無く過ぎていった。だが、男同士、何やらわたしには分からない空気が流れているような気がしてならない。取り越し苦労か。そう言えば、昨日、亮太は久し振りに夫と風呂に入った。そして今日は朝から夫と遊んでいる。いつもなら、わたしの用事の間に、必ずわたしに話し掛けて来るのに、今日はそれも無かったように思う。昨日の入浴の時に、何かがあった。現在、夫婦仲は決して良好とは言えない。夫も確実にそれを感じている。わたしなど、心の中で、廃棄物処理の車が通った時、夫を捨てたいと一瞬だが考えた事があるのだ。夫だってわたしに対して同じような事を思っていても不思議ではない。それでは、次にどんな行動を取るのか。子供は、小さいうちは、大抵が母親になつくものだ。真翔だって、亮太だってそうだった。だが、最近は、子供達が何を考えているのかよく分からない時がある。特に上の真翔に関して。一見すると、両親のうちの、どちらとも距離を取っているようにも思う。だが、大きくなると、男の子なら、男同士でしか話せないような事、出来ないような事が増えてきて、次第に父親に寄っていくようになると言われている。真翔もそんな時期が来ている。ひょっとしたら、そんな頃を見計らって、夫は子供を味方につけようとしているのではないか。亮太だって、今まで、どちらかと言えば、母親のわたしにより甘えていたような感じだった。だが、今日の態度は何だかそれまでと少し変わった気がする。入浴。そうだ。母親のわたしとは、いつの間にか一緒に入らなくなった。だが、夫とはまだ、時々一緒に入っている。それは男同士ならまだ平気だということだ。昨日もそうだった。こればかりは、女のわたしでは踏み込めない領域。夫はそれを利用して、まだどっちつかずで、だけど純真で親の言うことを聞きやすい亮太を取り込んだ。昨日は一日、付き合ったのはわたしだというのに。夫は車で送り迎えをすることもしなかったのに。そんなに簡単に向こうになびくものだろうか。だが、裸の付き合いは深いものがあるというではないか。その点では今後、夫の方が有利な点の一つだ。男同士で、わたしは除け者にされる。そんなことになるのだろうか。
翌週になっても、わたしが風呂に入っていて、居間で夫と亮太が二人の間、何やら話しをしていた。いつもなら、夫は風呂上りの気持ち良さで、ソファに横になって、鼾を掻き、わたしに叱られるのに。何やら熱心に話をしている。テーブルの上にカラーのプリント用紙のようなものを置いてある。だが、わたしが上がると、慌ててそれを新聞の下に隠して、話を止めると、付けていたテレビを見ていたような格好をする。後から何を隠したのか調べてみたが、わたしがドライヤーで髪を乾かしている間に片付けたらしい。既に無かった。珍しい。大切な書類ですら出しっぱなしにしている夫が。やっぱり何かが変だ。更に別の日には、期末試験で早く帰るようになっていた真翔も、わたしが帰宅すると、家の中を何やら歩き回っている。
「何か探しているの」
わたしが訊くと、別にと言って自分の部屋に上がっていく。間違いない。何かが起こっている。夫は何を企んでいるのだろう。男同士で何をするのだろう。ああ、捨てたいと思っていたのに、ひょっとしたら捨てられるのはわたしなのかもしれない。邪まな事を考えていた罰があたるという事なのだろうか。だったら夫はどうなのだ。夫婦の亀裂はわたしだけのせいか。別に、家事を疎かにしたとか、明らかな怠慢があったとか、浮気をしたとか、そんなことは無い。それにも拘らず自然に冷えていったこの関係は、夫にだって非はある。だけど夫は息子達を味方に引き入れ、失わないで、わたしは捨てられるかもしれないのだ。育児だって、ほとんどわたしがした。ある程度大きくなってから、良い時になって仲良くなる。そんなの卑劣ではないか。いや、こんな風にすぐに誰かを責め立てる心が、わたしの悪い所で、今、それに対しての懲らしめが起こっているのかもしれない。わたしは夫を捨てたいと思っていた。どう向き合っていけばいいのか分からなくなりつつあった息子との関係にも、少し嫌気がさしていたのではないか。しかし、それを失うかもしれないと思うと、今度はすごく脅えている。だったら、結局の所、わたしは何をしたいのだろう。
その日は仕事先でも失敗ばかりした。この頃物事に集中できなくなっている。夫や息子達は相変わらずである。不気味な静けさ。わたしがいる時は、夫も亮太も普通に話をする。真翔はそもそも、最近家族と話をする事が少なくなってきていたので、わたしがいるときの態度としてはいつも通りと言えば、いつも通りだ。おかしいのは、自分がその場にいない時。その間にどんな会話が交わされていて、どんなことが成されているのか。兆候のような、曖昧な態度しか見えないからこそ、余計に不気味である。想像をしてしまう。こうして人はおかしくなってしまうのか。まさか。それが夫の狙いなのか。口喧嘩をしても、どちらかと言えば、押しているのはいつもわたしだ。家庭に関して敵わない夫が取った策として考えられないことはない。昨日だって、いつもなら言い争いになるような詰問調子のわたしの台詞に、夫はさらりと交わし、それ以上言い返すことをしなかった。普通なら夫が折れてくれたと喜ぶ所だが、何だか今は、その優しさが、何か戦略を持った人間の余裕の態度にも見える。一度、人間の行動に不信感を持つと、全ての行動が怪しく感じる。今日も、パートの仕事でミスが多く、ちょっと疲れ気味で帰って来たのだが、庭に真翔の自転車が無い。試験でとっくに家に帰っている筈なのに。どこかに気晴らしにでも行ったのか。鍵を開けて家に入り、部屋着になると、二階のベランダに洗濯物を見に行く。早く帰るのだから、気が付いたら洗濯物を取り込んでいてね。真翔や亮太にいつもそう頼んでいるのだが、今日はそれもしていない。雨が降っているのではないので、少々構わないが、しかし、どこに行ったのだろう。洗濯物を畳んでいると、階下から自転車の音と玄関を開ける音が聞こえる。真翔が帰ってきた。二階の子供達の箪笥に洗濯物を仕舞い、残りを持って降りる。台所の端で真翔が蹲っていた。冷蔵庫の隣に釣り用のクーラーボックスが置いてある。今朝、仲間と釣りに行くから出しておいてくれと夫に言われたものだ。蓋を開けて、中に何かを詰めている。夫が釣りに行くのはまだ先だし、何故真翔がクーラーボックスなどに用事があるのだろう。
「何をしているの」
声を掛けると、慌てたように、
「いや、何でもない」
その場を立ち上がる。
「さっき、出掛けていたみたいだけど、何か釣ってきたの」
頻繁ではないが、夫に教わって、真翔も少しは釣りをする。亮太は魚を気味悪がって、オタマジャクシとかオケラとかなら捕まえるが、本格的に棹を使っての釣りはしない。真翔は、わたしの言葉に、うん、まあ、そんな感じ。曖昧な言い方でそそくさと二階に上がろうとする。
「何を捕まえてきたのか知らないけれど、お父さんが使う日までには、ちゃんと空にしときなさいよ」
分かったと背中越しに答える。正直な話、スーパーで買ってきたものなら平気だが、生きたままの魚は気持ちが悪い。だから、夫や真翔が釣りで持って帰っても、きちんとさばいてくれるまでは触らない。クーラーボックスの中を見ることもしない。それでもわたしは少し近づいて耳を澄ませてみる。何の音も聞こえない。どうやら大人しい生き物のようである。それでわたしは夕食の支度を始めることにする。
今日は少々疲れ気味だったので、夕飯も簡単なもので済ませてしまった。食卓に家族全員が並ぶ。全員、黙々と箸を動かす。いつもなら少しはお喋りする亮太も、今日はさっさと食べている。食べながら、顔はニコニコしているので、
「どうしたの、亮太。嬉しそうだけど、学校で何か良い事でもあった」
亮太ともちょっと距離感ができているように思えたので、わたしは話をするきっかけだと思い、訊いてみる。すると、
「ううん、別に」
笑っていた亮太が顔を隠すようにちょっと俯く。隣にいた真翔が、亮太の足を軽く踏む。これは深刻かもしれない。知らない所で、わたしを疎外して、刻一刻と何かが進行している。わたしは黙り込んでしまう。今日の仕事の疲れもあってか、とにかく早く夕食が終わればいい。気詰まりなこの時間が。ああ、子供がもっと小さかった頃は、夕食だけが、一日のうちで家族が揃う団欒の時間だったのに。夫は時々残業で遅くなる時があったが、それでも家族が触れ合える時間として楽しいものだった。それがいつの間にか苦痛なものに変わっている。ごちそうさま。亮太が言う。自分の食器は、自分で洗い場まで持っていく。それが一応、子供の頃からの躾である。洗い物を手伝ってくれることはあまりないが、夫もそれだけはしてくれる。ビールを飲んだ夫とお代わりをした真翔とが、大体同時に席を立つ。既に食べ終わって食器を洗い始めていたわたしの横に、自分達のを重ねる。居間で男達が何をやっていても、とにかくいつもの通りの行事をこなしていればいい。そう思っていると、真翔が台所に残って、わたしの隣に立っている。
「片付け、手伝うよ」
どうしたのか。珍しいことを言い出す。
「いいわよ。勉強があるんじゃない」
「今日で期末試験は終わりだよ」
カレンダーを見る。
「そうか。だから今日、釣りに行っていたのね」
その言葉にちょっと顔が吊り上る。すぐに元に戻り、わたしが、拭いたお皿を積み重ねると、黙って食器棚に仕舞い始める。夫と亮太はどうやら二階に上がったらしい。夫は急いで片付けたい書類でもあるのか、自分の書斎、兼、わたし達の寝室に行っているみたいだ。居間にはいなかった。そんなことを見ながら、手だけは習慣通りに動いている。
「ありがとう、もういいわ」
食器の片付けを手伝ってくれていた真翔に声を掛ける。後は生ごみの処理をして、ガスレンジを拭けばいい。すると階段で人の気配がした。真翔がそちらに合図を送る。それから向きを変えると冷蔵庫に向かう。隣のクーラーボックスを開けている。わたしはそのまま作業を続ける。階段の影に待機していたらしい亮太が紙袋を持って飛び出してくる。夫も後ろから続く。A4くらいの大きさの包みを小脇に抱えている。
「お母さん」
亮太の声に台所のテーブルの方を振り返る。パンと音がする。一瞬、何のことか分からず、軽く声を上げてしまう。それから三人が声を揃えて、
「お母さん、誕生日おめでとう」
それでやっと気が付いた。さっきの音は亮太が紙袋の中に用意していたクラッカーの音。テーブルには、さっき真翔が出したのであろうバースデーケーキ。わたしが好きな桃が載った生クリームのケーキ。そうか。冷蔵庫にケーキの箱があったら、夕食の支度をするわたしに先に分かってしまう。だからクーラーボックスの中に隠していたのね。ドライアイスや保冷剤を入れて、しまっていた。しばらく呆然としているわたしを、真翔が促すように椅子に座らせる。夫が、これ、プレゼント。包みを差し出す。早速開けてみると、そこには夏物のガウンが。それを見たときはっと思い出した。少し型は違うが、あの通信販売のカタログにあったのとよく似ている。あの会話にかこつけて、夫はわたしの欲しいものを聞き出していたのだ。胸が熱くなった。何ということだろう。何て馬鹿なのだろう。わたしを驚かそうと、内緒で計画していたことを、わたしはずっと悪く考え、一人でやきもきしていた。自分が少し恥ずかしかった。
「ろうそくをつけようよ」
大きな太いろうそくがケーキの上に刺される。
「僕のよりも特大サイズだね」
亮太が言う。夫は、
「そりゃ、母さんは一本が十年分だから」
一、二、三、四。四本のろうそくが立てられる。一生懸命にセッティングしてくれている夫や息子達を見て、わたしは何かが分かったような気がした。今まで迷い、捨てたいと思っていたもの。それは夫の事ではなかった。すれ違い始めた息子たちの事でもなかった。わたしが本当に捨てたかったのは、夫と言い合いをしたくないのに、つい荒い言葉が出てしまうわたしのひねた心。大きくなって、次第に分からなくなっていく息子達を前に、どうしていいか分からずに立ち往生してしまう自分の無力さ。そんな面倒臭いことから、つい逃げ出したいと感じてしまう自分の臆病さ。わたしが捨てたいのは決して家族ではない。どころか、今でもわたしは奥底で、ちゃんと家族のことを愛している。そんな愛情をともすれば見えなくさせてしまう、曇ったわたしの目。そんなものこそ、わたしが本当に捨てなければいけない物だ。この間、亮太と行ったボランティア活動の事が思い出される。
「僕らが拾ったものの中で、ペットボトルとか缶とか、使えるものは、もう一度潰して利用してくれる所に出すんだって」
帰りの車で亮太が言っていた言葉。そうだ。それこそわたしがやりたかった事。すれ違い、距離ができつつある家族の絆。それを壊したいのがわたしの望みではなく、捨てるものは捨てて、利用できるものは利用して、もう一度新しい何かを作りたかった。缶やペットボトルの使える所だけ残して、潰してごちゃ混ぜにして、新品のペットボトルや缶に生まれ変わらせたり、全く新しいものを作ったりするように、わたしも行き詰まりかけた家族をリセットして、メンバーを変えるのではなく、今の夫や息子達と新しい家族の絆を作りたかった。ろうそくの火を見つめる。四つの大きな火が揺れている。
「また大きいわね。一吹きに消せるかしら。普通のサイズで良かったのに」
真翔は、
「だったら数が合わないよ」
「いいのよ、四本で」
「そんなのおかしいよ。僕より年下になるじゃないか」
亮太が口を尖らす。
「構わないのよ。わたしは、気持ちはいつでも四歳なんだから。誕生日が来る度に、新しく生まれ変わるんだから」
わたしの言葉に、三人は笑う。
「母さんには敵わないな」
夫が言う。無邪気な微笑み。そうだ。いつもはきりっとしているけれど、笑うととても子供みたいで無邪気なこの笑顔に、若い頃惹かれたんだっけ。そんなことも忘れていた。隣で笑っている真翔や亮太も、そんな笑顔が夫�良く�て��。�子なんだなと思う。��てそんな家族を愛らしいと、守っていきたいと強く感じた。今日はわたしの誕生日。さっきのは決して冗談ではない。これをきっかけにして、再び新しく生まれ変われるように。自分の欺瞞や嫉妬深さや臆病を克服できるように。たとえそれを感じても、それに流されないで、一番大切なものを見失わないですむように。そして来年の今日も、こんな風に迎える事ができますように。今日からわたしのリサイクルの第一日目。それを決意するように、四本のろうそくに向かって、勢いよくわたしは息を吹きかけた。