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俺も他の生徒達と同じ様に、熱烈な勧誘を受けると思ったのだが、そうでもなかった。背が高いせいか、三白眼のせいか、一歩引いた感じで声をかけられる事が多かった。中には敬語を使ってくる人まで居た。一応、俺は後輩にあたると思うんだけどね。
俺は知らず知らずに威圧感オーラを出しまくっているのかもしれない。もしくは『最後のお菓子効果』かもしれない。理由はどうあれ、しつこく勧誘されないのはかえって好都合だ。
俺は、何枚かのビラを貰いながら歩くうちに、目的の物理部を見つけることができた。見つけたと言っても、テーブルに物理部と書いた紙が垂れ下がっているだけだった。勧誘しているはずの先輩は一人も居ない。
その替わりに、伝言を書いた紙がガムテで貼り付けられていた。
「只今デモンストレーション中@物理室。新人大歓迎。お気軽に参加されたし」
その下には、物理室の大体の場所も図示されていた。俺は、仕方ないので校舎内に戻ることにした。
一応、初音の事も少し気になったので、首だけ動かして少し探してみた。この人混みの中だから、なかなか見つからないかとも思ったが、案外簡単に見つかった。テニスウェアを着た先輩たちに囲まれて、楽しげに喋っている。
あいつはあいつで、美人オーラを放っているよな。先輩たちに囲まれているにもかかわらず、存在感は圧倒的だ。まぁ、あの様子ならそう怒ってもいるまい。俺は昇降口に戻ると、物理室を目指した。
人気の無い校舎に俺の足音だけが響く。文化部の活動と言うのは、こんな場所で粛々と行われるものなんだろうか。うら悲しい気分になってくる。物理室は北側の校舎の一番西の突き当たりにあった。俺は遠慮がちにそろそろと引き戸をスライドさせた。
「どうもー。こんちはー」
物理室には数台の実験用テーブルが置かれており、その一つでデモンストレーションとやらが行われているようだった。
見物人は二人。こちらに背を向けて座っていた。加えて、白衣を着て立っている先輩が一人。これでフルメンバーなんだろう。寂しい事この上ないが、女子高の物理部といったら、こんなものなんだろう。むしろ、存在していた事の方が奇跡とも言える。
白衣の先輩がこちらに振り向いた。黒ぶちメガネをかけた、おさげの女生徒だ。いかにも優等生と言った質素な印象。その彼女の顔がパッと明るくなり、瞳に輝きが宿る。
「新入生? 新入生だよね? 入って入って。こっちこっち。どうぞどうぞ。早く早く」
猛烈な早口でまくし立てられた。よほど嬉しいんだろう。俺は勧められるままに、そそくさと席についた。見物人二人と対面する形だ。そして俺が椅子に座るのとほぼ同時に、見物人二人から驚きの声が上がった。その二人とは、藍と桜庭さんだったのだ。今日始めて知り合った二人に、またここで出会えるとはなんたる僥倖。俺は素直な感想を口にした。
「あれ。二人とも物理なんかに興味あったんだ」
藍は、軽く会釈をしてから、下を向いて黙り込んでしまった。桜庭さんは、俺と藍が知り合いだった事に驚いている様子だ。そして、俺にしきりに目配せしている。俺はその意味が分からずきょとんとしていると、白衣の先輩がイラッとした調子で口を挟んだ。
「ちょっとちょっと、新入生君。物理『なんかに』は無いんじゃない? 物理『なんかに』は……」
白衣の先輩は毛むくじゃらの何かで、黒い棒状の何かをしごいていた。そのせわしない様子が、先輩のイライラをそのまま反映しているようだ。
「あ、そんなこと言いましたっけ。すいません。訂正します。物理はすばらしい学問です。自然科学の頂点をなすと言えましょう」
「素直でよろしい。新入生君。歯が浮くようなセリフをさらりと言える好青年ね。私は部長の富井静香よ」
言葉の真意は量りかねるが、棒のしごき方は緩やかになったので、お怒りは治まったようだ。
「ども。新入生の日下部剛健です」
「はい。よろしくね。それじゃ、始めの手品を見せるわよ」
目の前には金属部品がついたガラスビンが置いてある。そこでまた、余計な一言が俺の口をついて出てきてしまった。
「あー。はく検電器ですか?」
部長がイラッとする音が聞こえたような気がする。
「あのね。手品をやる前に種明かししてどうする気なの。ここは、知ってても『おー』とか『すごーい』とか言うところでしょ?」
部長が黒い棒――推定エボナイト棒――をビン上部の金属板にかざすと、ビン内部の「はく」がわずかに開いた。静電気に関する有名な実験だ。ちょっと、どういうリアクションを取っていいか分からない。藍と桜庭さんは素直に見入っているようだ。この二人にとっては、初めて見る実験なのかな?
「ほら、日下部君は?」
せかされてしまった。そんな事を言われたって困る。俺はリアクション芸人じゃないんだから。
「『おー』『すごーい』」
「君、やっぱりバカにしてるでしょ」
「いえいえ、とんでもない。大変興味深い実験ですよ?」
俺はビン上部の金属板に触れて放電させた。ビン内部のはくが閉じる。
「君、やっぱりバカにしてるでしょ」
「いや。してないっす。すごいっす。静電気、マジぱねぇっす」
今度は部長の奥歯がきしむ音が聞こえたような気がする。大層ご機嫌斜めのご様子だ。まいったね。全然悪気は無いんだが。
「わかりました。じゃぁ、お待ちかねの情報物理の実験を見せるわよ」
部長は白衣をひるがえすと、準備室に入ってしまった。今、確か『情報物理』って言ったよな。情報物理って何だ?
「桜庭さん。情報物理って何?」
「え? しらないの?」
「ああ。全然」
「私も良くは知らないわよ。なんでも、計算する事でエネルギーが得られるっていう話。結構有名よ?」
「計算がエネルギーに? なるわけ無いじゃん」
「なるから学問として研究されてるわけでしょ。もっとも、一介の高校生が理解できるような簡単なもんじゃないらしいけどね」
「っ……。えー……。そうなんだ」
驚きを隠しきれない。俺の記憶には、そんなトンデモ科学は存在しないぞ。いや、こうして知っている人間が居るんだから、存在するのかもしれない。何しろ俺は記憶喪失人間様だからな。飲み込めないような屁理屈が出てきたとしても、無理して飲み下すのが正しい姿勢だろう。
俺は自分のスマホを取り出した。正直、スマホの操作には慣れていないんで、あまり頼りたくは無いんだが、ここは仕方が無い。俺はネットで『情報物理』を検索した。凄い数がヒットしている。とりあえず情報物理と言う学問は確かに存在しているようだ。なにやら、数値解析と言うものを行うことに伴って、類似の物理現象を起こせるそうだ。ぱっと見たところで理解できそうなのはそこまでだった。そして少し気になる言葉が書き添えられていた。
『情報物理は、現代の魔術とも呼ばれている』
魔術とはまた大きく出たな。そして、それは昨日のゲームと通じるところがある。部長が今準備室で仕込んでいるのは、まさにその魔術なんじゃないだろうか。つまり、ゲームの魔法は本物の魔法かもしれないという事。物理部発のこのゲームの謎が、今解き明かされるというわけだ。やばいね。有り得ないほど高揚している自分がやばいよ。
やばくなってるところを、桜庭さんに突っ込まれた。
「日下部君? ニヤニヤ笑いがキモイよ」
「えっ。ニヤニヤしてた? 恥ずかしいね、どーも」
「スマホで何してたの?」
「情報物理を検索してたんだけども、なんだか良く分んないもんだね」
「でも、なんかワクワクするよね」
「あ、女子でもそう思うんだ。先端科学に惹かれる習性があるのは、男だけだと思ってたよ」
「そりゃ、気になっちゃうよ。あんなのを送られてきちゃうとね……」
話の途中で準備室の扉が盛大な音をたてて開いた。白衣の部長が右手に黒い何かを掲げて自慢げに近づいてくる。雰囲気から察するに、その何かは水戸光圀公の印籠のような物に違いない。部長は俺たちの前まで来ると、より一層うやうやしく印籠を掲げて言い放った。
「これぞ、わが部の最先端ガジェット。DSPライターでぇあーる!」
口調まで時代掛かってるよ。きっと、よほどの代物なんだろう。しかし掲げている物体はやはり印籠にしか見えない。もっとも、三ツ葉葵は無く、梨地のエンボス加工のプラスチックだ。ぶっちゃけ中国製っぽい。俺はまた考えもなしに率直な意見を口にしてしまった。
「ずいぶん安っぽそうな最先端ですね」
「君、やっぱりバカにしてるでしょ」
「いえいえいえ、してないです。何とかライターですよね?」
「ディー・エス・ピー・ライターです!」
「何をするひみつ道具なんですか?」
「情報物理の理論を応用して火をつけることができるのです」
「それでライターな訳ですか。じゃあ、DSPって言うのはなんですか?」
「…………」
暫時、重たい空気が流れる。
「な……中に、でぃー・えす・ぴーが入っているのよ」
部長の声が、若干うわずっている。口をへの字に曲げて、ずれてもいないメガネの位置を直したりしている。どうやら、あんまり突っ込んじゃいけない所だったらしい。話題を変えよう。
「と……、とりあえず実演してもらえますか? 火がつくんですよね」
「君、やっぱりバカにしてるでしょ」
「とんでもないですって。これから見られるミラクル・エクスペリメンツにトキメキ・スパイラルですよ」
俺もお世辞に慣れていないんで、言ってることがめちゃくちゃだ。
「君、やっぱりバカにしてるでしょ」
ダメだ。部長と俺は、どうしても波長が合わないらしい。俺は努力してるつもりなんだけどね。報われない事ってのもあるよな。俺は桜庭さんに哀訴のまなざしを送ってみたが、軽くスルーされた。藍はずっと下を向きっぱなしだ。ここは、どうしても俺が進行役を勤めなくてはならないようだ。
「あー。本当の所、俺は情報物理ってのに、すっごく興味があるんですよ。ですから、ぜひともこの目で情報物理のすばらしさを確かめたいんです。これは本心ですから。この俺の少年の瞳を輝かせてください!」
台詞が臭すぎた。でも、本心であることには変わりはない。これで、何とかご機嫌を直してはもらえないものか。
「はい。わかりました。それではご覧に入れましょう。コホム!」
どうやら成功のようだ。部長は、わざとらしい咳払いの後、手近にあったティッシュを一枚取り出した。そして、俺たちに良く見えるように、DSPライターとティッシュを目の前に突き出した。
「いくわよ」
俺達は、心持ち身を乗り出した。部長がDSPライターのスイッチを入れる。すると音もなくティッシュが赤く光り出した。そして、ついには炎を上げた。これには驚いた。大体の予想はついていたものの、そのはるか上を行く凄さだった。なにせ、ライターからは火が出ていないのだから。ライターから五センチほど離れたティッシュに直接火がついたのだ。これが情報物理。現代の魔法って言うわけか。部長は「あちち」等と言いながら、ティッシュを流しに捨てて水を流した。そして、俺たちに向かってドヤった。
「どうよこれは! 少しは感心したでしょ?」
「ああ……。はい。感動しました。すごいよこれ。ほんとすごい」
しかし、俺の興奮をよそに、桜庭さんが異を唱えた。
「や、確かにこの目で見たのは初めてですよ。けど、この程度でしたら、誰でも一度や二度はテレビで見た事があるもんなんじゃないですか?」
やっちまいましたよ。桜庭さん、入学二日目で先輩批判をしれっとやってのけましたよ。これにはさすがの部長もひるんでいる様子。俺がフォローしようと思って口を開きかけたところへ、桜庭さんが追撃をかけた。
「私、これの事を聞きたくてここへ来たんですよ。話してもらえませんか?」
桜庭さんはバッグのポケットからスマホを出すと。テーブルの中央に置いた。
スマホの画面には昨日のゲーム、ウイッシュ・オブ・ウィザーズのメニューが表示されている。なるほど。桜庭さんも俺と同じ理由で物理部の見学に来ていたというわけか。ならば、丁度いい機会だ。俺も質問の輪に加わらせてもらおう。俺は胸ポケットからスマホを取り出し、ウイッシュのアイコンに触れると、桜庭さんのスマホの隣に置いた。
「実はボクもなんですよ」
すると、藍がおずおずと手を上げた。ほとんど机と平行といえるほど遠慮がちな挙手だ。続いてまたもやスマホがテーブルに乗せられる。藍のスマホも、ウイッシュのメニュー画面だ。これは驚いた。見学に来た三人とも、ウイッシュ絡みじゃないか。でもまぁ、そりゃそうだよな。理由もなく物理なんていうつまらなそうなものに興味を持つ奴はいないよな。逆にウィッシュの超演出を経験してしまったら、物理部に興味を持たざるを得まい。この三人は集まるべくして集まったと言うわけだ。しかし、部長の反応は意外なものだった。
「え? 何これ。何するアプリ?」
俺たち、新入生組は互いに顔を見合わせた。
「え?」「え?」「え?」
部長が何も知らないと言うのは、ちと合点が行かない。俺は、自分のスマホに昨日来たメールを表示させ、部長に渡した。
「このメールに見覚えは? 差出人が川越一高物理部になってますけど?」
部長はメールを目で追いかけ始めた。しかし、半分も見ないうちにスマホを俺に突き返した。
「全く覚えがないわよ。そもそも、うちの部にパソコン無いし。誰かのいたずらなんじゃないの?」
「でも、部長以外の部員が出したのかもしれませんよ?」
「君、やっぱりバカにしてるでしょ。物理部は今、私一人しかいないの。いわゆる弱小なの。悪かったわねぇ」
「え。うわ。こりゃ申し訳ありませんでした」
部長のメガネの奥からギヌロという擬態語が発せられている。また地雷を踏んでしまったようだ。俺はもう口をきかない方がいいかもしれない。一方、桜庭さんは、俺のスマホを横から奪い取っていた。自分のスマホと見比べている。
「この文面、私に来たのと全く同じね。宛名以外。送信時刻もほとんど同じね。あなたのはどう?」
今度は藍のスマホを取り上げると、無言でメールチェックを始めた。この人はプライバシーとかいうものには頓着しないんだろうか。最後のお菓子を食える女は型破りだな。色々と。
「こっちも同じね。どう思う? 日下部君。それと……」
「は……、英です」
藍はこの剣呑な雰囲気に当てられているようだ。声が上ずっている。
「そう、英君も。物理部とウイッシュ、関係があると思う?」
「無いんじゃない? 部長が嘘ついてるようには見えないよ」
「じゃあ、このメールアドレスはどう考える? ドメイン名はこの学校のだよ?」
「ドメ……、何それ」
「日下部君、男のくせに疎すぎるよ? ドメインってのは、このメールがどこから送られてきたか示すものなわけ」
「あ、そうなんだ。でも物理部から送信されたとは限らないんじゃないの? 部長の言う通り、他の人のいたずらって線も捨てきれないよ」
「でも、このウイッシュってゲーム、情報物理じゃないと説明がつかないと思わない?」
「うーん。つまり、あのゲームは魔法っぽい何かで作られているって事?」
「そう。情報物理の魔法的な側面。しろうとの私たちが思いもつかない技術が使われていると思うわけ」
藍が突然立ち上がった。
「あっ。あのあのあの。ボク、みんなでこのゲームをやってみればいいと思うんですけど……。そうしたら、みんなの意見を集約できるし、部長さんの意見も聞くことが出来ると思うんです」
「なるほどね。実は俺もやってみたかったんだよね。このゲーム」
「理由はどうあれ、一度対戦してみるのも悪くは無いわね……」
俺たちは、何とも無しに部長の方を見た。部長は部長で、俺達が何の話をしているかさっぱりわからず、呆気に取られている様子だ。また、ずれてもいないメガネの位置を直している。明らかに俺たちの注目を浴びて動揺している。
「わ、わかりました。なんだか全くわからないけど見せてもらいましょう。百聞は一見に如かずって言うからね。見せてもらえば、何かわかるかもしれないから」
「よし。じゃあ、広いところに出ようか」
俺はバッグを肩にかけて移動しようとした。しかし桜庭さんに押しとどめられた。
「なぜ広いところに行くの?」
「広い所じゃないとナルフィールドが開けないんじゃないか?」
「日下部君。マニュアル読んでないでしょ。試合用のフィールドは障害物の有無に関わらずに開けるのよ」
「ありゃ、そうだったのか。こりゃお恥ずかしいこって……」
「おかげで昨晩はほとんど寝られなかったわけだけどね」
「ふむ。じゃあ桜庭先生。ひとつ対戦の程、よろしくお願いします」
俺はちょこんと頭を下げた。
「ええ、始めるわよ」
俺はメニューの中から「対戦する」を選択した。するとGPS画面に切り替わり、プレイヤーの情報が表示された。
【英藍】
【桜庭冬実】
【日下部剛健】
学校の北校舎西端に三人のプレイヤーと思われる位置情報が点滅している。
「このニュービーって何だ?」
「新人プレイヤーにつく属性みたいよ。えーっと。ナルフィールドをこの部屋いっぱいに展開」
桜庭さんがスマホに向かって喋ると、金色の稲光が縦横に走った。物理室全体に直方体のナルフィールドが展開されている。昨日よりも広いが、大体同じ感じだ。俺のスマホには「ヒア・カムス・ア・ニュー・チャレンジャー」と表示された。そしてその下には「アクセプト(承認)」「ディクライン(辞退)」の二択。俺は「アクセプト」を選択して部屋の端に移動した。桜庭さんも逆の端に移動し始めた。すると目の前に逆さにしたシルクハットのような物が現れた。
「桜庭さん、これ何?」
「賭ける物をプールする入れものよ」
「え、お金かけるの?」
「いや、何賭けてもいいらしいけど、とりあえず百円でいいんじゃない」
「なるほど。じゃあ百円で」
俺たちは互いに百円玉を投入した。スマホ上ではデュエル十秒前と表示され、カウントダウンが始まっていた。俺と桜庭さんの区分けも変わり、「デュエリスト(決闘者)」として表示されている。藍は「ビジター(入場者)」扱いらしい。部長はといえば「アンノウン(不明)」で「ビジター」扱いになっている。部長の方を見ると、青い半透明の箱のような物に入っている。要するに蚊帳の外って事なんだろうな。部長は何が起っているのか全くわからず、藍を質問責めにしているようだ。藍は身振り手振りを混ぜて、一生懸命説明しようとしている。だが、そう上手く説明できるもんでもあるまい。兎にも角にも百聞は一見に如かずだ。
「バトルドレス装着」
俺の周囲で七色の光が渦巻き、ターコイズのハーフコートを形作る。桜庭さんのバトルドレスはカーマインのフードつきダッフルコートだ。プレイヤーによってバトルドレスの形状は変わるものなのか。カーマインはアグレッシヴな桜庭さんには似合ってるかもしれないな。
そうこうするうちにカウントダウンは終わった。デュエル開始の合図がナルフィールド全体を震わせる。俺は先手必勝とばかりに大型魔法「ティルト」を編み上げた。ティルトが飛ぶスピードは、ゆっくり歩く程度だ。従って避けるのも容易。だから、通常は見せ技としてしか機能しない。マナの消費も中程度だしキャスト(投射)にもそれほど時間を要しない。しかし威力だけは絶大だ。当たりさえすれば、一発KOもありえる。桜庭さんは、大型魔法のキャスト(投射)に驚いて慌てて軸をずらした。だが桜庭さんにはティルトしか見えていなかったようだ。続いて俺が左右に撃ち分けたウインドブーメランに気付かずに、何発も直撃を受けてしまった。右へ左へとノックバックを受け、体勢を立て直せずにいる。俺は桜庭さんが動揺している隙に「ダブルアクセル」を発動させた。こいつのキャスト(投射)は簡単でマナもほとんど使わないが、三秒間二倍のスピードで動作が出来るという優れものだ。俺はトロトロと飛んで行くティルトを追い抜いて、桜庭さんの左腕にアームロックをかけた。ウィッシュの戦略は、ただ魔法を撃ち続けるだけにとどまらない。空手だろうが柔術だろうが、何でも応用可能だ。俺が昨日マニュアルを読まずに研究したコンボがこれだ。腕を完全にきめられた桜庭さんは、全く動きがとれない。左手の自由を奪うことによって、両手を使うジェスチャ(動作)も封じ込められる。更には、最後の手段であるブロックの姿勢も取れないというわけだ。
桜庭さんは苦し紛れに右手だけで発動できるリミテッドフォースフィールドを前面に展開した。しかし、大型魔法のティルトはいとも簡単にフォースフィールドを溶かして貫通し、桜庭さんに命中した。桜庭さんを中心に大爆発が起こる。被害は近くにいる俺にもおよび、シールドを二割ほど削られた。しかし直撃を受けた本人は、こんなもんじゃすまないだろう。俺は続く攻撃に備えて数歩下がり、爆煙が立ち込めている間にマナ回復を行った。しかしスマホを見ると「ユー・ウィン」の文字が点滅している。どうやら今の一撃で桜庭さんのシールドを削り切ってしまったらしい。経過時間は二十二秒。実にあっけないものだった。
目の前の空中に二百円が浮かんでいる。これが賞金という事なんだろう。俺は二百円をつかむと、ポケットに入れた。スマホには「ゲーム・オーバー」と表示され、ナルフィールドは消滅した。同時にティルトの爆煙も霧散した。
「ケホッ、ケホッ。ちょっと日下部君、ひどいじゃないのよ」
「あ、あれ? なんかまずかった?」
「これって、お試し対戦なんだからさ。ちょっとは空気読んでよ」
「ごめん。なんかごめん。俺、勝負事になると熱くなっちゃうたちでさ」
「まあいい。もうっ。とりあえず、話し合いましょう」
俺たちは元いた席についた。部長の顔には恐怖と困惑が固着してしまっている。藍はそんな部長を気遣って、無理に明るく話しかけている。一方、桜庭さんはうんざりした面持ちだ。思いのほか、気分を害している。苦虫を噛み潰したってのは、こういうのを言うんだろう。
「桜庭さん、どしたの? あのー、だから、ごめんって」
「日下部君の喜色満面キモいですぅー」
「いや、そんなに喜んでるわけじゃなくて……」
「女子相手に関節技とか、ありえなくない? 百円ごときで、むきになっちゃって。あー、やだやだ」
「あ。百円返そうか?」
「い・り・ま・せ・ん!」
こりゃまいったね。むきになってるのは桜庭さんの方じゃないか。ひょっとすると、桜庭さんは勝つつもりでいたのかもしれないな。一晩がかりでマニュアルを読破するくらいだから、その気があってしかるべきだ。だとしたら、もうどうしようもないな。泣く子と地頭と格ゲーで負けて意固地になってる奴には勝てぬ。しばらくほっとくしかない。
切り替えて、部長に質問してみることにした。
「じゃあ、部長。とりあえず、今のゲームを見た感想をお願いします」
「いいい今のが、ゲゲゲゲームですって? 無いから。絶対無いから。いくら3Dのゲームが進歩したとしても、スマホのアプリでこれは無いから。マジ、ありえないでしょ」
意外な答えに俺が驚いてしまった。スマホでこのゲームはありえないのか。藍と桜庭さんの方を見ると。しごく当然であるかのような顔をしている。藍にいたっては、しきりに頷いている。また記憶の齟齬が俺を悩ませる。
「でも数値演算か何かで、物理現象を起こすのが情報物理なんでしょう? スマホだって一応演算能力はあるわけだから、応用すればこのくらい……」
部長がむきになって食い気味に反論してきた。
「ありえないから! それと、言うならば『数値解析』ね。でも、ありえないから。絶対無いから。スマホ程度の演算能力じゃあ、火も起こせやしないわよ。水鳥の羽を一ミリ動かす事だって出来やしない。それが、なんなのよ、あれは。波動拳やら大爆発やら。見てよあれ。机が焦げてるじゃないの」
言われて気付いた。そもそも魔法はナルフィールド外には飛び出さないはずだった。しかし、ナルフィールド内に取り込まれた机には焦げ跡がある。焦げ跡があるということは、これは単なる立体映像じゃないと言う事だ。魔法による爆発は本当に起こった事なのだ。やばいね。鼓動が早くなっている。恐ろしいわけじゃない。期待と緊張感で高揚しているんだ。
魔法というものが確かに存在して、それを扱う手段がある。俺の常識から乖離している力。いや、俺以外の世間の常識からしても現実に即していない力。そんな秘密の力が、今俺の手の中に――スマホの中に――あるんだ。平々凡々な只の高校生の俺が、世界に選ばれし勇者になった気がした。
「ちょっと日下部君? ニヤニヤ笑い、キモいって言ったでしょう?」
桜庭さんの、軽蔑の上から目線が突き刺さってくる。
「いや、ニヤニヤなんて。してな……いよ?」
「『魔法を自由自在に使えちゃってる俺すげー』って顔してた」
物事の本質を、ズバズバ言える人なんだな。そういう捌けた性格は、ちょっとうらやましい。
「あー。あはは……。うん、してたかも。力の差は歴然だったしね」
「チッ。次は負けないからね」
舌打ちされちゃったよ。ほんとに悔しかったんだな。これは、からかい甲斐があるな。俺はますます増長してニヤニヤが止まらないよ。そんな、どうでもいいやり取りをしていると、部長がまたメガネの位置を直しながら割り込んできた。
「なにげに私がのけ者になってるのは納得行かないわね。そのアプリケーション、私も入れるわ。どこにあるの?」
部長はスマホを操作しながら答えを促している。これには、桜庭さんがやや面倒くさそうに応じた。
「あ、ストアで売ってるものじゃないんですよ。メールで紹介されたものなんですよ。さっき見せたメールで……」
「じゃぁ、それを転送してくれない? あ、それよりもまずメールアドレスを交換しましょう。全員で」
時ならぬメールアドレス交換会が行われた。飛び交う電波。よくある風景。でも俺はメールアドレスを交換しただけの事で、秘密結社の一員にでもなった気がしていた。魔法同好会みたいな何か、もしくは、薔薇十字教団のような何か。痛いな俺。高校生にもなって根っこの部分は、まだまだ子供なんだよな。いやいや、俺のアドレス帳に妹達以外の人間が入るのは初めての事なんだ。浮かれるのも自然な流れだろう。
「ええっ? こんな怪しげなメールで紹介されたアプリを自分のスマホに入れたの? 信じられないわ。スマホは個人情報だらけだって言うのに、危機管理ができてないわよ」
部長が桜庭さんにまくしたてている。桜庭さんから例のメールを転送してもらってのセリフだろう。確かにその通りだ。普通なら迷惑メール扱いで即削除だろう。でも残念ながらインストールしてしまった一年生が居るんですよ。ここにね。三人も。
「一応マルウェアではなさそうね。でもちょっとこわ……いえいえ、私も魔法使いになるんだからね。これしきの事っ!」
部長は横を向いて目をぎゅっとつぶると、スマホの一点をタップした。多分インストールのボタンだろう。そうだよな。俺のスマホは空っぽだけど、普通の高校生のスマホには、重要な情報がつまっているものだ。もはや、自分の分身と言ってもいい。そこへ、わけのわからないアプリを入れるんだから、結構な恐怖だよな。
「え、もうインストールされちゃったの? 何かデータ量が小さすぎない? あれだけ派手な魔法が連発できるんだから、もっと重いものかと思ったわ」
その後も部長は初回起動の煩わしい設定を順々に進めて行った。そのたびに「あっ」とか「うっ」とか情けない声が上がる。俺は部長の悲鳴が一段落した所で、自分のスマホを対戦モードにしてみた。GPS画面に【富井静香】が新たに加わっている。
「あ、部長って富井ってお名前だったんですね」
「いっちばん始めに自己紹介したわよねぇ、私……。君、やっぱりバカにしてるでしょ」
またやらかしてしまった。これで何度目だよ、もう。ここは謝るよりも、おだててごまかした方がいいかもしれないな。
「静香って、いいお名前ですよね。優雅で可憐で優しい響きですよ。ご両親の深い愛情が感じられます」
今度は空気を読んだつもりだがどうか! 空気に神様がいるかどうかは知らないが、とりあえず祈ってみよう。
「ええ、いい名前よね。うちのバカ親父の昔の女の名前らしいわよ。母にとっては嫉妬の名前。私にとっては屈辱の名前よ!」
また地雷かよ。でもこれはどう考えても不可抗力だよな。もし地雷学者がいるとすれば、想定をはるかに超えるレベルの地雷と解説してくれるに違いない。俺と部長がギスギスしてるのを察して、藍が助け舟を出してくれた。
「部長さんもインストールが終わったことですし、みんなで対戦してみませんか? バトルロイヤルで」
しかし、部長は懸念を表明した。
「ちょっとちょっと待ってよ。私、インストールしたばっかりなんだから、ハンデありすぎでしょう。先輩には敬愛の心を持って接するものよ?」
「あ、なら部長さんには、ボクが魔法の使い方を説明しますよ。桜庭さんと剛健さんはお二人で対戦すると言うのはいかがでしょう」
桜庭さんの瞳に邪悪な輝きが灯った。
「いいわね。リターンマッチといこうじゃないの。日下部君」
「いいけど……。俺は手加減しないよ?」
「上等じゃないの。いくわよ?」
俺たちは席を立って、部長と藍の邪魔にならないところまで移動した。血気盛んな桜庭さんは、いきなりナルフィールドを張ってきた。俺は迷わず「アクセプト」と唱える。やばいね、このゲーム。面白いよ。どういう仕組みで動いてるのかなんて、もはや問題じゃない。俺は、単純にこのゲームを楽しみたい。そして色々な人と対戦してみたい。そして元気良く唱えた。
「バトルドレス、カムアップトゥーミー!」
「何かっこつけてんのよ。大恥かかせてやるんだから。見てなさいよ!」
俺は無視して、目の前のシルクハットに百円玉を投げ込んだ。しかし様子がさっきとは違う。スマホには「レイズ(掛け金を上げる)」「コール(同じ額を掛ける)」「ドロップ(降りる)」の三種類の選択肢が出ている。よく見ると掛け金が三百円になっていた。桜庭さんが掛け金を吊り上げたのだ。そのつもりならいいだろう。こっちだって負ける気はしないんだ。俺は「レイズ」と告げて五百円玉を投げ込んだ。桜庭さんは若干ビビりが入ったのか、コールで来た。残念ながら、桜庭さんは勝負の何たるかを知らないようだ。あなたは既に気迫で俺に負けているのですよ! カウントダウンが終了すると同時に桜庭さんは複雑な魔法を編み始めた。初手で超大型の魔法を使うつもりらしい。さっきの俺のやり方を真似しているつもりかもしれないが、本質的に違っている。桜庭さんの魔法は、ティルトと違って、マナの消費も大きいしキャスト方法も複雑だ。付け入る隙はいくらでもある。これは、悪手と言ってもいいだろう。俺は一瞬の動作で投射できる魔法、トレマーを編んだ。床がぐらりと揺らぐ。桜庭さんは自分の魔法に注力していたせいで、面白いほど派手によろけた。近くの机に手をついて、なんとか倒れることだけは回避できたようだ。しかし今ので魔法の編成は中断され、無効化された。
「ちょっ……。なにすんのよ!」
編成を中止しても、使ったマナは返っては来ない。桜庭さんの企みは、大量のマナを消費しただけに終わった事になる。無駄口をたたいてる暇なんてないんだぜ? 俺は、ポイズンをばら撒きながら桜庭さんに一歩ずつ近づいた。ポイズンは、放物線を描いてゆっくり投射される魔法だ。目で見てもよけられる上に命中精度が極端に劣る。しかし、着地地点に五秒ほど留まり、神経を侵す毒を垂れ流す。地味な魔法だが、桜庭さんようなの大味な戦術には効果が高い。桜庭さんは俺に近づかれるのを恐れて反射的に移動し、ポイズンの水溜りを踏んでしまった。直ちに桜庭さんのバトルドレスが紫色に変わり、ステータスの異常を示す。やっぱりね。桜庭さんは勝負への執念に欠けている。心のどこかで負けてもいいと思っているんだ。そういう人は精神的な圧迫に弱い。現に、ありえないような凡ミスを犯している。さっきと同じように、このまま関節技に持っていってもいいが、この際実力の差をはっきりと知ってもらった方がいいだろう。俺はパラライズの魔法を編んだ。触れた相手を人事不省にする魔法だ。編成の手続きは長いが、決まれば勝負は確定する。俺はパラライズを編み終わると一気に間合いをつめ、動きの鈍くなった桜庭さんの肩に触れた。ここで桜庭さんがブロックを使っていれば、まだ勝負は決まらなかっただろう。しかし、桜庭さんにはそれができない。マナの大量消費とステータス異常で、心が折れてしまっているからだ。蛇ににらまれた蛙の例え通りだ。そして、今やパラライズによって桜庭さんの動きは完全に封じられてしまった。俺は、ちょっと意地悪げに囁いた。
「どーすんの? ん?」
桜庭さんは、目を閉じて下唇を噛んだ。悔しさにわなないている。
「サ……、サレンダー(降伏)」
桜庭さんの降伏宣言と同時にナルフィールドが消滅した。同時に魔法の効果も消失する。俺の手には掛け金が落ちてきた。桜庭さんは、ふらふらしながら近くの椅子に腰掛けてうなだれた。と、思ったら今度はすっくと立ち上がり、俺を指差してにらみつけた。
「これで勝ったと思うなよ!」
「えええええ? 立ち直り早っ!」
わざわざ屈辱的な負け方を強いたのに、このあふれんばかりの闘志はどうよ。しかも、卑屈になって言っている訳じゃない。真っ直ぐで澄んだ瞳だ。必ず勝利をもぎ取ろうとする意志。桜庭さんはほんの数秒でそれを会得したのかもしれない。ちょっと惚れそうになってしまったじゃないか。俺もうかうかしていられないな。
桜庭さんは、腕組みをしながら近づいてきた。
「早速もうひと勝負。と、行きたい所だけど、ちょっと作戦タイムね。何か別な方法がありそうな気がしてきた」
「どんなの?」
「言うわけないでしょう。あえてヒントを出すなら、日下部君は的がでかいって事かしらね。それと、近づかれたら終わりって事も」
「あ、さっきの関節技痛かった? ごめん」
「いや、痛くはなかったけど。うん、大丈夫。ただ、近づかれちゃうとダメね。両手を押さえられるだけで、事実上の負けよね。だから、遠巻きにちくちくやるのがいいと思うんだ。で、考え中。多分この部屋が小さすぎるからダメなのよね。もっと広いフィールドじゃないと互角には渡り合えないと思うんだ」
「なるほどね。作戦、全部言っちゃってるみたいだけど大丈夫?」
「むむ! 忍法『聞き上手』ね! もうここからシャットアウトだから。ちょっとあっち行ってて」
犬にやるように「しっしっ」をやられてしまった。こうなると、にべもない。俺は仕方なく藍と部長の方に近づいた。どうやら、マニュアルの内容を説明しているらしい。
「どうしたの? チュートリアルはやらないの?」
「あ、剛健さん。チュートリアルのナルフィールドは、障害物があると開けないみたいなんですよ」
「あー。そういえばそうだったよな。なんでだろう」
「ボクも理由までは分からないんですよね。そんなわけで、マニュアルを見て説明している所なんですよ」
「外に出てチュートリアルをやった方が、分かりやすいと思うんだけど」
「このゲーム、見た目が派手じゃ無いですか。音も結構出ますし。誰かに見つかったら困りそうな気がするんですよ」
「ゲームだって言い張ればいいんじゃ無いの?」
「剛健さん……。これ、ゲームじゃないですよ、多分。ゲームに見せかけた、なにか他の物だと思うんですよ。例えば、悪の秘密結社が何かやましい事をするための手段だったりとかですねぇ……」
「何。陰謀論?」
「いえ、常識と照らし合わせてもです。これはゲームとは思えませんよ」
常識という言葉を持ち出されると弱いな。俺には常識が無いんだから、常識様には従うほかは無いわけだ。
「あー。まぁ……ね。うん。そうかもな」
「だから、人目につくところで練習しちゃまずいと思うんですよ」
「うーん。そうかなぁー。ときに、部長様はどのようなお考えをお持ちでいらっしゃいますのでございましょうか?」
「慇懃無礼ってやつよねそれ――」
「バカにしてませんってば。俺は真・剣・に・お話しているんですって」
「そうね。陰謀かどうかはともかく、このゲームのポテンシャルを量る必要はあると思ってるわよ。それを踏まえた上で、このゲームをおおっぴらにするかしないかを判断すべきだと思うわ。だから、今は目立つ行動は控えたほうがいいと思う」
なるほど、筋が通っている。理系脳ってのは切り口が鮮やかでいいよね。すごく分かりやすいよ。そんなことを考えていると、ちょうど会話を中断させるようにスマホの振動音が響いた。どうやら俺のらしい。メールではない。通話で着信している。初音からだ。すっかり忘れてた。ヤバい、怒られる。
「はーい。お兄さんですよー」
茶目っ気たっぷりに応対してみたりする。
『ちょっと、おにいちゃーん。何やってるのよもうー。お昼ごはん、とっくにできてるんだからねー。早く帰ってきてよぅー』
ふにゃっとした物言いだが、初音的には激怒だ。スマホで時刻を確認すると、既に十四時を回っている。話したり遊んでりしてる間に、大分時間を食ってしまったようだ。初音の怒りを治めるには、全力疾走で帰るしかない。
「分かった。ごめんなさい。もうしません。ダッシュで帰るんで、ご飯残して置いてください」
『ぶーぶー。もう、今日だけだからねー。せっかくおにいちゃんの……』
長くなりそうなんで、いきなり切ってしまった。電話で延々お説教を食らうのは勘弁願いたい。それよりも、一刻も早く帰宅して直接弁明した方が、はるかに気分がいい。
「あのー、部長。藍も。今すぐ帰んなきゃならなくなりまして。そゆわけで今日のところはこれで」
右手を軽く敬礼のような、毎度ありのような振り上げ方をして、別れを告げようとした。ところが、意外にも部長に引きとめられた。袖口を遠慮がちに掴まれている。そして反対の手では、白衣のポケットをごそごそとやっている。
「待ちなさい。ちょっと待って。あったあった。はい」
部長は俺に紙片を渡した。「入部届け」と書いてある。
「きょっ、興味があったら、またここに遊びに来なさいよ。気が向いたら入部して……も、いいんだからねっ」
なんか部長の態度が変だけど、またまずい事しちゃったかな。あ、またメガネ直してるよ。いや、部長の生態観察をしてる場合じゃないんだった。
「分かりました。気が向いたらまた来ます。その時は宜しくお願いします」
俺は、会釈した後バッグを持って、全力で走り出した。走れば自宅まで十分かかるまい。後ろで桜庭さんが「待てーっ! 逃げるなーっ!」と叫んでいるようだ。でも残念ながら、俺はちょっとそれどころでは無いので。