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意気揚々と学校へ乗り込んだものの、俺は早々に打ちのめされていた。学校に掲示されていたクラス分け表が、俺を絶望の淵に突き落としたのだ。
俺は一年一組。初音とも藍とも違うクラスだ。そこまではまだいい。しかしクラスに男子が俺一人というのは辛すぎる。強烈な疎外感にやるせなくなってしまう。まぁ、入学式での男女比を見れば仕方が無い事だとは思う。俺は窓の外を見ながらため息をついた。
俺の席は強制的に一番後ろにさせられていた。図体がでかくて後ろの人の邪魔になるというただ一点の理由でだ。
一番後ろの一番左。ぼっち席だ。いや、マイナス思考はいけない。見方を変えれば、ここは窓際のゴールデンシートだ。運がいいと思おう。運がいいとね。
今日はオリエンテーションという事で授業は無い。教科書やら生徒手帳やら色々な物を配られながら、学校生活の送り方をちょいちょいレクチャーされた。
担任は、やっぱり女性で体育教師らしい。これも、男性の体育教師じゃなかっただけマシだと考えるのが建設的だろう。暑苦しいのは苦手だからな。俺はまだ幸運なほうなんだよ。そう、運がいいんだよ、俺はね。
そうこうするうちに気詰まりの時間は終わった。担任がごきげんよう的なセリフを口にして教壇を離れた。俺は体重を背もたれにかけて両手両足をだらりと垂らした。ただ座っていただけだと言うのについつい縮こまっていたようだ。どうしようもない小物だね、俺は。
脱力して、ほうけていると、すぐ前の席の生徒が振り向いて声をかけてきた。
「あのさ、あのさ……」
茶髪で華やかな顔つきの美少女だ。くりっとした瞳は子猫のようで、好奇心をあらわにしている。
「ん。どうしたの?」
「最後の一個のお菓子ってあるじゃない」
「え? なに?」
「みんなで食べてるお菓子が、残り一個になった時の話。食べにくいよね」
「……。あぁそう……。いったい何の話?」
「君、そのお菓子になってるよ」
「へ?」
俺はゆっくりと身を起こした。クラスの半分ほどの人が、こちらを見るでも無し見ないでも無しと言った具合だった。
俺が眺め回すと、それに伴って視線の先の人が次々と視線をそらしていく。注目されているのか、されていないのか良く分らない。何なのこれは。新手のイジメですか? 俺は話し掛けてくれた女の子に問い直した。
「意味良くがわからないんだけど。俺、初日から嫌われちゃった?」
「ちっがーうよー。むしろ逆。クラスで唯一の男の子に興味津々なんだよ。みんな話しかけてみたいんだけど、がっついてると思われるのも嫌。ってな感じかな」
「がっつくって……。何か誤解じゃない? 女の子ってのは『男子なんて不潔ー』とか思ってるもんなんじゃないの?」
「いんやいんや、小学生じゃないんだからさ。日下部君は女の事をなんにも分かってないんだね。君はオオカミの群れの中に居る子羊なんだよ。知らん振りしてるけど、みーんな虎視眈々と狙ってるんだよ」
「そ、そうなのか。まぁ、とって食われるわけでも無いからいいか。それより、嫌われて無いと分かってほっとしたよ。俺、第一印象悪そうだから」
「えー。背は高いし顔も結構いけてると思うよ」
「あ……。それはありがとう。えーと……」
「桜庭冬実です。宜しくお願いします」
桜庭さんは、ちょこんと頭を下げた。
「あ、俺は日下部剛健。……です」
「知ってる。自己紹介したじゃない」
「あー、そうだけど。うん。ごめん。なんかごめん」
「お気になさらず。とりあえず、一個しかないお菓子に手をつけちゃった女として覚えておいてくれると嬉しいかな」
「なるほど。うん。覚えた。胸に刻みつけたよ。話しかけてくれてありがとう」
「いえいえ。それじゃまた明日」
桜庭さんはバッグをひょいと担ぐと手を振りながら遠ざかっていった。
「さよなら」
俺も手を振り返した。それにしても、桜庭さんのバッグはやたら軽そうだったな。教科書全部入りのはずなんだけどな。そう思ってふと桜庭さんの机の中を見ると、教科書が全部残されていた。いきなり置き勉とは肝がすわっている。最後のお菓子とやらに手を突っ込んじゃうのも分かる気がする。
一方、俺は多分まじめな人間だったと思うので、素直に全部入りバッグを肩にかけた。いや、わからないな。記憶を失う前、俺はまじめな人間だったんだろうか。真面目な人間だったとして、これからもまじめに振舞う必要があるんだろうか。
「おにいちゃん!」
いきなり初音の声が聞こえたのでびっくりした。しかも結構な大声だ。初音は教室の入り口に立って笑顔でこっちを見ていた。しかしその笑顔もすぐに引きつりだした。自分の大声で、クラス中の視線を一身に集めてしまい、ちょっとびびっているようだ。そんなに大声出さなくったって、ちょっと合図してくれれば気付くって。何をそんなに焦ってるんだろうな。おれはつかつかと歩み寄った。
「何、どしたの?」
「あのね。一緒に回ろうと思って」
初音はすぐにいつもの笑顔に戻った。俺はそれを見て、ちょっとホッとしてしまった。今まで緊張していたせいかな。ついつい初音の頭をなでてしまった。
「ちょ、ちょっとぉー。お兄ちゃーん。私、子供じゃないしー」
初音が顔を赤くしながらもじもじしている。きっと初音も新しい環境で緊張していたんだろう。寂しくなって、焦って俺を探していたのかもしれない。
「ごめんごめん。ちょっと可愛く見えちゃってさ。ははは」
「もうー、おにいちゃんったらー。恥ずかしいよ。早く行こっ」
初音は躊躇なく腕を絡めてくる。なでられるのは恥ずかしいが腕を組むのは恥ずかしくないらしい。校内ではちょっと勘弁して欲しいところなんだけどな。まぁ、言っても聞かないだろう。さっきにも増して、クラス中の視線が痛くなってきた。ここは、早急に退散するのが賢明というものだろう。俺達は教室を後にした。
「ところで初音。昼飯何?」
「え、すぐ帰っちゃうの?」
「帰らないの? 何か用事でもあるの?」
「部活を見て回ろうと思って。おにいちゃんはどこかに決めちゃってるの?」
「いや、部活なんて入ろうとは思わないんだけど」
「もー。おにいちゃん、ぜんっぜん人の話聞いてないよね。うちの学校は、なんかの部活に所属しなくちゃいけないんだよ。必須なんだよー」
「あれ、そうなの。知らなかった」
俺達は昇降口で靴に履き替えた。初音は、おニューのローファーの爪先をトントンとやっている。
「おまたせ。おにいちゃん。それじゃぁ、一緒に部活見て回ろうよ」
「見て回る?」
俺たちが昇降口を出ると、校庭の景色は登校時とは一変していた。いくつものテーブルが並べられ、文化部運動部が入り乱れて、新入部員の獲得合戦を繰り広げている。ビラをまく人、大声を張り上げる人、パフォーマンスを披露する人でごった返していた。これは喧騒と言うよりも、ちょっとしたカオスだ。
「おにいちゃん? 今日は部活を自由に見学できる日なんだよ。先生も言ってなかった?」
「あー。言ってたかもね。いや。すまん。聞いてなかった」
「もうー。おにいちゃん。私に謝っても仕方ないよー。それじゃあ、一緒に見学しよ」
「ぶっちゃけ、めんどいわ」
思っていた事がそのまま口をついて出てしまった。これが初音の逆鱗に触れたようだ。
「ねーねー、ちょっと、おかしくない? これから三年間やってく事なんだよ? まじめに決めようよー。もう、さすがにおこっちゃうよ?」
怒っている。これは、初音の最大級の怒りの表現だ。しかし、どんなに怒ろうともふにゃふにゃな所は変わらない。いかに眉を吊り上げようとも、口を尖らせようとも、可愛い顔が崩れることは無い。だが、鬼気迫るものはある。ここは初音に従っておくほうが賢明かもしれない。部活動が強制なのだとしたら、できるだけ楽にやっていける部を選んでおきたいところだ。吟味に吟味を重ねる必要がある。苦労を惜しむ事には苦労を惜しまない主義なのですよ、俺は。
「分かった。騒がしいのは苦手なんだが、とりあえず見て回るか。まずは文化部の方を……」
「私、テニスがやりたいな」
「はい、どうぞ、存分に」
「おにいちゃんも一緒にやるんだよ? テニス」
初音は不恰好にラケットを振り回すしぐさをする。悪いが汗臭いのは苦手だ。俺は、一パーセントの発汗でやっていける部を所望する。断固として所望する。
「何で俺が一緒にやらないといけないの」
「きっと楽しいよ、テニス。かっこいいし」
全然答えになってないな。それに、さっきから初音がやってるエアテニスはえらくかっこ悪いぞ。
「かっこで決めるなよ。初音は料理がうまいんだから料理部にしろ」
「え、おにいちゃんも料理したいの?」
「さっきから、何で俺が一緒の部に入るのが前提になってるんだよ。おかしいだろ」
「一緒の方が楽しいと思って。それに、今は女の子ばっかりなんだから、どこの部に入ったとしても、おにいちゃん浮いちゃうよ。私がフォローしなくっちゃ……。んね?」
「そりゃそうか。団体戦の競技じゃ混ざれないしな。それで個人競技のテニスってチョイスな訳か」
「そうそう。かっこいいしね」
どこまでもかっこにこだわる女、初音。少々あきれ気味でエアテニス音頭を見ていると、ふとある事を思い出した。昨日の夜にさんざん遊んだゲームの事だ。確か、あのゲームの出所はこの学校の物理部じゃなかったか? ちょっと覗いてみるのも悪くはないな。
「俺、物理部見てくるわ」
「え? ぶつり部? それってなにする部?」
「物理の勉強するんじゃないの?」
「えー。なんで部活でまで勉強しなくちゃいけないの? バカじゃないの?」
「バカはお前だ初音。全国推定一万人の物理部員に謝れ」
「ええー? 横暴だよぅ。理不尽だよぅ。私、そんなとこやだよー」
「別に一緒に来いとは言ってないぞ」
「ダメなの! 私はおにいちゃんと一緒に回るの!」
うざい。もう、どっか行って欲しい。何か適当な口実はないかな。
「あ、そうだ、初音さん。お昼ごはんは何ですか?」
「あー、それな……」
「酢豚以外の何かが食べたいです!」
「えっ? あっ? えっ?」
やっぱりな。今朝作った量を考えれば、昼も酢豚になる事は容易に想像がつく。ここを突いてうまく瓦解させられないものか。
「ラザニアが食べたいなー。おにいちゃん、お昼はラザニアが食べたいなー。初音の手作りラザニア。おいしいだろうなー」
いくら料理上手の初音といえども、ラザニアを作るには時間がかかるだろう。詳しくは知らないが、白いソースと赤いソースを別々に作って階層状に容器に敷き詰め、オーブンで焼かなければいけないはずだ。昼にラザニアを用意するには、今すぐにでも取り掛からねばなるまい。さあ、どうする初音!
「はうぅ……」
「酢豚は晩飯にしないか? 食卓も、ちょっとは変化をつけないとな」
「あー、もぉー。分かった。分かりました。お昼はラザニアにします。けどね。とりあえずテニス部は見学しますから。おにいちゃんが私と一緒に回るのが嫌なのは分かったけど、これは譲れません」
「あっ、そうね。じゃっ、今から別行動で」
「うー! うゅー! むゅー!」
本人は怒髪天なんだろうけど仕草が可愛くてしょうがない。両の拳を握り込んでプルプルと揺らしている。俺はそんな初音をチラ見しながら遠ざかった。あぁ、今度は地団太を踏み始めた。リアル地団太なんてあるんだな。別行動がそんなに悔しがるような事かね。
俺は別に間違ったことをしてるわけじゃないからな。そこんとこは分かって欲しいもんだ。第一、兄妹そろって部活見学なんてキモすぎるだろう。とはいえ、後でフォローは必要かな。ちょっとおだててやれば、機嫌も直るだろう。俺はポケットに手を突っ込みながら、部員勧誘の只中に分け入った。怒号と喧騒、カオスの中心部へと。