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実は俺たちには両親がいない。いないわけじゃないんだが、どうやら海外で御活躍なさっているらしい。その辺を突っ込もうとすると、全国妹代表大会のメンバーに、なぜか渋面を作られるので、深くは追求していない。とにかく、なんか訳ありなんだろう。そんな理由で、学校に行く俺たちを見送ってくれる者はいない。
マンションのエントランスを出ると、あゆは北の中学の方へ、俺と初音は南の高校の方へと向かった。
俺たちの通う高校は川越第一高校。去年までは女子高だったらしく、男子生徒はほとんどいない。入学式で整列した時には、俺が頭一分以上飛び出していて、嫌な感じで目立っていた。正直いたたまれない気分だった。
今日はクラス分けが発表されるはずだが、一クラスに男子は一~二人程度だろう。これが今後三年間続くと思うと、先が思いやられる。
それと、もう一つ思いやられることがある。俺の右手にぶら下がっている初音だ。初音にとっては、兄妹で腕を組んで歩くのは当然らしい。俺も、やぶさかではないので、黙認しているんだが、ちょっと重たい。
この状況は、周りから見たら「ガキ共が朝からいちゃいちゃしやがって」となるわけだ。当然、矢のような視線が降り注ぐし、突き刺さる。初音もそれを感じてはいるんだろうが、全然気にしていない様子なのが恐ろしい。にこにこしながら「おにいちゃん、おにいちゃん」とベタベタしてくる。まぁ、初音はとんでもない美少女だし、自慢の妹だから嬉しいっちゃ嬉しい。でもその愛が重いのですよ初音さん。
ついでに言うなら物理的にも重たい。身長差があるせいか、寄りかかられているせいか、腕が引っ張られてしまう。体が傾いてしまう。三年間続けられたら脊椎湾曲もありえるかもしれない。
「初音。そんなに寄りかかられると、体が傾いちゃうんだけど」
「あ、うん。そうだね。じゃ、今日はこっち」
右手にぶら下がっていた初音が今度は左手にぶら下がる。同じように引っ張るもんだから、今度は体が左側に傾く。
「あー、あのね……」
「これでバランス取れるよねー」
そういう事じゃないんだけどね。あー、もういいや。これでいいや。初音はニコニコ顔だ。いいんだよ。俺は初音が笑ってくれてたら、それだけで幸せだよ。たとえ俺が針のむしろでもね。視線が痛かろうがね。どんなに目立とうともね。
ふと道の反対側、車道の向こうに目をやると、俺と同じ詰め襟を着た少年と目が合った。少年は、立ち止まると唖然とした表情でこちらに熱い視線を送ってきた。やめてやめて。恥ずかしいんだからこっち見んな。そんなに珍しいもんでもないんだから頼むよあっち向いてくれ。
しかし、少年は意外な行動に出た。いきなり車道を突っ切ってこちらに走ってきたのだ。車道には車はないが、ノーブレーキの自転車がとんでもない速さで近づいてくるのが見える。道は緩やかなRがついている下り坂だ。詰め襟少年からは、視角になっているから、気づくわけがない。
俺は「あぶない!」と叫ぼうとしたが、「あ」を発音したところで全ては終了していた。それは一瞬の出来事だった。俺の腕にぶら下がっていたはずの初音が、その少年を抱きかかえて歩道に押し戻し、倒れこんでいた。なんというファインプレー。
チャリ野郎は止まる事もなく走り去った。ドラマでは良くあるワンシーンかもしれないが、実際はそんなのんきなものではなかった。初音がほんの僅か遅ければ、骨折程度じゃすまない。最悪死んでいたかもしれない。俺は倍速になった鼓動を深呼吸で抑えつつ、注意深く車道を渡って初音に近づいた。
「おい初音、大丈夫か。それと、君も……」
少年に覆いかぶさっていた初音が身を起こした。
「私は大丈夫だよ。それよりこの子を下にしちゃったから……」
少年もゆっくりと起き上がる。俺と初音を見てやっと状況を把握したと言うような顔だ。
「あうー。すいません。すいません。すいません。すいません」
高くて柔らかくて、ちょっとハスキーな可愛い声だ。初音に向かって何度もペコペコと頭を下げている。そのしぐさが何とも小動物のようで可笑しい。初音は照れ笑いを浮かべながらも、ちょっと困っている様子だ。
「ううん。そんなに謝らなくてもいいんだよ。それよりケガはなかった? どこも痛くない?」
「ええ、どこもなんとも無いです。おかげさまで命拾いいたしました」
「おおげさだなぁ。でも、気をつけなくちゃダメだぞ。中学生?」
「いえ、今年から高校生です」
あれ、同い年だったのか。童顔だから中一くらいだと思ってしまった。人は見かけによらないもんだ。良く見るとかなりの美形だ。初音と並んでいても遜色ない。こういうのを美少年って言うんだろうな。図体ばっかりでかくて、三白眼で表情筋のこわばってる俺は、ちょっとうらやましくなってしまった。誰が見ても第一印象ヤンキーだからな、俺は。
「それとあの……、あなたにもお礼がしたいんです」
少年は俺の方に向き直ってそう言った。
「俺?」
何のことか分からなかったが、俺の方を向いているんだから、俺に何か言いたいって事で間違いないんだろう。
「そうです。三日前は危ないところを助けていただいてありがとうございました。きちんとお礼を申し上げたかったんですが、あっという間に立ち去ってしまわれて……」
「あいや、俺も高一だから。敬語使わなくていいから。それより、俺と会ったことあるの?」
「ええ。まちがいありません。忘れようと思っても忘れられないお顔です」
悪気は無いんだろうけど、傷ついてしまった。俺の顔がね。ああ、そうだよね。忘れられない顔だよね。
「ま、まぁ、顔はいいや。俺、実は記憶喪失症なんだ。悪いけど君のことも覚えてないんだよね」
「きおくしょうしつそう……」
吹きそうになってしまった。天然なんだよな。狙ってやってるわけじゃないんだよな。面白いな。こんな奴が現実にいるとは思わなかった。
「そう。何も覚えてないんだ。ごめんな。ホント」
初音がちょっとはさんできた。
「おにいちゃん、三日前はちゃんとしてたよ? 記憶喪失じゃなかったよ? 目覚めたばっかりで、ちょっと言動がおかしかったけど」
「そうだった? どうだっただろう。うーん」
少年はさらに前に出てきた。
「でもでも、お礼だけは言わせてください。助けて下さってありがとうございます。命拾いしました。すごく怖かったんですよ」
また命拾いか。大げさだな。でも結構いいところもあったんだな、三日前の俺は。そんな考えは顔に出さないように髪をかきあげながら「フッ」とか言ってみた。もちろん心は景気よく小おどりしている。
「そうかそうか。よければ俺が何をしたか教えてくれるかな」
「三日前に財布を落としまして……」
「ふむふむ」
「落としたひょうしに、小銭を全部ばらまいてしまいまして……」
「なるほどそれで?」
「小銭が側溝に全部吸い込まれてしまいまして……」
「え? うんうん」
「たまたま通ったあなたが側溝の金網を……」
「あ、ああ、ああ」
「持ち上げられなくて、自分の財布からお金を貸してくださいました」
とんでもないへたれだ。恥ずかしくて冷や汗がふきだす。
「えええええ。俺、何もしてないんじゃない?」
「してくださいました。お金を貸してくださいました。三千円もですよ?」
「……そうだね。三千円は大金だよね」
「その三千円、お返しいたします」
「あ、どーも。うーん」
汗のふきだす音まで聞こえそうだ。
初音がニヤニヤ笑いを浮かべながら俺を肘でつついてくる。
「おにいちゃんも結構いいとこあったんじゃない。惚れ直しちゃったよ。お兄ちゃーん」
初音は頬を上気させながら上目づかいで俺を見つめてきた。ちょっとかわいいけど、今はうざい。
「気持ち悪い……」
「えー。なんでー? 褒めてるのになー」
「俺としては、不良に絡まれたところを、かっっこよく助ける、っていうエピソードがよかったんだけどなぁ」
そこへ少年がおずおずと口を挟んできた。
「あのぅ。すいません。どうか、けんかなさらずに。それと、あのあの、一緒に登校しませんか?」
「え? 同じ学校なの?」
「ええ。一高ですよね」
初音の方を見てそう言った。多分制服でそう判断したんだろう。男子の制服は、今まで無かったので、とりあえず詰め襟ということになっている。特徴なんかあるわけが無い。一方、女子の制服はかなり可愛いデザインのセーラーで、近隣ではかなり有名らしい。
「そ、そうか。学校が同じで学年も同じか。これも何かの縁だな。俺は日下部剛健。こっちは双子の妹で初音。よろしくな」
初音は会釈する。俺は右手を差し出した。
「ボクは英藍です。よろしくお願いします」
藍は俺の右手を両手でつかんでぶんぶんと振った。ずいぶんと嬉しそうだ。笑うと可愛いえくぼができた。第一印象からずっと思ってたことだが、この子は年下の女の子にしか見えない。背も初音より小さいしな。
「よろしく。藍ちゃん。じゃない、藍君」
思ってた事がうっかり口に出てしまった。藍ちゃんの顔がみるみる曇っていく。
「あのー。できれば呼び捨てで。苗字の方でお願いできませんか?」
名前にコンプレックスを持っているようだ。この外見で、この名前だ。こういったやり取りは幾度と無く繰り返してきたんだろう。少し寂しそうだ。
「いや。いい名前だと思うんだけど。藍。不満なのか?」
「女の子っぽくありませんか?」
「いいや。名前が人の心にどう響くかどうかなんて、本人がどんな生き様を見せるかによるんじゃないか? 玲於奈ちゃんだってノーベル賞学者なんだぜ?」
うっかり偉そうな事を言ってしまった。藍ちゃんとか言ってしまった俺が言っても説得力ないよな。
「そ……、そうですよね。感動しました。ぜひ、藍って呼んでください。剛健さん!」
「お、おう。藍。よろしくな」
「はいっ! 剛健さん」
なんだか良く分からないが、藍は非常に嬉しそうな様子なので、とりあえず結果オーライ。また笑いえくぼが出ている。くるくると表情の変わる面白い子だな。藍には悪いんだが正直女の子っぽい所があるのは否めない。まぁ、俺がそう感じてしまっている事は心の中でだけで詫びておこう。藍は初音とも熱烈な握手を交わした。
「私もよろしくね、英君。じゃあ、そろそろ行こっか?」
「はい!」
「そうだな」
俺たちは横並びで歩き始めた。そうだよな。はじめから「英君」って呼べばよかったんだ。記憶が飛んでるせいかな。色々勝手が分からないと、つまらないところで躓きやすいよな。そんなどうでもいい様な事をつらつらと考えながらのんびりと歩いていた。
いつのまにやら初音と藍はすっかり打ち解けてしまっているようだ。仲よさそうに歩いている。俺は、いつの間にか二人の後を付いて行く形になっていた。
新しい友達。こういうのも悪くない。たとえ過去が無くたって未来がある。こうやって新しい出会いを日々重ねて行くわけだ。ましてや俺の人生はまだ始まったばかりじゃないか。天を仰げば、ぬけるような青空。今日は風もおだやかだ。新生活も、まだまだ二日目。さあ、青春を謳歌しようじゃないか。