3
俺はいつの間にか寝てしまったらしい。ベッドの中だ。
鐘の音が鳴っている。お寺にあるようなアレだ。名物の鐘なんだが、朝な夕なにゴンゴン鳴られると、うるさいを通り越して憎しみさえ感じてくる。
そう思っていると、眉間に衝撃が走った。あまりの痛さに、うなり声が出そうになる。朦朧とした意識が、急速に回復してくる。どうやら俺は、自分のベッドの中で寝ていたようだ。そして、外は既に明るくなっている。眉間の衝撃の正体は、振り下ろされたあゆの踵によるものらしい。
このクソガキが何しやがんだ。俺は、上体を起こした。すると、熟睡しているあゆの姿が目に入った。俺と一緒のベッドで、俺と反対向きに寝ている。どうやらこのクソガキは、寝ぼけて俺の眉間に踵落としを食らわしたらしい。
安眠妨害の腹いせにアキレス腱固めでも決めてやろうかと思ったが、すんでのところで自制した。
兄と言うものは、妹にどんなに非があろうとも寛容の心で接しなければならない。俺はこれまで、妹たちに何度もそのように、教育的指導を受けてきていた。理不尽だとは思うのだが、そういうものだと納得するより仕方が無い。それが、女系社会のこの家で、穏便に暮らすコツなのだ。
俺はベッドから這い出ると、制服に着替え始めた。鐘が鳴ったと言うことは、今は六時ちょいといったところだろう。この怪獣と同じベッドで二度寝するよりは、登校の準備をしたほうが安全だ。
そもそも、こいつはなんで同じベッドで寝てるんだ。二段ベッドで、あゆは上、俺は下と決まっていたはずだ。寝ぼけるにも程がある。しかも、昨日見かけたパンツとキャミのままの姿だ。どうせゲームで疲れて、そのままベッドにダイブといった具合なんだろう。そもそも、その服装が気に食わんな。男兄弟と同室なんだから、もうちょっと気を使えと言いたい。
そんなことを考えながら粛々と着替えていたところ、突然ふすまが開いた。
「おはよーご……。あぁっ! おにいちゃんたら、またロリコンしてる!」
初音だ。朝ごはんの準備をしていたらしく、制服の上にエプロンをつけている。一方俺は、ちょうどジャージを脱いでトランクスだけの姿だ。
「こらこら、ノックくらいしろよ。俺のセミヌードがそんなに見たいのか?」
「引き戸でノックはおかしいんじゃない? それよりも・よ。おにいちゃん、またロリコンしようとしてたでしょ! ロリコンは『メッ』なんだからね」
「お前はこの状況を見て、何をもってロリコン呼ばわりをするんだ。俺はその暗黒連想回路に『メッ』したいね」
「あゆがおにいちゃんのベッドに下着姿で寝ています。そして、おにいちゃんはパンツ一丁で臨戦態勢です。これはもうロリコン現場そのものですっ」
言われて見れば全くその通りだ。状況証拠で有罪確定だ。だが俺にも一応言い分はある。
「い、いや、何をするっていうの。この俺が。何をするつもりだと思ったわけ? あゆと俺が? おかしくね?」
喋り始めてみると、俺に有利な証拠なんて何一つない事に気づく。動揺して、言い訳にもならない言葉ばかりが口をついて出る。
「むぎゅーってしたりとか、ちゅっちゅしたりとか、ぺろぺろしたりとか、さらには、ほむほむバンバンしたり……。もぉー。言わせないでよ恥ずかしい」
具体的に表現されるとつらいわ。妹つらい。
「なに言ってんだ。こっちが恥ずかしいわ。あほう」
「もぉー。そんな事言って、ごまかそうとしちゃって。ロリコンは犯罪なんだからね。許さないんだからね。そうだ。このふすま、とっちゃおうよ。それならもうロリコンできないでしょ?」
初音はふすまをガタガタやり始める。
「まてまてまてまて。ここ俺の部屋だから。プライバシーの侵害だから。そもそもがだ、俺とあゆが同室なのがおかしいんじゃないのか? ここが俺の一人部屋なら問題ないだろう」
初音の手が止まった。俺の言った事が余程意外だったらしい。
「そう言われて見ればそうだね。おにいちゃんが一人部屋になれば、もうロリコンできないんだよね」
俺は今まで一度もロリコンした覚えなんか無いんだがな。ついでに突っ込ませてもらうならば、ロリコンはサ変動詞じゃ無いぞ。
「そもそも、何で俺とあゆが同室になってるんだ? まず、そこからしておかしいよな」
「んー。それは、あゆがベタベタのおにいちゃんっ子だったからだよ。それに、おにいちゃんも……、前はこう……、真面目でクールな感じだったしねぇ~」
初音はニヤつきながら八重歯を覗かせた。また遠まわしにバカにされた気がするんだが、いちいち突っ込んでられないんで話を進めよう。
「じゃあ、今は条件が変わったんだ。部屋割りを変えようじゃないか」
「わかりました。今度、全国妹代表大会、で決めたいと思います。それでいいよね」
「なにげに俺がハブられてるんだけど、その会議」
「全国妹代表大会は我が家の伝統なのです。それに、女同士の争いは、おにいちゃんには見せられません」
「えっ。部屋割りごときで争っちゃうのかよ。まぁ、良く分かんないけど、ひとつ穏便に頼むよ?」
「言われなくても、ちゃんと仲良くやるよ。そうそっ。ご飯だから呼びに来たんだよ。あゆの事も起こしてね。そんで、すぐに着替えて着席することっ! いい?」
「へいへい」
初音はくるりと向きを変えた。黒髪がひるがえる。ちょっといい匂いがする。初音はいいよな。うん。可愛いし料理も上手い。朝も起こしてくれる。食卓につけばメシが出てくる。ちょっと口うるさいけど、それもまた愛しい欠片。俺はワイシャツに袖を通し、ボタンを留めながら足であゆを転がした。
「んー。あー。もう朝? 死ぬ。死ぬ。寝不足で死ぬんじゃね?」
あゆは、目を半開きにしてベッドの中で女の子座りになった。目をこすってる様子が、猫が顔を洗ってる様子に似ていてほほえましい。
「大丈夫だ。寝不足で死んだ奴はいない」
「いや絶対いる。いるから絶対。検索する」
あゆはあくびを左手で抑えながら立ち上がり、自分のスマホに手を伸ばした。
「何してんだよ。寝不足で倒れる奴がいるとしたら、そいつは寝てるに決まってんだろう? そもそもゲームで寝不足ってのはちょっとどうかと思うぞ? ゲームは一日一時間って、誰だっけ……、なんか言ってなかった?」
あゆが全然聞いてない様子なんで、俺は途中で喋るのをやめた。あゆはスマホをものすごいスピードで操作している。あまりに速いんで思わず見とれてしまった。あゆのスマホは簡易キーボードがついているタイプなのだが、指が見えないほどの速さで打鍵している。ちょっと感心したが、ちょっとあきれてしまった。これは努力の無駄使いって奴じゃないか?
「いないわー。寝不足で死んだ人いないわー」
「あたりまえだ。そんなことより寝不足にならない努力をしろ。それといいかげんに着替えろ」
「ん」
あゆがセーラー服のかかったハンガーを手に取った。セーラー服ってのはわきが開くようになってるのか。またどうでもいい事を知ってしまった。いや、そんな事はどうでもいいんだった。パソコンに詳しく、ゲームに詳しく、ITガジェットにも詳しいあゆに質問があるんだった。
「おい、あゆ。なんとかってゲーム知ってる?」
「ぷっ。なんとかって何。あたしエスパーじゃないから」
「なんつったっけ。そう。なんとかウイザードってゲーム」
「そんなん山ほどあるんだけど。コンシューマー?」
「あー、よく分かんないけど、スマホ使ってやるゲームなんだよ」
「もしかして、自信満々に『無料』って書いてあるやつ?」
「まぁ、無料とは書いてあったかな」
「あー、やめとけやめとけ。その手のゲームは、後でたっぷり絞られるようにできてるから。手ぇ出さないほうがいいよ」
「そ、そうなのか……」
あゆが言うんだから間違いないんだろう。あれだけ面白そうなんだから、ちょっとくらいなら課金してもいいような気はするけど……。絞られるのか。それなら、あきらめるほか無いかな。あゆがスカートのジッパーを上げて、くるりと回した。俺もズボンのベルトを留めたところだ。
「じゃあ、ちょっと早いけどメシにしようか」
「おきどき」
俺はふすまを開けてリビングに入った。食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。しかしあれだ、ちょっと嫌な予感もする。俺はその予感を振り払いながら食卓についた。初音がカウンターの向こうのキッチンから声をかけてくる。
「あ、ちょうど出来たとこだから。今運んでくねー。はいっ。おまちどうー」
酢豚だ。
「あー……。朝から酢豚っすか?」
「えー、食べる前からダメ出し? もー、ホント信じらんない。バカじゃないの?」
「あっ。す、酢豚ね。酢豚好きだよ。うん」
「でしょー? おにいちゃんが好きだって言ったから作ったのにー」
「あ……。言ったっけ。好きって」
「言ったもん」
「じゃぁ、しょうが……、いやいや。嬉しいよ、初音。ありがとう」
俺は動揺しながらも初音に最上級のほほえみを投げかける。初音の顔がパッと明るくなり、ほほに色がつく。しかし、妹のご機嫌取りってのは、精神的な力仕事だね。疲れるわ、ほんと。
「よかったー。早起きした甲斐があったよー」
「なに。何時ごろ起きたの?」
「四時半」
「っ……。はぁー。こ、今度からはさ。トーストとベーコンエッグとかにしない?」
「えー、そんな手抜き料理でいいの?」
「いや、そっちが普通だと思うんだけど。どうかな? あゆ……」
ちょっと隣に座っているあゆにふってみた。あゆは口いっぱいに貪りながら答えた。
「んー。朝は簡単なのが普通でしょ。酢豚とか絶体絶命おかしいから。朝っぱらから初音ばっかり点数稼いで。ずるいったらないわ」
あれ、あゆがなんかつんけんしてる。ここは普通にフォローすればいい所だっていうのに、何考えてんだ?
「もー、あゆ? お姉ちゃんに何てこというのよー」
「だぁって、そうじゃん。剛健も鼻の下伸ばして喜んじゃってさ。ほらっ」
いきなりあゆの裏拳が飛んできて鳩尾にめり込んだ。ちびっ子とはいえ、鍛え抜かれた肉体から放たれる至極の一撃は、俺を悶絶させた。何を揉めてんだ、こいつらは。俺にとばっちりが来るのも勘弁して欲しい。
「いいからっ。もう、いいから。おちついて。朝食はみんなでおいしく楽しく。なっ」
俺は鳩尾の疼きをこらえつつ、にこやかに場を収めようと努力する。悲しいけど、これが兄のつとめだ。
「「わかった」」
あ、そこはユニゾンなんだ。ともかく、おとなしくなってくれて何よりだ。
「そういえば圭は?」
初音が渋い顔をする。
「圭は、ほら。ひきこもりだからさ。多分一緒には食べないと思うよ」
「春休みに引きこもるのはいいんだけどさ。学校はどうするんだ?」
「行かないんじゃない?」
「そんなあっさりと……。そんなんでいいの?」
「だって……。ねぇ……」
初音があゆに目配せする。あゆは黙ってうなずくと、席を立った。
「え、あゆ? どうすんの?」
「お供え物」
あゆは圭の分の朝食をお盆にのせ、ラップをかけると廊下の方に出て行った。雰囲気から察するに、圭の部屋の前に置いとくんだろう。前から、こもりがちな奴だとは思ってたが、本格的なひきこもりだとは始めて知った。記憶喪失とはいえ、家族の負の面をえぐってしまったようだ。何か申し訳ない気分でいっぱいになる。
「まあ、三人だけでもいいさ。今日は朝からご馳走なんだ。はりきって行きょうぜ!」
和ませるつもりが、噛んじゃったよ。どうにもしまらないね、俺って奴は。でも二人の妹たちは笑顔で応えてくれた。いいよな。家族ってのは。こいつらに囲まれて、俺は幸せ者だよ。とりあえず記憶がなくなっても、どうって事は無いくらいにはね。