La serata(夕空に染まる闇)
「ここはどこですか」
暫く走った少女は、森の外れにあった民家の軒先で作業をしている若い女性にこう尋ねた。しかしどうにも言葉が通じないようで、女性は首を傾げて聞いたことも無い言語で何やら言い返してくるだけであった。
「私!西に!行きたい!どっち!?」
今度は単語単語で怒鳴ってみたものの、理解してもらえるはずも無く闇雲に時間が過ぎるだけであった。こんなことならロシア語でも勉強しておくんだったと後悔したが、今更だ。だいたい、そのロシア語かさえ分からないのだ。
そのまま何度か通じぬ押し問答を繰り返したが状況は打開できず、このままじゃ埒が明かないと悟った彼女は、問うことを諦め唐突に手にした大きいほうの銃、ライフルのストックで女性を殴り倒した。ウッと唸ると、彼女はその場に倒れこんで動かなくなってしまった。死んではいないだろう。この隙に下着でもいただくとしよう。
どうして自分でもこんなことをしたのか分からなかった。今までこんな暴力的な手段で解決しようとしたことは殆ど無い。逆に自分の力で人を傷つけることを恐れる程だった。それが何故か今はこうして大して躊躇いなく人を殴り倒してしまった。すぐに後悔したとはいえ、さっきの兵士だってそうだ。急にこう、暴力的というか、力を振るうことに遠慮がなくなってしまった。そう、急に。
「これと、これを頂こうかな。ごめんなさい」
女性の家の中に侵入した彼女は、サイズの合いそうなシャツやら、葡萄酒やらを幾らかをバッグに詰め込むと、倒れている女性を家の中のベッドに寝かせ、その場を後にした。いつかこの償いはしなければならないだろう。さっさと着替えたいところだが、兵隊の追手が来ている可能性が無いとは言い切れないため、着替えは後回しだ。水を一口含むと、歩き出した。ライフルの使い方はまだ分からないが、さっき女性にしたように鈍器としては十分な威力がある。
ふとバッグの外のポケットから四角い紙が覗いているのが見え、何だろうかと引き抜いてみた。広げてみてみると、どうやらこの周辺の地図らしい。これは一気に事態が進展した。これがあれば少なくとも五〇キロくらいは正しい方角へと進めるはずである。嬉しさに思わず笑みをこぼすと、早速地図を覗き込んでみた。汚れた地図には何やら書き込みがなされているが、それを無視していく。
「これがさっきの湖で、ふんふん………こっから南に行くと川があって……これは?」
川を指でなぞりながら西に進んで行くと、川が何かの横を通っていることに気付いた。町程度の規模だが、町のようではない。その土地の名称らしき記述の横にはBaseという単語が。つまり基地があるということだろうか。基地なら何か乗り物があるかもしれない。バイクはちょっとだけ触ってみたことがあるが、乗れないことも無さそうだった気がする。根拠のない自信だが、歩いていくよりは楽じゃないだろうか。不思議なことに、無意識の内ではあったが彼女はその基地に引き寄せられているような気がしていた。何かの目的があるわけでもなし、近づくだけ危険である。だのにどうしていかなければならないような気がするのか。いや、寧ろ誰かが読んでいるような。
そんな疑念を抱きつつも、彼女は基地へ行くことを拒むことはできなかった。
ところでどうやって基地に忍び込むか。恐らくというか必ず、基地にはさっきのような兵隊が沢山いて、皆銃を持っているのだろう。見張りも民間とは比べものにならないくらい厳重なはずである。それならどうするか。
例えば正面から行ってみる。この服を着ているからすぐには撃たれないかもしれないが、近づけばばれるだろう。駄目だ。なら帰って来た兵隊たちにこっそり紛れ込むのはどうだろうか。いけるかもしれない、いや確実に自分の見た目でばれる。なら、ならどうする?諦めるか、それは駄目だ。一刻も早くこの地を離れたい、だから少しでも使えそうなものは使わねばならないのだ。
「夜……夜陰に乗じてみようかな」
自分の真っ黒い姿を利用して、夜に見張りの死角を突いて侵入するしかないだろう。軍服はオリーブドラブだが。
少女は、早速川に向かって南下し始めた。十分とかからずに川に合流すると、地図を眺めつつ川に沿って西に向かう。景色は変わらず針葉樹
がそびえ立ち、涼風が川を下っていく。服の隙間を通り抜ける風は少し寒いほどだ。基地に近づいたら、安全な場所を見つけて着替えなければ。それに銃の使い方もどうにかして調べておいた方がいいだろう。ただ間違えてもうっかり発砲してしまわないようにしなければならない。折角基地のすぐそこまで来て見つかりましたじゃ話にならない。
川に沿って西に向かい始めてから三〇分ほど経っただろうか、前方の茂みが動いた。彼女はナイフを抜き両手で力強く握りしめる。そして身構え、草むらを睨む。もし兵士が来たら?気絶させることは出来ても、殺すまでの度胸は無かった。だが、いつかそれをしなければならない時が来るのだろう。深く息を吸い込んで止めると、神経を足と目に集中させた、来るなら来い。
現れたのは、二匹の狐であった。全身から力が抜けていくのがわかる。緊張が一気に解けたことにより思わずその場にへたり込みそうになりながら、彼女は狐たちが去っていくのを眺めていた。狐は夜行性のはずだが、いやそんなことはどうでもいい。狐は片方が大きく、もう片方は小さかった。恐らく親子なのだろう。故郷の家族のことがまた頭に入ってきた。やはりまだ現実とは思えない、皆が死んでしまったなんて。陽気で歌が好きだった父、同様に陽気で煮込み料理が得意だった母、去年家を出てグラハムさんとこの肉屋で働き始めたそばかすのハンス。クセ毛に悩んでいた活発なヴァネッサ、同い年のメデフグイ、そしてチビ達。本当なら今日はヴァネッサと、友達のエヴァと一緒に牧場に牛を見に行っているはずであった。
思い出すと悔しさやら憎しみや幾つもの負の感情が体中から湧き上がるのだ。かつてこれまで何かを憎んだことがあっただろうか、これほどの喪失感を得たことがあっただろうか。やはり、昨日の夜、特に飛行機を目にしてから何かが変なのだ。体に変調をきたしているようだ。
地中に半ば埋もれた旧時代の何かを跳び越える。まさか、まさかこの顔の意味ありげな模様、耳、そして色違いの左右の目が関係しているのだろうか。そう考えると、どうしてもそのせいにしか思えなくなってきた。誰も同じような特徴を持たぬこの体、まさか何か悪魔が憑いているのか、それとも私自身が悪魔なのだろうか。分からない、分からない。もしかしたら、分かっても分かりたくないのかもしれない。彼女はこれ以上考えるのを止めてしまった。より追及すると、自分を見失いそうになるから。
「私はいったい……何なの」