ad ovest(西へ)
小鳥のさえずりが森に響く、魚が湖面に跳ねる。黒と白のコントラストが映える美しい少女は目を覚ました。昨日までなら目の前には二段ベッドの天井が見えている筈だ。上の段には一つ上のヴァネッサがいて、隣にはエカチェリーナがいて……そして、そして…………
そんななんて思ってなかった毎朝がもう来ないのだと悟った時、彼女は言いようのない喪失感に包まれていた。今自分が素っ裸なんてことがどうでもよくなるくらいに、いや、それ以上に大きなダメージが精神に負わされていたのだ。
それから十分ほどそうしていた後、体がすっかり冷えていたことに気付く。普通なら水浸しのまま何も纏わずに寝たのだから、風邪の一つくらいは引いているのだろうが、やはり咳の一つもしないのだ。これを母マンダナは、体が丈夫で悪いことは無い、気にしない。と肩を力強く叩いて励ましてくれた。街中に悪い伝染病が流行った時も、果たして一人ケロッとしていた。それを見た父は、昔のように変な輩が寄ってこないように、自分を家の中から一歩も出そうとはしなかった。
「お父さん、私、実感ないけど生きるよ。うん、生きてる」
彼女は空を一瞥し、立ち上がる。不思議と体の痛みはとれており、細かな傷はもう治りかけていた。今日先ずやることは服を探すことだ。町を襲った奴らを調べるのはその後。彼女は周囲に警戒を払いつつ、歩を進めた。父の格言の一つに、森を恐れよ。というものがある。森には人間の範疇を超えたものが数多く潜んでいる。森は時に人を育てるが、時に牙をむく。警戒をし過ぎるということは無いのだそうだ。
神経を耳と目、鼻に集中させつつ少女は森を進んだ。進みつつ周囲の情報を取集し、自生する植物や動物、空気、土の感触、いろんなものから感じ取っていく。ムゥロはプラタナスやカサマツ等針葉樹も広葉樹も、種類が豊富な土地であった。対してここに植生しているのは針葉樹林ばかりだ。少し見栄えがしないが、どうやらここは東欧の辺りらしい。多分昔ポーランドとかロシアとか言われた国のあたりだろう。すると気候は涼しいはず。距離も多分遠くは無い、そう、遠くは……遠くない?実際は彼女はウクライナにいたのだが、それはさしたる問題では無かった。
「と、遠いよ……」
彼女はその自分の憶測に愕然とした。世界地図を最後に見たのはいつ頃だったかは忘れたが、確か少なくとも千キロはあるはずだ。それも直線距離でだ。見知らぬ土地を、方角も分からぬまま千キロも進めと言うのか。自慢じゃないが方向感覚はあまり良いとは言えない。うっかりアフリカに行ってもおかしくはない。サッと血の気が引き、膝を地面に着くと頭を垂れてしまった。いくらなんでも遠すぎるではないだろうか。きっとこのまま家族を弔うこともできぬまま素っ裸でのたれ死ぬのだ。そう思うと、急に涙が溢れてきた。家族の敵討ちも出来ぬのだ。
悔しさに嗚咽を漏らしそうになっていると、向こうで木の枝の折れる音がした。涙を流したまま咄嗟に木の陰に隠れ、息を殺して向こうの様子を伺った。耳を澄ませば、何やら男の話し声が聞こえる。彼女の目に映ったのは、何やら兵隊のような出で立ちをした男が二人、細道を歩きながら話していた。二人の手には拳銃より大きな銃が。後に彼女はそれをライフルと知る。彼女が服を着ていれば助けを求めたかもしれないが、何分その服を着ていない。森で見知らぬ男に出くわすというだけでも身の危険が大きいというのに、うら若き乙女が素っ裸なのだ。襲われぬわけがない。彼女はその二人の後を追いつつ、一つの結論に至った。
(よし、服を借りよう)
借りるとは名ばかりの、要は強奪である。銃を持った男二人を相手にうまく立ち回れるかとは思えないが、今の彼女はやけに自信に溢れていた。もしかしたら必死だったのかもしれない。とにかく、彼女は彼らの服を奪うことに決めた。丁度片割れは小柄で彼女と同じくらいの背丈だ。二人に隙が出来る瞬間を伺いつつ後をつけていると、先程の湖に戻ってきた。大きな方がしゃがんで手に水を掬ってそれを口に持っていく。男は喉を潤すともう片方の、目標の方が大きい方に何かを告げ、一人森の方へと戻ってきた。男は彼女が隠れている草むらの前に来ると、不意にズボンをゴソゴソとし始めた。すぐに彼女は悟る。
(そ、目の前で!)
そんなもの見たくはない、覚悟を決めた彼女は一気に男に飛び掛かった。完全に気を緩めていた男は、突然目の前から飛び出してきた肌色の何かにボコボコに殴打され、ろくな抵抗もできぬまま伸びてしまった。
「や、やっちゃった。人を殴ってしまった」
半ば自己嫌悪に苛まされつつも、早速剥ぎ取りにかかった。あまり長いと大きい男に変に思われるかもしれないし、こいつも起きるかもしれない。手際よく下着以外を脱がすと、そのまま服を着てしまった。下着がないためゴワゴワするものの、文句は言えない。そこらへんの物はどこかで調達すればいい。しかしどうしてもサイズの関係上ずってしまうズボンは、ベルトで縛って押さえた。
「……いっ、いてえ。なんゴフッ」
目を覚ました男の顔面にもう一度強烈な突きをかまして再び眠らせると、今度は男の持っていた物を探り始めた。トランシーバーに拳銃に大きい銃、ナイフ(これは使えそうだ)。彼の下げていたバッグには黒パンと水の半分ほど入った水筒、黒っぽい棒。缶詰二つにあと懐中電灯に銃の予備弾倉やマッチなども入っていた。やっぱりこの人たちはどこかの国の軍隊の人なのだろう。少し悪いことをしてしまったという気持ちになりながらも、彼女は全速力でその場を後にした。彼が再び目を覚ましたのは、全く戻ってこないことに疑念を抱いた相棒が十分後に彼を起こしに来た後だった。その頃既に少女は遠くへと走り去ってしまっていた。