Lei ride(老いし男の笑み)
彼女が再び目を覚ますと、そこは空中であった。そして彼女は結構な速度で落下していた。
「えっ!ななな、何なのお!?」
その上なんと全裸であった。下着一つさえ身に着けておらず、生まれた状態の姿そのものであった。周囲の状況にも、自分の状況にも理解できないまま、次の瞬間には彼女は水面に突っ込んでいた。
「イデッあああああああ‼」
2回バウンドし、水面に叩き付けられた衝撃を痛がる余裕もないまま水中に沈んで行く。冷たい水を一気に飲みこみ、生命の危機を理解した彼女は、死に物狂いで泳ぎ水面を目指した。死にたくない、その一心で泳ぎ泳ぎ続けどうにか顔を出して肺に空気を取り込むことに成功した。
「ゴホッゴホッ……こ、ここはどこだっていうの!」
咳こみ、立ち泳ぎのまま辺りを見渡した。見たことも無い場所、見たことも無い木々。自分がどこにいるのか、自分が何をしたのか、今がいつなのかさえも分からず、唖然とした。
故郷にも湖や川があったが、見たことがない景色だし、ここまで大きくは無かった。
取り敢えず、彼女は岸を目指して泳いだ。今が夏で良かったと心から思う。真冬の湖に素っ裸で飛び込んだら間違いなく凍死するだろう。それどころか表面を覆う氷に切り裂かれて今頃魚の餌になっていたかもしれない。水を幾らか飲み込みながらも陸地に辿り着くと、彼女は体から滴り落ちる水をそのままに、草むらの上にどっしりと倒れこんでしまった。全身が痛むし、力も入らない。所々圧迫されたように赤黒くなっている部分もあった。叩き付けられた時の物でもないようだし、家の残骸に挟まれた際の物でもないようだ。
「…………何が、何なんだか……」
力なく首を横に振り、そのまま空を見上げた。荒廃した地球は昔とは変わり果てても、彼方の闇に瞬く星々たちは今も変わらずそこにいる。文明が滅びたことによって、世界からかつてのように昼夜を問わず輝き続けた電気が姿を消し、そのおかげで数百年前のような輝きを彼らが取り戻したのは皮肉であろうか。彼女は手を空に伸ばそうとしたが、どうにも上げられず、スッと視界が暗むのが分かった。今日は、よく世界が途切れる……
少女が眠りに就いたころ、東欧の、あるシュバステン空軍の基地の一室の前に、一人の若い士官が立っていた。階級は中尉、彼はムゥロ爆撃の戦果報告を方面軍司令に伝えるためにそこにいた。いつもながらここに来るのは緊張するが、今日ばかりは本当に目の前のドアをノックしたくなかった。どうしてこのことを伝えられようか。こんなありえない、シュバステン空軍発足きってのひどい報告を。彼は冷や汗を額から流しながら、恐る恐るドアをノックした。
「ムゥロ爆撃の報告に参りました」
一拍おいて、低い少しばかり置いた声が返ってくる。
「入りたまえ」
彼は深く息を吸って吐くと、ドアノブに手をかけゆっくりと捻った。決して大きくはない部屋の中には壁を埋め尽くすほどの本と、コンピュータがあり、そして何より目を引くのが正面の壁に掛けられた油絵であった。古ぼけた絵だが、それなりに価値があるのであろうことは彼にも容易に想像が可能であった。絵の中心には青い竜と赤い竜が円を描くように飛んでいた。そしてそれを下のほうに小さく描かれた人々がただ見上げているだけであった。彼はそれを今のシュバステンと他国家の縮図のように捉えていた。だが、この絵の持ち主はそんなことは毛頭考えていなかった。寧ろ自分たちは見上げる人間のほうだと考えていた。その男は、椅子に腰かけていつものように書物を読みふけっていた。やはり神話上の生物についての本だ。いつも通りだ。彼は呆れると後ろ手にドアを閉めて机の前に歩み寄り、ボードに挟んだ一枚の紙を彼に手渡した。ブロンドの髪を撫でつけた初老の男で、汚れひとつない軍装にはいくつもの勲章がぶら下がっており、彼が体を動かすとそれらはぶつかってカチャカチャと音を立てて揺れた。
男の名はハワード・ゲイツ、中将にしてシュバステン空軍創設者の一人。冷静な慎重派の人間で優秀なのだが空想上の生物、特に竜に対しての執着が大きいという、変わり者扱いされている男であった。彼は老眼鏡を指で押し上げると報告書を目を細めて睨みつけた。やがて彼は眉間に皺を寄せると中尉にこう尋ねた。
「つまりこれは……アー、文字通り一機も残らず撃墜されたということかね」
ええ、と気まずそうに答えた。どんな理不尽な怒声を飛ばされるかとおびえた。しかし彼は全く興奮することなく、むしろ少し目を輝かせてこう尋ねた。
「それでこのクレインを撃墜したものと思しき者の特徴らしい通信の全文はどこかね」
彼が尋ねると同時に中尉はもう一枚の紙を素早く手渡した。彼は先ほどと同様にそれを眺めていると、突然カッと目を見開いたのである。そしてうわごとのように、まさか、まさか……と繰り返すと全身の力が抜け出たように椅子に倒れこんでしまった。
「将軍!」
中尉が慌てて駆け寄り介抱しようとするとゲイツは震える手でそれを制し、代わりに右手で顔を拭う。
「どうされたのですか、将軍」
「何、気にするな。それよりこの電文を元に至急この何者かを捜索し生きたまま捕えるよう全部隊に通達しろ。いいか、殺すな。必ず生かしたまま捕えよ」
中尉は彼の一転して鬼気迫った物言いに多少身じろいだが、すぐさま部屋を後にすると全速力で伝令部へと走った。ゲイツが〝生かしたまま〟を強調したのは、中尉は敵の情報を聞き出すためかと思っていたが、そうではなかった。その強調はむしろゲイツの私情によるものであった。
彼は足音が遠のいていくのを耳にしながらクックと笑いをこぼした。まさかここにきて長年の夢が現実になろうとしているとは、予想だにしなかった。その足跡のみ確認できていたが、それすらも本物であるという証拠はなかった。だのに、この電文はなぜか信用できた。その根拠は無い、だがしかしそれが真実の糸を垂らしているようにしか思えなかったのであった。彼はデスクの引き出しから自分が編纂してきた文章の束を引っ掴むと電文と、ほんとで照らし合わし始めた。これから忙しくなるぞ。人生最高の時がやってくる、そう感じた矢先だった。
「お前は変わり者だな。そこまでして何故我々に近づきたがる」
低い男の声が執務室の中に響いた。
と同時にゲイツは拳銃を取出し声のした方向にその先を向けた。黒人の、見たこともない衣装を身にまとった大男がまっすぐ彼を見つめていた。その姿を認めた瞬間、彼はその男の正体に感づき銃を下した。
「…………」
言葉を発しようにも、声が出なかった。それを見た男は笑うと言葉を続けた。
「どうした、白きリガーラよ。お前の望むことが今叶っているんだぞ」
男は意地悪そうに笑うとデスクの上の小さな竜の置物を手に取ってこねくり回し始めた。その目はいささか慈しんでいるようにも見えた。彼は、ゲイツはゆっくりと姿勢を正すと問うた。
「……誰だ、貴様は」
すると男は目を丸くして微笑んだ。
「誰か、だと?ハハハ、面白いことを聞くじゃないか。言っただろう、お前が会うことを望んでいたものだと」
私が会うことを望んだ?いつ、誰と。
彼は記憶の中を駆け巡り、やがて一つの答えを導き出した。それはもっと異なった形をしているものだと思っていたため、すぐに彼はその答えを見つけ出すことができなかったのであった。
「まさか――――」
そうだ、と男は続けた。そしてすぐにある提案を彼に提示した。その意図が理解できなかった彼は当惑しつつも一応は了承した。だがここで謎の人物は致命的なミスを犯してしまった。自分たちに執着を示す彼をさらに奥底へと、理想へと導くことになるとは知らずに。