幸せの時期
三十代半ばの男がいた。結婚をして、子供がいてもおかしくない歳であったが、男の場合は違っていた。日雇いの仕事でその日暮らし、よって未だ独身である。
決して優秀と言えない男は、周りから対して期待もされず、親しい友人や彼女の存在もいない、山も谷もない自分の人生を悲観していた。十年前とほぼ変わらない人生は、十年後、はたまたその先もさほど変わっていないだろうというのが男の出した結論である。
夜、自宅の寂れたアパートの一室でテレビを見ていた男は、そろそろ寝ようとテレビのスイッチを消して床に入ろうとした、その時、部屋に誰かの気配を感じた。そちらの方に目をやると、いつの間にいたのか、黒い装束をまとった男が立っていた。
黒装束の男が言った。
「私は死神だ。お前の命を貰いにきた」
なるほど、音もなく突然現れた様子や、男が醸し出すオーラは確かに死神らしく、何より黒装束の男の言葉には不思議な説得力があった。
「確かにあなたは死神のようだ。しかし何故僕なのでしょう?」
男は死神に聞いた。
「理由などはない。今日はたまたまお前だったというだけだ。交通事故に遭う、または風邪にかかるといった類いだと思って諦めてくれ」
「分かりました。では、早く殺してください」
「いやに聞き分けがいいな。普通なら泣き叫び、命乞いをするのだが…。私はそれを見るのが楽しみで命を奪っているのだが…」
解せないといった様子の死神に男が答えた。
「僕は自分の人生に悲観しているのです。仕事や友人に恵まれず、彼女も出来ない。生きていても楽しくない。こんな人生なら死んでしまってもいいと思っている。かといって自殺する勇気もない。そんな所へあなたが現れた。絶好のチャンスじゃないですか。さあ、早く僕を殺してください」
「なるほど、そういう事か…。しかしだからといって、そのまま殺してしまうのも、人間の希望を叶えるようで癪だ」
死神はしばらく考えた後、言った。
「よし、決めたぞ。今は生かしといてやる。お前が人生の幸せの絶頂を迎えた時に再び現れ、お前の命を貰うとしよう」
「無駄だと思いますがね…」
「はたしてそうかな…」
死神は微笑を浮かべると消えていった。
それから数ヵ月が経ち、男はそこそこの会社に就職した。そこで一人の女性と出逢う。意気投合した二人は付き合うようになり、結婚を意識するようになった。仕事では失敗の連続であったが、辞めようとは思わなかった。今では心から幸せにしたいと思える女性がいるのだ。真面目に働く男に会社も信頼をおいた。やがて男は結婚をして、二人の間に子供が産まれた。守りたい者があり、仕事に精を出す。全てが順風満帆と言えた。
十数年の歳月が流れ、その会社である程度の役職に就いていた男の元に、いつかの死神が現れ言った。
「約束通り来てやったぞ。ではお前の命を頂くとしよう」
「やっと来てくれましたか。ずっとあなたを待っていたのです。早く僕を殺してください」
またも訳が分からない死神は「どういう事だ」と理由を聞いた。
「一見幸せそうに見えるかもしれませんが、仕事をして妻と子を養う。単調な毎日の繰り返し。こんな事がこれからもずっと続くのが耐えられない。さあ、殺してください」
「嘘をついてはいけない。どう見ても幸せそうではないか」
「僕もそれなりの立場の人間になった。そう演じているのです。ああ、なんてつまらない人生なんだ」
「ううむ、分かった…。ではまたの機会に来るとしよう」
死神は去っていった。
それからまた年月が経ち、男はとうとうその日を迎えた。男の身体を病魔が蝕み、発見された時にはもはや手遅れの状態だった。病室のベッドに横たわる男を傍らで妻が見守っている。
そこへ死神が現れた。妻には死神の姿が見えていないようだった。死神の姿を認めた男は、弱々しい言葉で死神に言った。
「とうとう来ましたね。だけど、遅かったですね…。どのみち僕はもうすぐ死ぬ…」
「…ああ、お前はもう死ぬ」
「最後に聞いていいですか?」
「何だ?」
「僕は、あなたに殺されるのですか? それとも、病気で死ぬのですか?」
「それを知ってどうする…。お前は今、幸せか?」
死神の問いに、男は妻の方を見て、
「僕は妻に会えてから、ずっと…幸せでした」
と答えた。そして、再び死神に視線を戻した男は、
「僕は…、あなたに嘘をついた事がありました。あなたに会った二回目の時…言った…言葉……」
そこまでを話すと、それから先、もう男の声は聞こえなかった…。死神の姿は消えていた。
人には様々な人生があり、様々な生き方がある。人生はそう捨てたものではない。