鳥籠姫2
みつきもすくすくと成長し、陽太も陽奈もそれほど豊かではないが慎ましく幸せな生活を送っていた三年後のある日にそれは訪れた。
教祖の死刑執行。
刑の執行により教祖を失った教団は暴走し、一部は暴徒化、一部はよりスピリチュアルな方面へのカルト化が進んだ。
暴徒は監視もしやすいし検挙もしやすい。だが、精神的な犯罪というのは非常に発見しにくいし立件しにくい。誰しも深層心理というものを持っていて、表面的にはまったくそんな風に見えなくても、心の奥底では何を考えているかなんていうことはわからない。
それを陽太は最愛の人の命で思い知ることになる。
暴徒化した側の教団の監視と検挙のために駆り出されることの多くなった陽太は、不在中、陽奈とみつきだけでは心細いし物騒だろうということで、陽奈の母親を呼び寄せた。
母親は教団が解体された当初は、教団や教祖への依存がひどかったが、教団から離れて静養した結果、教団への依存はなしという精神科医とカウンセラーのお墨付きをもらっていたし、彼女は入院している時もみつきを連れて会いに行けば目を細めて喜び、可愛がっていくれていた。だからこそ、陽太も陽奈も油断をしてしまった。
「陽奈?みつき?…お義母さん?」
二日ぶりにマンションへと帰ってきた陽太は、いつもなら走って出迎えてくれるみつきも、それを心配そうに追いかけてくる陽奈も出てこないことに不信感を抱いた。
陽太が警戒をしながら奥へ進むと、小さな水音のような音が聞こえてきた。
さらに警戒をして陽太がリビングのドアを開けると、むせ返るような悪臭が彼を襲った。
リビングの奥、夫婦の寝室兼パニックルームになっているドアの前には血まみれになりながらも一心不乱に包丁を振り下ろす義母と、うつろに目を開いたままドアを背にして動かない陽奈がいた。
「はる…な…うわあああっ!陽奈!陽奈!」
陽太は叫びながら義母を押しのけ陽奈の両肩を掴む。
「はる…」
陽太が両肩を掴んで抱き起こした陽奈の身体はとても軽かった。
陽奈の瞳はもう既に濁りきっていて、彼女の腰の上には、彼女の中からあふれた物が溜まっていた。彼女の身体が異常に軽いのはこのせいだろう。
「…陽奈……」
「ああ、おかえりなさい、陽太くん。陽奈ったら、みつきをその部屋に閉じ込めて私に会わせようとしないのよ。困った子よね、本当に」
陽太が振り返ると、義母は包丁を持ったまま娘の血で真っ赤に染まった顔をほころばせる。
「はやくしないと、教祖様が復活できなくなっちゃうのに」
「お前は…お前がぁっ!」
「さあ、その部屋を開けて頂戴。みつきを教祖様に差し出さないと……ほら、はやくしなさいよウスノロ!はやく!開けろ!そこをすぐに今すぐにあけろ!」
狂ったように叫びながら包丁を振り回して義母は陽太に襲いかかってくる。
いや、狂っているのだろう。信仰という口当たりの良い薬を飲み続けた義母の依存は実のところまったく良くなってなどいなかったのだ。
(俺が甘かったのか…)
陽奈を失ったショックのせいか、匂いのせいか、それともそれ以外の何かのせいか、陽太は酩酊感にも似ためまい揺れる視界の中で義母を殴り飛ばした。
(平和ボケしてたってのか)
陽太はジンジンと疼くような感覚が続く拳を振り上げ、義母に馬乗りになり、二発、三発と拳を叩きつける。すると最初は右の拳だけだった疼きが左の拳にも現れ、陽太はその疼きを鬱陶しく思い、振り払うように拳を振るい続ける。
「陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、はるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるな」
(陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、陽奈、はるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるなはるななるなるなるなる)
最愛の人の名を声で、心で叫び続けたながら陽太はやがてその場で気を失った。
陽太が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
「気がついたかね」
声をかけられて首を横に向けると、直属の上司である小金沢が病質に備え付けられた丸椅子に座って陽太のほうを見ていた。
「ガネさん、俺、一体……」
「…ここでの会話は完全にオフレコだ。俺を信じてすべて話せ。……何があった?」
いつもの胡散臭い表情ではなく、ある種陽太を睨みつけているかのようにも見える表情で小金沢がそう言った。
「家に帰ったら、陽奈が…はる…な…がぁっ!チクショウ!殺してやる、殺してやる!こんなところで寝ている場合じゃないんだ!あのババア殺してやる!」
陽太は身体を起こそうと必死でもがくが、革製のベルトでベッドに身体が固定されていしまっていて、ギシギシとベッドを揺らすにとどまる。
「……なるほどな。大体理解したよ。だが、その必要はない。それはこちらでやっておいた」
陽太の言葉から、すべてのあらましを悟った小金沢はそう言って立ち上がる。
「やっておいたって、なんですか、やっておいたって!」
「始末はつけた。陽奈さんのことは残念だったが、少し落ち着け」
「落ち着け!?落ち着けだと!?あんたは!あんたは当事者じゃないからそんなことが言えるんだ!あんたみたいにそこかしこに女作ってるやつに何がわかるっていうんだ!俺は!俺は陽奈を愛していた!陽奈だけを、愛していたんだよぉ……」
消え入りそうな声でそう言い終わるや、陽太の視界がひどくぼやける。
「クソ…なんでだよ…陽奈が何をしたっていうんだよ…くそ…くそ…くそぉ!陽奈ぁ…」
「こんなんでも、俺だって人の夫で、人の親だ。お前の気持ちはよく分かる」
「わかるわけねえ!あんたに俺の気持ちなんか…」
「お前にはみつきちゃんがいるだろう!今のお前の姿をみつきちゃんに見せられるのか!」
普段飄々としていて、怒鳴ったりすることのない小金沢の一喝に驚いて、陽太がぽかんと口を開ける。
「陽奈さんを愛していたというのなら、彼女が愛した相馬陽太でいろ!彼女の分まで彼女が愛したみつきちゃんを愛するんだ!」
陽太の胸ぐらを掴んで一息にそう言うと、小金沢は制服の袖で目元を拭った。
「……今朝がた、君が出勤してこなかったから我々が突入したんだ。幸いにもみつきちゃんは眠っていたよ。だから陽奈さんの姿は見ていない」
そう言ってもう一度目元を拭ってから、小金沢は再び口を開く
「私も甘かったかもしれん。物騒だというのであれば、一時的にうちに来てもらうこともできたというのにな…すまん」
「いえ…俺のせいです。俺が見抜けなかった」
「いや……」
陽太の言葉の後、二人は黙ってしまい、病室に沈黙が降りる。
「……陽奈さんとお義母さんは病死ということになっている」
一分ほどの沈黙の後、先に口を開いたのは小金沢だった。
「……」
「事件性はなし。密葬で通夜は明日だ。……出られるか?辛ければ喪主は私が務めるが」
「はい…すみません、何からなにまで」
「なに、私は君たちの仲人だからな。陽奈くんは娘みたいなものだし娘の面倒をみるのは当然だろう」
そこまで言って、小金沢はもう一度袖で目元を拭った。
通夜のくだりまで話し終えたひなたは、満足そうにコーヒーを口に運んだ。
話すだけ話したひなたは満足気だが、空気に飲まれてしまった桜は一人でパニックに陥っていた。
(この空気の中でどうしろと!?)
二人の間の緊迫した空気、とはいっても桜が一方的に緊張しているだけなのだが、その空気を察知した現地の客が、興味深そうにひなたと桜を見ている。
ひなたの回想話は日本語で行われていたので現地の客には伝わっていないと思うが、それでもヒソヒソと『別れ話かね』だの『じゃあ、俺が声かけてみようかな』だのと聞こえてくるので、どうもそういう話と勘違いされているようだ。
「さて、じゃあそろそろ空港に行くか。わざわざこっちに来たんだから俺から逃げるようなことは無いと思うが、それでもすれ違いになったら面倒だからな」
ひなたはそう言ってカップを置くと、店員を呼んで会計を済ませて立ち上がり、桜も後を追って立ち上がる。
「あ、ちょっとひなたさん、まだ肝心の事聞いてないですよ。なんで、みつきと苗字が違うんですか?」
「そりゃあお前、みつきが死んだからだよ」
「死んだ?でも事件の時は眠っていたんですよね?」
「ああ。みつきは事件が起こった時は眠っていた。ただ、俺の娘…つまり相馬陽奈の娘は教祖の娘である。なんて噂、狂ったババアが一人でこっそり胸のうちにしまっておくわけ無いだろ。バッチリそういう話がまことしやかに流れていたから、みつきには戸籍上一旦死んでもらって、うちの部署のOBだった根津さんのところに預けられたんだよ」
「…それでも謄本の実父のところには陽太さんの名前が入っているんですね」
「ん……まあ、俺の未練だな。未練たらしくてカッコ悪いなとは思うけど、みつきと完全に縁を切っちゃうと、陽奈とも縁が切れちゃう気がして。そうなると、あの世でもあえない気がしてさ」
桜は照れ笑いを浮かべて、さらにそれを隠すように少し慌てて車に乗り込んだひなたの様子に面白くないものを感じたが、ここでそんなことを言ってしまっては呆れられてしまうと思い直し、表情を取り繕って助手席に乗り込む。
「…まあ、あれだ。もしものことがって、あの世に行ったら三人で暮らそうぜ」
そう言って悪びれることなく笑うひなたの表情を見て、桜は一瞬ぽかんとした表情を浮かべた後、頭を抱えた。
「………あー…もう。なんか、もう…なんていうかなあ……朱莉さんかあんたは!」
「はっはっは。ナイスなツッコミだぞ桜」
桜の精一杯のツッコミを笑い飛ばすとひなたは空港に向かって車を発進させた。
陽奈の葬儀が終わり、みつきの戸籍に対する工作が終わって2年ほど経った頃。深夜に陽太がヤボ用を済ませて帰ってくると、陽太のアパートのドアの前で小金沢がビールの入った袋を下げて待っていた。
「おつかれさん」
「別に疲れるような仕事はしてませんよ。…というか、そろそろ現場に出してください」
あの件以来、現場から遠ざかって事務仕事ばかりさせられていた陽太はそんな不満を口にしながらドアの鍵を開ける。
「そうだね、うちも万年人手不足だからもうそろそろ考えないとね」
小金沢はそう言って笑うと、ビールの入った袋と一緒に空いている手のひらを上に向けて陽太に差し出した。
「……なんすか」
「わかってるだろ」
小金沢の言葉に陽太は小さく舌打ちをすると、新聞紙に包まれたずっしりと重い何かを差し出した。
「…クビっすか?」
小金沢は陽太の質問には答えず、受け取った何かをバッグにしまい込んでから口を開いた。
「来週、一人面白い捜査官が入ってくるんだ、それに事務方も一人新しい子を雇った。なんとふたりとも女の子でね。どちらもかわいいからうちの連中には可愛がってもらえると思うんだ」
「その二人が来るから俺は用済みと」
「バカなことを言うんじゃないよ。事務方を教えられるのも、現場経験があって事件を持っていないのも君だけなんだからしっかり働いてもらわないとな」
「ガネさん………」
「…スッキリしたか?」
「…いえ。やり遂げたなとは思いますけど、それでもなんか虚しいですね、それこそむなしすぎてそのまま死んじゃおうかなって思うくらいには」
「おいおい、三人の女の子を寂しがらせちゃだめだろ。君にはみつきちゃんがいるし、後輩の二人だっているんだから」
「俺はまだ、その後輩とやらには会ってもいないですよ」
「気にいると思うぞ。なんといっても若いからな」
小金沢はそう言って陽太の肩を叩いて、家主よりも先に部屋に入っていった。
「佐倉梅子巡査です。よろしくお願いいたします!」
「大垣夏妃巡査です。よろしくおぇ…お願い致します」
全体の朝礼でも挨拶をした二人は、わざわざ陽太の席まできてそう言って敬礼をした。
普段の陽太であれば元気がいいなあくらいに思うのだが、二日酔いの頭には若い女の子の声はガンガン響く。
「相馬陽太巡査部長だ。一応指導係っていうことになっているけど、あんまり教えるのは得意じゃないから見て盗むようにしてくれ」
「はい!」
「はい」
やや無責任とも思われる陽太の発言にも二人は元気よくそう返事をする。
数日後、陽太はこの二人のうちの片方に手を出したことが発覚し、不本意なアダ名をつけられることになるのだが、それはまた別の話だ。
しゅ…祝・百万文字達成~……どうしてこうなったOrz
2、3話 軽いのを挟んでみつき編が続きます。
あんまり重くならないといいな。




