第八章 3)契約の代償
「ようやく苦労は報われた。これで僕は、正式に塔を所有する魔法使いの一人になったのだ。世界であまたいる魔法使いの中で、その権利を有するのはわずか三十人余り。それがどれだけ特別なことか、君に説明するまでもないだろう」
「ああ、うん」
プラーヌスはまだ興奮の只中にいるようだ。
さっきから、「よし!」とか「遂にやったぞ」などとつぶやきながら、部屋の中をぐるぐる歩き回っている。
彼は私の存在を忘れて、一人で喜びに浸っていた。
しかしそうかと思えば、ときおり思い出したように私に話し掛けてくる。
「これで僕は自由だ。しばらくこの塔を留守にしても問題ない。他の魔法使いに簡単に占拠されることはないだろう。これからはどこにでも旅に行ける」
全てが予定通りに運んだわけではないが、それでも充分な成果だ。
昨日までの僕と、今日からの僕は、まるで別人だと言ってもいいだろう!
プラーヌスは私を見据えてそう言ったかと思うと、突然、テーブルに置いてあったペーパーナイフを手に取り、それを自分の左指の薬指にグサリと突き刺した。
当然、傷口から血が溢れ出る。
私はそれを見て慌てふためいた。喜びの余り、プラーヌスがおかしくなってしまったのかと思ったのだ。
「な、何をしてるんだよ、プラーヌス?」
「さっきの契約に左手の小指を明け渡した。指の感覚がないんだ。それを今、しかと確かめた」
「へ?」
「うん、ない。まるで痛みを感じない。この指はもう僕のものではなくなった。しかしこの塔には指以上の価値がある。まるで惜しくない。この程度で契約が成立したんだ。今の自分の価値に自惚れてしまうよ」
「い、言っている意味がまるで理解出来ないんだけど」
私がそう言うと、プラーヌスは自分の部屋の床に血をタラタラと垂らしながら説明してくれた。
「魔族と契約を調印するとき、奴らに何かを必ず引き渡さなければならないのさ。ときには腕一本、足一本、最も愛する者の死、悲しみとか絶望のような感情。もしくは痛み、視力、味覚などの感覚、そういうたぐいのものを」
「じゃあさっき、左手の薬指を差し出したってことなのかい?」
「そう、感覚だけだけどね。中には自ら切り取って、魔族に捧げなければ成立しない契約もある」
「それで君の指は、もう一生動かない?」
「いや、契約を破棄すれば、元通りになることもある。しかし契約は一方的に破棄することは出来ない。双方話し合いの上、どちらも同意しなければいけないんだ。それがけっこう大変でね。我がガルディアンとの契約の際、僕は痛みを捧げた。ほら、最初にこの鏡に現れた魔族がいたろ。あの傲慢な魔族と契約を交わして以来、この激烈な頭痛に苛まれることになったんだ。はっきり言って、一刻も早く奴との契約を破棄したい。しかし向こうが納得しない」
「じゃあ、君の頭痛は」
「全てその魔族のせいだよ。あのガルディアンと契約しなければ、この苦しみはなかった。そのときと比べたら、今回は左手の小指一つで契約出来たのだ。安いものだろう。それだけ僕のレベルも上がったということなのさ」
プラーヌスが頭痛に苦しんでいるのは知っている。それは本当に激烈な痛みらしい。
何でも思い通りになる天才魔法使いプラーヌスにも、たった一つだけどうにも出来ないものがある。
それがその頭痛。
「あのときは僕もまだ幼くて、魔法使いとしてのレベルも低かった。しかも相手のガルディアンはとてつもなく強大な魔族だったからね。奴と契約出来るならばと、僕は言われるがままのものを差し出したんだ。それでこの強烈な頭痛さ。それ以来、僕の人生の半分の時間は地獄になったんだぜ」
「そ、そんなに苦しいのかい?」
「うん、今日も酷いことになるだろうな。眠れない日は特にね。まあ、僕も馬鹿じゃないから、色々と対応策は練っているんだけど」
プラーヌスは部屋の隅にある戸棚を開けて、そこから包帯を取り出した。
そしてそれで左指をぐるぐる巻いていく。それほど深く切ったわけではなかったようで、白い包帯がぐんぐんと赤く染まることはなかった。
更に彼は別の戸棚の押し戸を開けて、小さな瓶のようなものを二つ三つ手に取った。
そしてそれを私に見せつけるようにテーブルに並べる。
「これは血管を収縮してくれる薬。飲めば、痛みが少し和らぐ。こんなのでも気休めになるんだ。それでもどうにもならないときは睡眠薬だ。眠りの中に逃げ込んで、痛みをしのぐ。しかし激痛が酷すぎて眠れないときもある。そのときはこの劇薬。これを飲むとしばらくの間、意識がなくなる。どうしても我慢出来ないときはこれを服用する。僕も苦労しているだろ?」
何も言えず、ただ同情の眼差しを向けていると、プラーヌスが自嘲しながら言ってきた。
「魔法だと簡単に相手を眠らせられるのだけどね、自分には効かない。こんな薬に頼るしかないのさ」
プラーヌスは薬の入った瓶をしばらく見つめていたが、それを元の棚に戻した。
「しかし今夜は飲むまい。あえて苦しみに耐えよう。それを補って余りある成果を手に入れたんだ。痛みと共に、その喜びも噛み締める」
「そういえばプラーヌス」
彼の話しを聞きながら、思い出していたことがあった。
魔族との契約のときの際、プラーヌスが言っていた言葉だ。自分はもうすぐ死ぬ、彼はそんなことを口にしていたのだ。
「もしかしたらそれも、この頭痛と関係したりしているのかい?」
こんなこと聞いていいことなのか迷った。しかし聞かずにはいられないことだ。
「ああ・・・」
プラーヌスは私の言葉に顔をしかめた。
そして面倒そうに私から視線を逸らした。
「思わずそのような言葉を口走ってしまったかもしれないね。でも忘れてくれ。最悪の場合、そういうことになるってことさ。まだ決まったわけじゃない」
「は、はあ、そうなのかい」
「そんなことよりも、今夜は契約完了を素直に喜ぼう」
「ああ、もちろんだけど。でも、その最悪のことが起きる可能性は?」
プラーヌスは明らかにこの話題を嫌がっているようだった。
しかしやっぱり無視出来る話題ではない。私はしつこく食い下がった。すると彼はうんざりしたような表情を見せながらも語ってくれた。
「確かに君の言うとおりだ。この激烈な頭痛をもたらした魔族、奴はね、ちょっとした、いわく付きの魔族なのさ」
「いわく付き?」
「彼と契約を結んできた、これまでの魔法使いの多くが、二十七歳で死んだらしい。自殺した者、事故死した者、死因は様々だけどね。奴は魔法使いに、恐ろしいほどの魔法の力を与えると同時に、奪いもする。奴との契約を改めなければ、いずれ僕も同じ道を辿るかもしれない、そういう話しだよ」
「二十七歳?」
プラーヌスの正確な年齢を知らない。しかし僕と同年代だとすれば、もうあと、二年か三年ではないのか。
「で、その契約を改めることが出来る可能性は?」
「そうだな、実はけっこう難しい。今のところ、1パーセントってところだね」
「何だって?」
「しかしそもそもが確実なことではない。そのような不吉な伝説があるというだけの話しさ。それに1パーセントでも可能性があれば、覆す自信がある。それがこれまでの僕の人生だ」
プラーヌスは自信満々の表情でそう言ってきた。
本当に余裕で、それが実現されるのではないか、そう思わせる表情だ。
だから私も思わず安心してしまい、「だったら、何の問題もないね」と思ってしまうのだけど、もしかしたらプラーヌスだって、契約成功後の妙な上機嫌さで、ありもしない可能性を夢見ているだけなのかもしれない。
そんな危惧も感じないわけではなかった。
「そんなことよりも君はルーテティアに行きたがっていたな」
さっさとこの話題を終えたがっているのか、プラーヌスはそう言っていた。
「あ、ああ、うん」
「早速出かけよう。と言いたいところであるが、あともう一つだけやっておかなければいけないことがある。この塔を長い間留守にするには、まだ蛮族の問題が心配だ。だから信頼出来る門番に、塔の安全を任せなければいけない」
「バルザ殿のことかい? 最近、とても熱心に仕事をされているように思えるんだけど」
「そうだね、蛮族の捕虜を尋問して、女神像の問題まで探り当ててくれた。本当に優秀な騎士だ。しかしだ。彼はまるで僕に忠誠を誓ってくれない。かなり頑固な性格だよ」
「まあ、確かにそうだけど・・・」
最近、バルザ殿のプラーヌス嫌いは、更に増している気がする。
おそらく、かなり無理を言って、この塔の門番を勤めてもらっているのだろうと思う。
いや、もしかしたら無理を言ってなんてレベルではないかもしれない。
プラーヌスはバルザ殿の弱みを握り、無理やり門番にしているのではないだろうか。
騎士が塔の門番を勤めることなんてありえないのだ。そうだとしか思えない。
そんな事情があるとしたら、バルザ殿がプラーヌスに忠誠を誓うことなんてありえないだろう。
しかしプラーヌスは勝算ありといった表情で私を見てくる。
「一度、彼とじっくり話し合わなければいけない気がするんだ。話し合いさえすれば、きっと僕への誤解を解けるだろう。誤解が解けて初めて、彼に安心して塔の守りを任せられる。僕たちが旅に出かけられるのはそれからだろうね」
「でも彼に信頼してもらえるような案でもあるのかい?」
「今から考える。まあ、今の僕は本当に上機嫌だから、きっと良いアイデアが生まれるさ」
プラーヌスはそう言って、ふと窓の外を見た。彼の表情が厳粛さを帯びた。
「シャグラン、今夜はありがとう。記念すべき契約に立ち会ってくれて。もうすぐ夜明けだ。君に頭痛の発作を見られたくない」
「あ、ああ・・・」
「しかしワイン一杯だけ付き合ってくれないか。乾杯しよう」
「もちろん」
薬の瓶が収められていた戸棚には、ワインも数本置かれているようだ。
プラーヌスはその中の一本を手に取った。そしてそれを自らグラスに注いでくれた。
「こんな日に、君がいてくれて嬉しいよ」
「こっちこそ。珍しいものを見せてもらえて本当に面白かった。君を見ていると、僕もこの人生で何か成し遂げたいっていう気持ちが強くなる。おめでとう」
私たちはグラスをコツンとぶつけ合う。
その音が教会の鐘のように、清らかに響く。
プラーヌスは実に美味しそうにワインを味わっていた。
本当に嬉しいことがあった日は、どんな安酒でも上手いものである。
ましてこのワインは、プラーヌスが取って置きの日のために用意していたものに違いない。
私も当然そのワインを口にする。それは本当に美味しいお酒だった。
プラーヌスと友人で良かった。
美味しいワインを味わいながら、私はそんな感慨も共に味わっていた。
しかしそれでもまだ、彼の不吉な言葉が脳裏から完全に去りはしなかった。
二十七歳で死ぬかもしれない、プラーヌスのその言葉が。




