第七章 7)バルザの章7
ハイネがもし存在しないのならば、バルザは騎士の典範を破りはしなかったことになる。
妻以外の女性など愛してはいなかったことになるのだから。
その事実は彼の失っていた騎士としての誇りを取り戻させてくれる。
それに何より、バルザはもうこれ以上あの邪悪な魔法使いの言いなりにならなくて済むのである。
ならば荷物をまとめてすぐにここを立ち去れる。
パルに戻って、前の職に復権することも可能かもしれない。
いや、もはやそれが無理でも、どこかの村で畑を耕しながら、貧しい子供たちに読み書きや剣術を教えて過ごす余生も悪くない。
少なくとも邪悪な魔法使いの塔を守る番人でいるよりは。
再び人生を立て直すのだ。
邪悪な魔法使いによって粉々に砕かれた人生を、元通りとはいかなくても、また調和の取れたものに。
しかし自分がそんなことするつもりでないことを、バルザは知っている。
この命に代えても、あの邪悪な魔法使いは殺す・・・。
彼の心の中には、憎悪がふつふつと煮えたぎっていた。
今までの人生で抱いたことのない、どす黒い、あの邪悪な魔法使い以上に邪悪な悪が、バルザの胸の中で音をたてて煮えたぎっているのだ。
ようやく復讐の機会が得られそうだ。
しかしそれもこれも、あの座長が持って帰ってくる答え次第ではあるが。
果たして本当にあのハイネがいないなんてことが、ありえるのだろうか?
今、バルザの胸の中に、ハイネの思い出は鮮やかに咲き乱れている。
妻や両親や仲間たちと同じ濃密さで、彼女は心の中にいる。
初めてハイネにキスをしたときの思い出、それは何と甘く、切ない出来事であったろうか。
厳しい訓練に次ぐ訓練の日々、血生臭い戦場で過ごした青春、それがバルザの人生の全てだった。
余りに若過ぎた日の妻との愛の中では、このような甘く切ない時間を充分に捻出することが出来なかった。
だからもしハイネが存在しないのなら、バルザは普通の恋の喜びを知らないことになる。
バルザはハイネのために花を摘んだことがある。
偽名を使い、王室御用達の仕立屋にドレスを作らせたことも。
それをプレゼントしたときのハイネが浮かべた微笑みを今、生々しく思い出せる。
そのとき嗅いだハイネの髪の香り、そして香水の香りと共に。
ハイネはありがとうと言いながら、椅子を台にしてバルザにキスをしてきた。
これがあの邪悪な魔法使いがでっち上げた偽の記憶だとは到底考えられない。
やはりハイネがいないなどというのは、一時の気の迷いに過ぎないのかもしれない。
この苦しい環境から少しでも逃れたいという、バルザの脆弱な精神が見せている幻か何かなのではないか。
果たして自分はどちらの答えを望んでいるのだろうか?
わからない。
ハイネが存在しないとすると、すぐにでもあの邪悪な魔法使いに復讐出来る。
しかしそれと同時に、ハイネが存在しないという事実、それはいったい何という悲しい事実であろうか。
こんなに心の中に鮮やかに生きているハイネが、実は、あの邪悪な魔法使いの拵え物であるかもしれないなんて。
それはハイネが囚われているという事実より、悲しいことではないか!
私は何という孤独を味あわせられることになるであろう!
バルザは声に出さずにそう叫んだ。
一睡もすることなく夜が明けていく。
今日も蛮族たちが塔に押し寄せてくるのであろう。
何度退治しても、性懲りもなく彼らは押し寄せてくる。
バルザはただそれらを虐殺同然に殺すだけ。
また昨日と同じ今日が始まろうとしている。




