第二章 10)グロテスクな同居人
召使いたちは恐怖に凍りついた表情を浮かべ、壁を背に這うようにして立っていた。
まるで斬首を待っている捕虜の群れのようだ。
私とプラーヌスとアビュは、召使いたちの前を通り抜け、彼らをそんなにも怯えさせている、何者かがいるらしい場所にへと向かった。
北の塔の、召使いたちの住居や食堂などがあるエリアである。
中央の塔から西の回廊を通り、泉のある広場に着いた。
その広場でも召使いたちは身を寄せ合うようにして集まり、口々に何か言いながら下りの階段のほうを指差している。
そこに何かいるようだ。
広場は暗く、召使いたちの持っている松明や、もともと設けられているランタンの光だけでは到底照らしきれない。
特に部屋の隅のほうの階段辺りは真夜中同然だった。
私は闇だけでも怖いというのに、その怪物とやらに立ち向うような度胸はなかった。
しかしプラーヌスだけでなく、アビュも歩調を緩めずその闇に向かって歩いていくので私も逃げるわけにいかない。
プラーヌスが何か唱えると、彼の持っている傘の先が光り始めた。
それによって、プラーヌスの周りだけ真昼のように輝いた。
その光を頼りに、私は恐る恐るその階段のほうに目をやる。
まだ何も見えない。
しかし腐った魚のような匂いが鼻をつく。
そして確かに階段のほうに、何者かが存在している気配がした。
ぐちゃりぐちゃりと、柔らかい生肉をかき混ぜているような音が聞こえるのだ。
「ちょっと待てよ、プラーヌス」
私は彼の背中に呼び掛けた。「本当に何かいるみたいじゃないか」
「ああ、間違いなくいる。その階段の下だ」
さすがに怖いもの知らずのアビュも、そこからは足がすくんで動けないようだった。
しかしプラーヌスだけは私の警告を気にも留めず、まるで歩き慣れた散歩道を進むように階段を下りていく。
五、六段ほど階段を降りる音がした後、プラーヌスの足音が止まった。
さっきまでそこから一歩も動けないようであったアビュも、好奇心のほうが勝ったのかゆっくりとその階段のほうに近づいていく。
私も仕方なしに彼女を追い越した。
そしてありったけの勇気を振り絞り、階段の下に目をやった。
何かが二体、階段を這いながらこちらにゆっくりと近づいてくるのが見えた。
裸の人間のようだった。
顔は苦渋に歪んでいて、まるで溺れてでもいるかのように、何かを掴もうと、こちらに精一杯手を伸ばそうとしているように見える。
最初はそんなに怖がるほどのものではないように思えた。
哀れな人間が苦しんでいるだけに見えたのだ。
しかしその姿がまともに目に入り、私は思わず悲鳴をあげそうになった。
二体とも胴から先がなかった。
まるで強引に引き裂かれたかのようで、奇妙に胴の先端が先細りになっている。
しかしおかしい部分はそこだけではない。
それはとんでもなくグロテスクな生き物だったのだ。
一体のほうは背中に何か斑点のような模様があると思ったら、全て目であった。
おそらく人間の目なんだろう。
目玉が動いたり、あるいは閉じたり開いたりしている。
丁寧にまぶたもついているようだ。
しかし本来なら目のあるはずの顔に目はなくて、何か肉の塊が不気味に突起しているだけだった。
もう一体は額の部分にネズミの大きさほどのこぶがついていた。
それが膨れ上がったり、縮んだりしている。
どうやら心臓のようだ。
体中の血管が身体の表面に浮かびあがっていて、その心臓につながっているのだ。
近づいてくるにつれて、息をするのも辛いぐらい悪臭も強まってきた。
「見ないほうがいいよ、アビュ」
私は呆然としながらつぶやいた。
「うん、でももうばっちり見ちゃった・・・」
さすがにアビュもそれから目を逸らしながら、深い後悔を込めた感じの声でつぶやいた。「だけど怪物って本当にいたのね」
私もアビュの言葉に頷いた。
これまで生きてきて、こんなものに出くわしたことなんてない。
確かに抒情詩や古い物語などでは聞いたことはあるが、あくまであれは伝説か作りごとの中のお話しである。
「プ、プラーヌス、これが魔界の魔族って奴なのか・・・」
私は彼の背中に問い掛けた。
「まさか、これは魔族ではない。魔族とは人間よりも数等美しいものさ」
「じゃ、じゃあ何なのさ!」
「さあ、わからない。しかしグロテスクなだけで、こっちに何か危害を加えようとはしていないようだ」
プラーヌスは傘を掲げ、また何か呟いた。
するとその傘の先に、橙色の炎が浮かび上がった。
それをその二体のグロテスクな怪物に向かって差し伸べた。
二体の怪物は、その炎から逃げようと後退し始めた。
「ほらな? 部屋の中に誤って迷い込んできた蛇かネズミのようなものだ。こっちに敵意はないようだ。でもだからと言って、これ以上この生き物を直視していられない。それに何より、自分の塔にこんなおぞましい生き物が動き回っていることに怒りを覚える。このような怪物は存在しているだけで害だ」
プラーヌスはそう言って、ロッドの上に浮いていた炎を二体の怪物の上に放った。
炎に取り巻かれ、二体の怪物は激しくのたうち回った。
その怪物は何か叫んでいるように見えたが、口がないのか喉がないのか、悲鳴は聞こえなかった。
すぐにその怪物たちは灰になって消滅した。
プラーヌスはその光景を見つめながら、本当にうんざりしたように言った。
「想像していた以上に、様々な問題があるようだな、この塔には」
そう言ってプラーヌスは黒いローブを翻して、荒々しい足音をたてて階段を上がってくる。
「蛮族の定期的な襲撃。それだけじゃない。訳のわからない不気味な女性の泣き声。そしてこの不気味な怪物の出現。これでは全く魔法の研究が進まない! いや、それどころか生活すらままならない。この塔の全ての出入り口を固く見張っておくんだ!」
私に向かって言ったのか、この場にいる召使い全員に言ったのか、プラーヌスは声を張り上げそう叫んだ。
プラーヌスのあまりに怒りに満ちた口調に、その言葉がわからない召使いも頷いていた。
「これまでに、このような怪物を見たことがある者はいるか?」
そのプラーヌスの問いに、召使いも、アビュも首を振った。
「そうか、この怪物の出現にこれほどに怯えているのだから、それは嘘ではないな」
プラーヌスはしばらく思案気に俯いていたが、すぐに顔を上げた。「いずれにしろ今日の門番たちは全て打ち首だ。明日、謁見の間に連れてこい!」
プラーヌスは一人の召使いを指差してそう言いつけたが、すぐに首を振った。
「待てよ、もともとこの塔に潜んでいた可能性もあるな・・・。打ち首は訂正する! 少し様子を見てやる」
その召使いは我々の言語が理解出来るようである。「わかりました」と言って、ホッとしたような表情で答えた。
「しかし、だとするとまだどこかに潜んでいるかもしれないな、倉庫を這いまわるネズミがその一匹たりと限らないように」
独り言のようにそうつぶやいたあと、プラーヌスは私のほうに振り返った。
「シャグラン、君も気をつけておいてくれ」
「あ、ああ、わかった」
私はこの塔に潜む怪異に心底怖気ついていた。
この塔に充満する、夜よりも濃い闇だけでもうんざりだったのに、不気味な女性の泣き声が聞こえたかと思ったら、プラーヌスですら正体が掴めない怪物まで出現する始末なのである。
もうすぐさまここから逃げ出したい気分だった。
しかし逃げる先がある私はましだ。
ここ以外に行き先がない、アビュや召使いたちは本当に不安そうにしているのである。
それを見ていたら、いくら気弱な私でも逃げようなんて気分は消えた。
とにかくもう二度とこのような事件が起きないことを望むだけである。
だけどもその日の深夜、更なる事件が起きた。
奇しくもさっきのプラーヌスの不安は的中するのだ。