第二章 6)不気味な女性の泣き声
「ってことは私、この塔のナンバー2の助手になるわけか。悪くないね」
アビュはルルルッとハミングしながら、スキップするように私の二、三歩先を歩いている。
野原を駆ける小鹿のように元気だ。
彼女の歩く速さに追いつくために、私も歩調を早める。
謁見の間を出た私は気を取り直し、早速、アビュと共に名簿作りを始めることにした。
夕食の時間までまだ少し時間があったので、少しでも仕事を進めようと思ったのだ。
「海から来たの?」
短く切りそろえた襟足をサッと振りながらこちらに向き直り、アビュはそんなことを尋ねてきた。
「な、何だって?」
「海から来たのかって聞いたの」
「ああ、確かに港町から来たけど」
「やっぱりね。匂いでわかったよ、潮の匂いさ。一度だけパパに連れられて海に行ったことがあるんだ」
「別に漁師でも船乗りでもないけど、僕から潮の匂いがするなんて思わなかったな」
「私、この塔からほとんど出たことないからね、ちょっとした匂いでわかっちゃうんだね」
「ああ、そうか、なるほどね」
護身のためにつけられたカボチャのバケモノのことを、アビュにも説明しておいた。
さすがにこの塔で生まれ育ったからか、彼女は何の疑問もなくその存在を受け入れた。
こっちはまだ直視するのも嫌なのに、それを何と呼べばいいのか私が答えられないと、彼らの名前を考え出したぐらいだ。
それで彼女の命名によって、いつも私の左側にいるのは「ワー」で、もう一人が「ギャー」という名前になった。
そういうわけで、都合四人で私たちは塔を歩き回った。
「倉庫から調べない? 中央の塔の地下にあるんだけど」
アビュがそう提案してきた。
「別にいいけど」
「一度その中を見たかったんだよね、そこに近づいただけで死刑にされた人もいるって聞かされていたから。そういう噂を聞くと逆に見たくなるの、わかるでしょ」
「ああ、わかるよ」
私たちは広い螺旋階段をひたすら降りて、やがて倉庫のある地下の階層に到着した。
塔の中は既に夜の闇にどっぷり浸されていたというのに、階段を下りるごとに、更にその闇が濃くなっていくようだった。
私はまた街が恋しくなってきた。
「蝋燭係という仕事を新しく作りたいんだよね。こういう滅多に行かない地下は仕方ないとしても、人がよく通る回廊や階段は明るくしておきたいんだ」
私はこれまで考えていたことをアビュに言ってみた。
「蝋燭係?」
「ああ、塔の通路や階段に灯りを点す仕事をしてもらうのさ」
「まあ、いいんじゃない、私も賛成かな。でも街って夜でも明るいところなの?」
「いや、街もそんなに明るくないけど、ここほど真っ暗じゃない。月の明かりもあるし、星も光っている。何より友達がいた。僕の家は小さかったから、廊下を歩くのにこうやってランタンを持つ必要もなかったし」
「一言で言えば、暗いのが怖いってわけね」
「違う、この塔が怖いんだよ」
私は圧迫するようにそそり立っている冷たい石壁を見上げた。
おそらくありきたりな、街の大聖堂の外壁に使われているのと同じような石なのだろうけど、この塔の石壁には、あらゆる邪悪な怨念や絶望が染み付いているような気がして、私を芯から脅かす。
「そう言えば昨夜聞こえなかった? シクシク泣いている女の人の声」
私が恐々と石壁を見上げていると、アビュが言ってきた。
「女の人の声だって? や、やめろよ、こんなところでそんな冗談」
私は思わずビクッとして、アビュに触れるくらいまで近づいてしまった。
そんな私をからかうように、アビュは更に続けてくる。
「本当よ、どこから聞こえてくるかわからないんだけど、女の人が泣いてる声がするの。他の召使いもみんな聞いているよ」
「どうせ風の音か、鳥の鳴き声だろ」
「ううん、それは絶対ないよ。あれは明らかに女の人の泣き声だよ。まあ、多分そのうち聞くことになると思うけどね」
「そんなのが聞こえてきたら、すぐに荷物をまとめて街に帰りたくなるだろうね」
「本当に怖がりだね。でもこんなカボチャのお化けがいるくらいだから、女の人のお化けがいても少しも不思議じゃないと思うけど」
「まあ、確かにそうだな」
「でもさ、そんなことよりもずっと怖いのは、ここには地下牢もあるし、誰にも気づかれてない隠し部屋とかもあるみたいだし。そこに誤って閉じ込められてしまって出られなくなった人とか、どういう罪で囚われたのかわからない人がずっと入れられていて、そういう人が泣き叫んでいると思ったほうが怖くない?」
「恐いよ、だからやめてくれ」
「いやよ、面白いからやめない」
アビュはそう言って、本気で震えている私を指差してカラカラと笑ってきた。
そういうところはまだ子供そのものだ。
私は一瞬、助手を選び間違えたような気になった。もっと色々な候補者に会ってじっくり選んでも良かったかもしれない。
まあ、しかしこの暗黒の塔には、これくらい明るくて能天気な少女のほうがいい気もするが。
「そういえば君のお父さんに会いたいな」
私は心霊話しの話題を打ち切るためにもそう言った。
「どうして? もしかしてパパに私を叱らせるつもり?」
「違うよ。頼みたい仕事があるんだ」
姉宛ての手紙を届けてもらう仕事を誰かにやって貰いたいのだけど、もしかしたらアビュの父親がそれに適任なんじゃないかと考えていたのだ。
おそらくアビュの父親だから、それなりに信頼出来るだろうし、それに村や町に食料などの買い出しに出るのが仕事なのだから、旅にも慣れているに違いない。
「わかった、言っておく」
そのとき突然、アビュが立ち止まり、耳を澄ますような仕草をしながら言った。
「あれ? 何か聞こえない?」
「何って何が?」
「女性の泣くような声」
「だからもういいよ、そういうのは」
こんな現象がタイミング良く起こるわけがないではないか。
やはりそういうところが子供だ。何とも浅ましい。
もはやこんな脅しで、私が恐がるわけもない。
私は下手な演技をしているアビュを置いて、さっさと先を急ごうとした。
しかしアビュの顔は真剣だった。
「ほら、・・・この声」
「何言ってんだよ、まだ太陽が沈んで」
間もないじゃないか。
そういうことでからかうのなら、もっと夜が深まってからにすればいいだろ。
そう言いかけた私の耳にも、しかしアビュが聞いているその何かが聞こえてきたのだ。
「な、何だ、これ・・・」
シクシクと恨みがましい女性の泣き声だった。
いったいどれくらい悲しいことがあれば、こんな泣き方が出来るのか?
まるで地獄の底から聞こえてくるかのように、怨嗟にも満ちている。
「昨夜にも聞いた声、これよ」
アビュが言った。
私はそれに答えず、ただ青ざめて立ちすくんでいた。
それは本当に私を凍りつかせ、しばらく言葉を奪ったのだ。
「た、確かに聞こえるよ」
ようやく私は絞り出すように言った。
「嘘じゃなかったでしょ?」
「ああ」
だけど嘘ならどれだけ良かったことか。
「とりあえず上に戻ろう」
私はそう言ってアビュの手を引っ張り、来た道を戻るために思い切り走った。
「ちょっと待ってよ、どうせどの部屋にいても聞こえてくるよ!」
そう言いながらアビュも、私を追い抜く勢いで走ってきた。