第四話 レントリアスの午後[3]
レントリアス本部職員食堂の入り口には『祝!! アル=シュケイムさよなら左遷パーティー』という垂れ幕が堂々と掲げられていた。
ちなみに「祝!!」と「左遷」に訂正線が入れられているが、全く隠れていないので、丸わかりである。
それを見上げたアル=シュケイムの視線が背後の二人──正確には幹事片割れその一──に向けられた。
「いや。俺じゃない。誰が書いたっけね?」
空惚けるカエンをじろりと睨み付けるが、全く意に介せぬしらりとした顔で言う。
あくまですっとぼける気らしい。
「……可哀相だからやめなさいと一応止めたんだけど」
と言う事はカーラは犯人が誰か知っているのだ。
その視線の先にはカエンがいる。
アル=シュケイムの冷気漂う視線を受けても、平然と惚け続けるマイペース男カエン。
二人の勝負はパーティー開始時刻までに決着付きそうに無かった。
全員正装している。
アル=シュケイムは最後まで渋っていたのだが、カエンによって半強制的に暴力的手段によって納得させられ、そうせざるを得なかったのだ。
それに加えてこの仕打ち。
「……僕がお前に何したって言うんだよ?」
「十分すぎるだろうが」
きっぱりとカエンは言い切った。
「やめなさいよ、二人とも。おとなげないわよ?」
どうせおとなげないよ、などと言い返さなかった。
言われたのがカーラで無ければ、たぶんアル=シュケイムはそう言っていただろう。
鼻を鳴らして、カエンから視線を逸らすに留まった。
「じゃ、音楽が鳴ったら、入場してくれ」
「……パイとか生卵とか投げ付けるんじゃないだろうな?」
アル=シュケイムが疑わしげにカエンを見た。
「ソレは無い」
「本当だろうな!!」
「俺の目を見ろ!!」
「信じられるか!!」
アル=シュケイムは激昂した。
「喧嘩は駄目よ、二人とも」
カーラが間に入る。
カーラ越しにカエンが言う。
「本当だって。そんな物は用意してない」
「……本当だな?」
「本当だ。皆、お前をオモチャにしようなんて思ってない」
きっぱりとカエンは言い切った。
「本っ当だな!?」
これまでの経験からクドイまでに、アル=シュケイムは確認した。
「からかうつもりではいるかも知れないが」
「……っ!?」
目を見開き、何か怒鳴ろうとしたアル=シュケイムの肩に、カーラがぽんと手を置く。
「大丈夫。私が守ってあげるから」
カーラの一言に、力が抜ける。
(……カーラ……僕を何だと思ってるんだ?)
いじいじモードに入りそうだ。
「じゃあな。俺達先入るけど、逃げるなよ?」
そう言って、カエンはアル=シュケイムの頭をぽんぽんと叩いた。
「髪に触るなっっ!!」
噛み付くように怒鳴るアル=シュケイムに肩をすくめて、へろりと笑う。
「まーまーそう怒るなって! ぼーや♪」
「『ぼーや』って言うなぁっ!! 僕は先輩なんだぞっっ!!」
アル=シュケイムはキイィッとばかりに怒鳴る。
そこへカーラが。
「……そこでムキになるから、ますますカエンにからかわれるのよ?」
ドガン!!!
思わずアル=シュケイムは床にのめり込みそうになった。
が、当の本人は彼に大ダメージを加えた事も気付かずに、にっこり魅力的に微笑んだ。
気の毒そうにカエンがアル=シュケイムを見つめたが、男の同情なんかいらん!!というのが、アル=シュケイムの正直な感想だった。
「じゃあな」
カエンは賢明にも口には何も出さずに、カーラと共に食堂へ入って行った。
拍手が湧き起こり、マイクの声が流れてくる。
「皆様、大変お待たせいたしました! いよいよ、アル=シュケイム=レイト、さよならパーティーを開催いたします。今夜の生け贄、もとい主役のアル=シュケイム君です!! どうぞ、盛大な拍手を!!」
音楽が流れ出す。アル=シュケイムは用心しながらドアを開ける。途端に爆竹やクラッカーの嵐に見舞われ、天井にぶつかる勢いで飛び上がった。
「うああぁっっ!!!」
悲鳴を上げ飛びすさり、頭をぶつけて昏倒しかかるアル=シュケイムに、周囲の失笑が襲う。
思わず涙目で顔を上げた。
カーラまでもが笑いを堪えている。
(……ああっ……!!)
情けなさ倍増である。
そんな彼に容赦なく幹事その一の声が飛ぶ。
「相変わらず臆病で小心者ですねぇ、アル=シュケイム君。いや、皆様には『ぼーや』という愛称の方が有名ですかね? さ、『お父さん』もといリヤオス長官、腰の抜けた臆病なレイト君をさっさとこちらへ引きずり込んで下さい!!」
「ふざけるなっ!! 一人で歩ける!!」
怒りながら、壇上のカエンの元へ自力で行く。
「ちゃんと一人で来られましたねぇ。はい、どうぞ一言」
「お前ら全員大っっ嫌いだっ!!」
アル=シュケイムの大音響。
キンキンとマイクの音が響き渡り、食堂内にエコーする。
「おっとそうきましたね? まーまー怒らずに。愛しのカーラさんの手料理を食べ損ねますよ。……と言う訳で、今宵の進行役は本日の主役のルームメイト、カエン=タルウォークと」
「カーラ=クレスティンでお送りします」
わぁっと歓声が上がる。
(……こっ……こいつらっ……!!)
ふるふると手が震える。
どうせこんな事では無かろうかと思っていたのだ。
(だからイヤだって言ったのに!!)
他人の娯楽のネタになるのはごめんだ。
しかし、こうなったらタダでは帰さないだろう。
そんなものだ。
どうせ弄ばれるんだ、とふるふると怒りに震えるアル=シュケイムの想いも知らぬげに、カエンは実に楽しそうだ。
生き生きとしている。
根っからこういうお祭り騒ぎが好きなのだ。
こうなる事は目に見えているのだから、カーラもこんな奴に持ちかけなければ良いのに、という恨み言まで考えてしまう辺り末期症状だ。
「では、主役のアル=シュケイム君には特別席をご用意しております。カーラ=クレスティン嬢案内宜しくお願いします」
カーラがアル=シュケイムの手を取った。
(はっ……初めてだっっ!! 初めてカーラの方から触れてくれた!! かっ……感動だぁぁっっ!!)
浮かれるアル=シュケイムだったが、不意にご丁寧にも「特別席」と書かれた椅子の周囲に陣取っている女性達を見て硬直した。
(カッ……カエンのヤツっっ……!!)
婉然と微笑み彼を待ち受けていたのは、フィラ=クレソン、サーデュ=ウェイ、セラ=リン、ユナ=ラクス、シェリル=レザン。
皆美人でそれぞれに魅力的な女性である。
全員噂の相手だ。
カーラは知っているのか知らないのか。
アル=シュケイムは背中に冷たい汗が滴り落ちるのを感じたが、カーラは一向に気にしていないようだった。
どちらにせよあまり芳しい状況とは言いかねる。
(くそぉ〜〜っっ!! 後で絞め殺してやるっっ!!)
「はい、こちらよ」
にっこりと笑うカーラ。
「あっ……あのっ……!!」
未練たらしくカーラを引き留めようとするアル=シュケイムの腕をフィラが掴んで引き寄せる。
「……フィッ……フィラ……っ!!」
動揺するアル=シュケイムの耳元に、フィラがそっと甘く囁く。
「……借り、覚えてるわよね?」
「えっ……ええっ!?」
声を上擦らせるアル=シュケイムをぐいと引き寄せ、フィラは自分の膝の上に彼を座らせた。
「ちょっ……まっ……フィラっ……!!」
『何で!?』と顔に書いてあるアル=シュケイムににっこり微笑む。
「おとなしくしてなさい♪ 判ってるのかしら? 自分の立場が」
「……えっちょっとフィラ……っ!!」
アル=シュケイムの混乱困惑ぶりなど物ともせずに、フィラは彼の頬に唇を寄せた。
「……『あの晩』の事は忘れて無いわよね?」
途端に、女達の間に見えない火花が飛び交った。
その危険なオーラにアル=シュケイムは固まった。
フィラは悠然と構えた。
女達の視線が妙に痛い。
物凄い居心地の悪さに、立ち上がろうとするアル=シュケイムの腰にフィラが腕を絡め、耳元で囁く。
「……逃げたりしたらただじゃおかないんだから」
ひどく、魅力的に。
「……フィッ……フィラ……っっ!!」
泣きそうな顔でアル=シュケイムはフィラを見た。
フィラは婉然と微笑む。
「……悪いようにはしないわよ」
嘘だ、とアル=シュケイムは思った。
身の危険をひしひしと感じていた。
フィラが耳元に口づける。
その瞬間、壇上のカーラとばっちり目が合った。
カーラの眉間に皺が寄せられている。
目が合った瞬間、カーラの視線がついと逸らされた。
(ああっ!! こんな時だけ嫉妬しなくてもっっ!!)
喜んで良いのか悲しむべきか判らない。
五人の女性の間に飛び交う火花や毒舌の応酬などは、目に入らない。
壇上のカーラの姿ばかりを目で追うが、カーラは全くこちらを見ようともしない。
気付いたらフィラの膝の上で、他の四人に料理を食べさせられていた。
口移しあり、お触りありで、半分涙目になっていた。
「……ねえ、これ罰ゲームなの? ねぇ、そうなの?」
「楽しいでしょ? ぼーや」
フィラが楽しそうに言う。
(……たっ……楽しくないっ……!!)
逃げられないようぎっちり前後左右女性に取り囲まれている。
本来ならば楽しい筈の状況かも知れなかったが、本命のカーラからは冷気のようなオーラが漂い、周りの女性達からも殺伐とした空気が漂っている。
アル=シュケイムの腰に手を回し、抱きかかえるフィラからも楽しい甘い空気は感じられない。
(……なっ……生殺し……っっ!!)
壇上で何やらパフォーマンスをしているようだが、それどころじゃない。
「はいっ!! ではここでアル=シュケイム君の『王様タイム』終了!! 選りすぐりの精鋭陣、どうぞ!!」
「……へ!?」
途端に女性陣は席を立った。
何事か判らないアル=シュケイムを、今度は美女ならぬ筋骨逞しい大男達が取り囲む。
気のせいか鬼気迫るものがある。
「なっ……何っ……!?」
アル=シュケイムはぎくりとする。
不意に身体を押さえ込まれ、服を脱がされる。
「やっやめてっっ!! うぎゃーっっ!! ヤだヤだっ!! 何すんだよっ!! やめろよぉっっ!! 何すんだ変態っっ!! バカ!! やめろったらぁぁぁっっ!!」
無理矢理着せられたのは、お人形のように可愛いピンクのヒラヒラのドレス。
しかも皆で笑い飛ばすつもりが、冗談にもならない程良く似合っており、しかも涙目のアル=シュケイムは犯罪的なまでに可愛かった。
男達はしん、とした。
不気味な静寂にアル=シュケイムは身の危険を覚えた。
「……なっ……何っ……!?」
思わず後ずさった。そこへ。
「え〜っ! 『お着替えタイム』は終了したようなので、早速そのラブリーでプリティーな勇姿……ぷぷっ……を皆さんに見て貰いましょう!!」
と、カエンが現れその輪の中から引きずり出し、壇上へと押し上げる。
おおっという歓声が上がる。
「これは大変な美少女ぶり!! その実態を良く知っているルームメイトのわたくしでさえ、思わず心が揺れてしまいそうな愛らしさです!! アル=シュケイム君、どうぞ一言!!」
「てめーらなんか大嫌いだっっ!!」
絶叫した。
「……涙目で言われても迫力ありませんね。いっそ可愛くてキスしてあげたいくらいです!!」
「やるなっ!! ボケっっ!!」
ん〜っとわざとらしく唇を突き出すカエンに、アル=シュケイムは蹴りを入れる。
「ここで皆さん、アル=シュケイム君の有名にして知られざる相棒、ラナス=キウト君にもコメントしていただきましょう!!」
おおっというどよめきと拍手が湧き起こる。
「バカっ!! あいつはこういう場面に出てくるような奴じゃ……っ!!」
アル=シュケイムがそう言いかけるのを遮るように、
「……と言うか、こういう場で何を喋ろと?」
『アル=シュケイム』の眉が怪訝そうにしかめつらしく、顰められる。
その表情や雰囲気は瞬時にして変化した。
そこにいるのはアル=シュケイム=レイトでありながら、アル=シュケイム=レイトでは無い。
その顔に浮かぶのは明らかに全く異なる他人の表情。
理性的かつ知性溢れる面差し。
静かで冷ややかな眼差し。
同じ人間とはとても思えない変貌ぶりだ。
「はい!! こちらがラナス=キウト君です!! 知らない方はまず、いないと思いますが、初めて見るという方は多いでしょう!! 決して二重人格ではありません!! アル=シュケイム君の体内に同居している『異界』の住人です!!」
わあっという歓声に包まれる。
アル=シュケイムもといラナス=キウトは奇妙な物を見るように辺りを見回し、冷ややかに肩をそびやかした。
「なお、彼は引っ込み思案(!?)で滅多に姿を現してはくれません!! 皆さん、特別に出てきてくれた彼に盛大な拍手を!!」
嵐のような拍手が巻き起こる。
ラナス=キウトは何だか居心地悪そうに溜息をついた。
その様子を見てわざとらしくカエンが首を傾げる。
「おかしいですね? ここにいるのは同じ女装したアル=シュケイム君な筈ですが、中味が違うと妙に格好良いですね。その秘訣は?」
「……『アレ』が子供なだけだろう」
「素晴らしい!! 簡潔にして率直なご意見、どうも有り難う!! ではここでダンスのお時間です!! アル=シュケイム又はラナス=キウト君と踊りたいという方、男女問わずカエン=タルウォークまで!! それでは音楽を!!」
ダンスの音楽が流れ始め、人の波が泳ぎ始める。
ようやく自分を取り戻したアル=シュケイムはカーラの元へ一目散に駆け寄った。
「お願いします!! 僕と踊って下さい!!」
「結構よ。あなたと踊りたい人は大勢いるでしょうから」
「そんな冷たい事言わないでっ!! 僕が好きなのは君だけだから!!」
「そういうつまらない事ばかり言ってちゃ駄目よ、アル=シュケイム」
「だからっ!! 本気なんだってば!! 冗談じゃないんだよぉっ!! ねぇっ!! カーラ!!」
「……随分モテるみたいね、アル。それならわざわざ私に構う必要ないわよ? そうじゃなくて?」
「カーラ!! 嫉妬なんかしないでよ!!」
「嫉妬なんかしてません。私なんかに構ってないで、もっと喜んでくれる人に言ったらどう? 面白くないでしょう? あなたにはもっと相応しい人がいるでしょうから」
ガガーン!!
アル=シュケイムの目の前は真っ暗になった。思わずその場にへたり込む。
そこへカエンがやって来る。
「ほら、何やってんだよ、アル=シュケイム。まずは長官で次がフィラ。……そうそう、彼女、さっきはごめんなさいって。何かあったのか? ……おい、生きてるか? なあ?」
「……う……あっ…………っ!!」
「お〜い?」
アル=シュケイムはその後、抜け殻のようになった。
「おーい!! 起っきろーっ!! お前、今日移動だろー!? さっさと支度しろーっ!!」
全て夢だったら良いのに、と思いつつ目を擦りながらアル=シュケイムは起きた。
顔を熱いタオルで拭う。
「ほれ」 カエンが目覚ましに、すぅっとする臭いのラヤ茶を渡す。
黙って飲んだ。少しずつ、頭がはっきりしてくる。
「……お前、ひっどい顔してんなぁ。途中から腑抜けのようになるし」
「……カーラ……」
「うん?」
「……いや、何でもない」
「そうか」
カエンは頷いた。
「しっかしお前、モテモテだなぁ! ちっくしょー、羨ましいぜ!! やっぱお前ペットだからか!? 俺、フィラって結構狙ってたのに!!」
「……まだキスもしてないのに……」
「あん? キス? してたじゃん、フィラと。何言ってんだよ、こら」
「……好きな人以外にモテて何が楽しいよ。大体、オモチャにされただけで僕は……僕なんて……女なんて……女なんか大っ嫌いだぁっ!! 二度と……二度と信用しないぞ!!」
アル=シュケイムは叫んで立ち上がった。
カエンは目を丸くした。
「……なぁにぶち切れてんだぁ?」
アル=シュケイムの両目からポロポロ涙が零れた。
カエンは呆気に取られ、ぽかんと口を開いた。
暫くそのまま立ったまま泣いてるアル=シュケイムを見ていたが、気まずそうな照れ臭そうな顔になると、子供のように泣きじゃくるアル=シュケイムの背中をぽん、ぽんと叩いてやった。
「……ごめん、悪かった。俺達ちょっと悪ノリした。でもさ、お前の事可愛いからなんだぜ? 皆、本当好きなんだ。お前の困るとことか、怒るとことかすっげー可愛いからさ、悪いと思いつつ、ついついやっちゃうんだよ。お前、本当皆に好かれてるんだよ。本当だぞ?」
「……皆に好かれたって……カーラが……カーラが好きじゃなきゃ……意味なんてないじゃないかぁっ!!」
「ぜーたく言うな!! ボケ!! それにカーラだってお前の事好きだって!! だって幹事の片割れやってくれるくらいだぞ!?」
「……嫌われたんだ……もう完璧嫌われたんだ……もう駄目だ……死んでやるぅぅっっ!!」
「おっ前バカ言ってんじゃねーよ。人迷惑なんだよ。死ぬ度胸あったら、その分努力しろ!! 言っとくけどお前死んだら、残った俺達がお前の気色悪い死体始末して、お前の抜けた穴埋めなきゃなんねーんだよ!! もっぺん死ぬとか抜かしてみろ!! 二度と死にたいなんて言えないくらい、歯ぁガタガタ言わせてギタギタのボロボロにしてぐぅの音も出ないくらいにしてやる!!」
「…………」
アル=シュケイムはすすり泣く。
カエンの言葉を聞いているかどうかは、かなり怪しい。
ふぅ、とカエンは溜息をつくと舌打ちをし、立ち上がった。
本棚の奥から丸い黒色の瓶を取り出し、コップにどくどくと注いでアル=シュケイムに渡した。
アル=シュケイムは黙って一口飲んだ。
「……おいしい……」
「……秘蔵酒だ。作り方はまた会った時、教えてやる。他の奴には内緒な」
「……カエンが作ったの?」
カエンは頷く。
「四年がかりでな。あとちょっとしか無い。次のは仕込んでる最中。あと二年経ったら出来上がる」
「……知らなかった」
カエンは苦笑いした。
「……死んだ親父が酒造りやっててさ。けど、水が涸れてやめた。あの味は俺には出せない。もし、親父が生きていても同じにはならない。俺の故郷の水はもう、何処にも無い。……こんな蒸留水じゃ、まがい物しか出来ないんだよ」
「でも、おいしいよ!」
アル=シュケイムは強く言った。
カエンは曖昧に笑った。
「ありがと。けど、本当量ないんだ。……蒸留酒だからさ、結構水使うんだ。けど、そんなたくさん俺一人で使っちゃマズイだろ? ……だから、世間は果実酒が主流なんだな、きっと。原料もなかなか入手し難くなってるし……そのうち、ほんの少しの量も作れなくなるかもしれない」
「……そうなんだ?」
「俺が死んだら、誰もこいつの作り方知らないんだなって思うと、なんだかな、時折淋しくなるんだよな」
「カエンは絶対殺しても死なないよ」
アル=シュケイムの言葉に、カエンは苦笑した。
「軽口叩けるようなら、もう平気か?」
「……水、かぁ。……どうして、なくなるんだろう?」
「……お前、故郷ルグミュントだろ?あそこは水が豊富なんだってな。聞いたぜ。でっかい貯水湖や溜め池が幾つもあって、『水道』ってのが都市中流れてて、ポンプで簡単に汲み出せて、わざわざ井戸なんかに水汲み行ったりしなくて良いんだろ?」
「うん。一度、逃げるために水道の中走った事がある。……恐くて。水の流れる音しか聞こえなくて。真っ暗で。狭くて。恐くて逃げ帰ったら……」
そうしたら、兄カラ=セルムが瀕死の重傷を負って倒れていたのだ。
そしてアル=シュケイム自身も『ユレイア』の姿をした『女』に襲われて、右目を失った。
「……リヤオスとラナス=キウトがいなかったら、僕はきっと死んでいた……」
「…………」
「たぶん、もう水道の中は走れないよ。狭くて暗いとこはもう絶対駄目。血の臭いを……動かない兄様の姿を思い出すから。足が、恐くてすくんで動けなくなる」
「……アル=シュケイム……」
「そうだな、ユレイアの事があるから、僕はまだ死ねない。ユレイアを見つけて、エル=ステイト兄様のかたきを捜す。じゃないと僕は一生亡霊から逃れられない」
「……アル=シュケイム。お前、ユレイアさんとカーラ、選ぶとしたらどっちを選ぶんだ?」
カエンの質問に、アル=シュケイムは目を丸くした。
「……そんなの……比べられる訳ないじゃないか……!!」
アル=シュケイムの答えに、カエンは溜息をついた。
「……たぶん、そういう答えじゃカーラは納得しないぞ。カーラが不満に思う事があるとしたら、案外それかも知れないぞ?」
「だってもう十年会ってないんだぞ!? それに、ユレイアは母様か姉様みたいな存在で……俺にとっては……!!」
アル=シュケイムはぎり、と下唇を噛んだ。
「……カエン、お前……母親と恋人同列に並べるか?」
「ユレイアさんはお前の初恋なんだろ?」
「……うん。憧れだったんだよ。どうこうしたいなんて思わない。ただ、傍にいてくれるだけで良かった。僕は母親を知らない。ただ、いたとしたらこんな感じかな、て漠然と思ってた。僕は今でもユレイアを忘れられないけど、それが本当にユレイア自身なのか、もう判らないんだ。あまりにも時が経ちすぎて、記憶と空想の区別が付かない。……本当は、僕が記憶していると思ってるユレイアが、本当のユレイアなのか判らないんだ。ユレイアの特徴は僕と同じ銀色の髪で、瞳は僕よりもっと深い青で、陶磁器のような白い肌で、僕に目鼻立ちが少し似てる美しい人だ、という事だけなんだ」
「……血の繋がりがあったのか?」
「さあ。ユレイアは記憶喪失で……母様は天涯孤独の身の上で。血の繋がりはないと思う。でも、同じ人種なのは間違いないんじゃないかって。父様が。……母様は遠い国から、『カストライトレンド』というところから来たんだって。父様は言ってた。きっとユレイアも『カストライトレンド』の住人だろうって」
「……そんな国、聞いた事ないな」
「うん。そこは水がたくさんあり過ぎて、大地が沈んでしまうくらい大量の水が降り注いでるんだって」
「何だって!?」
カエンは目を見開いた。
「何だよ!! それ!!」
「……きっと足して二で割れば、丁度良いのにね。『カストライトレンド』でいらない水を、僕らのところで使いきればバランス取れるのに」
「そのカスト何とかって国、一体何処にあるんだよ!?」
「……判らない。知ってた母様は死んじゃったし、知ってるかもしれないユレイアは行方不明だし」
「……そうか!! それじゃユレイアさんを捜せば、水を入手出来るかも知れないんだな!?」
「……そう簡単に行くかな? 十年捜して見つからないのに」
「お前には気合いが足りない!! 真剣味が足りないんだよ!! 必死で捜せ!! 死ぬ気で捜せよ!! そうしたら絶対見つかる!!」
「……お前、態度変わりすぎ」
「ってアル=シュケイム。お前現状把握出来てないだろ? このままだと、この辺り一帯の水が枯渇して、俺達も生きていられなくなるんだよ!! 真剣な問題なんだ。サランテスワースから全ての人が、生命が消えてしまうかも知れないんだぞ!?何とかしたいと思うのが心情だろ!? ……そりゃ、お前の故郷は健在だから良いさ。だけど、ここ、レントリアスにいる連中はもう、何処にも居場所なんて無いんだ。ここ以外に行き場所がない。皆故郷の水が枯渇する事態に陥って……そして身寄りも何にも無い連中ばっかりだ。……ここを失くしたら、何処にも行けないんだよ。……俺を含めて、ほぼ全員」
「……そりゃ判ってるさ。判ってるつもりだ。……だけど、そんなの、僕らの力でどうにかなる問題? 水が枯渇するのは僕らのせいじゃないだろ?」
「俺達のせいとかそういう問題じゃないだろ。……生きるか死ぬかの問題なんだ。生き延びるか、滅びるかの。それが定かじゃなきゃ、子供を作る事すら出来やしない。不幸にすると判っていて、子供残して死んだり出来ない。俺達は、第二の自分の故郷を作らないよう必死なんだ。お前には真剣味が本当足りない」
「……別に真剣になってない訳じゃないよ」
アル=シュケイムは言い返した。
「僕は僕なりに真剣だよ。……でも、思うんだよ。……そんなの本当、どうにかなる訳? 水の枯渇も、『砂嵐』も、『魔』の出現も……全てただの人間でしかない僕達にどうにか出来る代物なわけ? 局地的な事ならどうにか出来るかも知れない。だけど、僕達の手は右と左のたった二本しか無いんだぞ?」
「そのために『仲間』がいるんだろ?」
カエンがあっさり言った。
「足りない手は補える。そのための『レントリアス』だろ?」
「…………」
「皆が望む事はたった一つだ。サランテスワースの存続。水の再生。自分達が生き残ること。その子孫が繁栄出来る世界を残すこと。サランテスワース無くして、未来なんか無いんだ。俺達は家族を、家を、故郷を失った。残ってるのはたった一つ。自身の身体だ。俺達は生きて、幸せになりたいんだよ。そのためのレントリアスなんだ。……皆、リヤオス長官の理想に共感している。……お前だけだよ。それをどうでも良いとか抜かすのは。……ま、事情が違うって言われればそれまでだけど」
「……別に、リヤオスの理想がどうとかは言ってないよ。リヤオスの理想は立派だろう。……利益を算出してないんじゃないかって辺りが、理解できないけど」
「…………お前……」
呆れた、という風にカエンは溜息ついた。
「……お前の世界は、勘定・損得だけが倫理観か?」
「リヤオスのやり方は商人としてはなってないよ。利益と同じ赤字を出してたら、いつまで経っても埒が明かないだろう? それじゃ資金提供してるカラ=セルム兄様は損するだけだ。出すだけ出して、返ってくる見込みが全くない」
「……利益を出す為に、レントリアスをやってる訳じゃないんだよ」
「利益は大事だよ? 食うためには金が必要だ。勿論人も必要で、水も資材も必要だけど。人間がこの世に存在する限りは、利益追求は当然だろう?」
カエンは自分の頭をくしゃくしゃと掻き回した。
「……どうしてお前はそうなんだ?」
「……世界を救う前に、自分達を救わないと。……それからじゃなきゃ、いつまで経っても世界なんて救えないよ。……理想論だけじゃ、人は生きていけないんだ。もし、カラ=セルム兄様が援助打ち切ってみなよ? 僕達、明日には路頭に迷うよ。全員賃金カットは免れないね」
「……う……まぁ……そうだけど……」
「金を稼ぐのは労力が要るんだよ? カラ=セルム兄様は人が好いから出すけど……その分、時間と労力が削られてるんだよ。カラ=セルム兄様の成果を、僕達は一方的に搾取してるんだ。……判るかな? つまり、水が降らないのに水を使い続けるのと同じ事なんだ。……いつか底が見え、枯渇してしまう。今は良いかも知れない。……だけど、このままじゃ将来駄目になるんだよ。レントリアスも兄様も。……それが判らないかな?」
「……アル=シュケイム……」
「……だから、利益よりも理想を、なんて考え方は間違ってるんだ。まず、自力で食うこと。それから理想だよ。……それが出来ないうちはそれこそ『理想論』だよ。永遠に『理想』のままだね」
「……それ、リヤオス長官に言ったか?」
カエンが真剣な表情で言った。
「……いや、『利益は大事だ』以降は聞いて貰えなかったな」
アル=シュケイムが言うと、カエンは考え込むような顔になった。
「……なぁ、アル=シュケイム。それって十二分に貴重な意見だぞ? ……お前がそんなに真剣に考えてるとは知らなかったが……」
「……あのね、僕を何だと思ってるの?」
「俺達は『理想』にこだわりすぎて、『利益』追求だなんてことはくだらない事だって思ってた。だけど、それが『水が降らないのに水を使用することと同じ』だなんて事は……きっと誰も考えてない」
「当たり前の事だろ? 増えない物、増やさない物を使い続ければ、いつかはなくなる。増やそうとしなかったら、いつまでも減る一方で、あとは枯渇する未来が待ってるだけだ。足し算引き算の問題だろ? 単純な事じゃないか」
「……そう……だよな。そうなんだ。……なんで気付かなかったんだろう!!」
「て言うか僕しか気付いて無いとしたら物凄く問題じゃないの?」
「……いや、それもそうなんだけど、それだけじゃなくて……つまり、増えないんだったら増やせば良いって事だよな!?」
「……だから、そう言ってるじゃない」
「だから、金もそうだけど、『水』だよ!!」
「……え? 『水』……?」
アル=シュケイムはきょとんとした。
「水は使わなくても確実に消えてるんだ。……つまり、人に使われない場所に、水は存在するって事だ!!」
「……人に使われない場所? 何処だよ、そんなの。地下湖の調査なんかもうそこら中済んでるだろ? そんな……まだ発見されてない水なんて、何処にも……」
「地面の下とかじゃない!!」
カエンは叫んだ。
「……空だよ」
そう言って、頭上を指し示した。アル=シュケイムは目を丸くした。
けれど、意味は全く理解していなかった。