新婚旅行③
最終日の朝。
「……朝だね」
「朝やな」
何でもない会話。
でも空気はゆっくりしている。
「楽しかったね」
笑顔の詩。
昂汰は一瞬だけ黙る。
「……帰りたないな」
ぽつりと漏れる本音。
詩は少しだけ目を伏せてから、
「うん、でも…」
「東京の家、好き」
昂汰が顔を上げる。
「昂汰さんと帰れるの、嬉しい」
その瞬間、
全部が静かになる。
旅行の終わりの寂しさと、
今の安心が一緒に来る。
(…ったく、こいつは)
そう思いながら、
「……帰るか」
とだけ言う。
「…ねぇ昂汰さん」
「んー」
「帰る前に昨日見たパン屋さん行きたい」
「おう」
「あとね…」
「?」
少し恥ずかしそうに続ける
「隣にあった古着屋さんも」
「…ええけど?」
なんかあったか?あそこ…
記憶を辿り出した時
「昂汰さんにプレゼントするから」
“これ、ちょうだい”
彼女が手に取ったのは
俺の、キャップだった…。
帰宅した夜は、思ったより静かだった。
荷物を置いて、シャワーを浴びて、
いつもの部屋の空気に戻る。
それなのに詩は、どこかぼんやりしていた。
「疲れた?」
昂汰が聞くと、
「うん……ちょっと」
それだけ言って、ソファに沈む。
最初はただの疲れだと思ってた。
でも夜が深くなるにつれて、
詩の動きが少しずつ鈍くなる。
体温が上がってるのに気づいたのは、昂汰の方だった。
「詩」
呼んでも返事が遅い。
顔を覗き込むと、
目が少しだけ潤んでいる。
(あかんやつや)
布団に移すと、詩は抵抗もなくそのまま沈む。
いつもみたいな遠慮もない。
ただ、そこに来るのが当たり前みたいに。
昂汰の腕の中に寄ってくる。
無意識。
「……昂汰さん」
小さい声。
「ん」
「眠たい…」
熱のせいか、
いつもより少しだけ素直。
昂汰は一瞬だけ黙って、
額に手を当てる。
やっぱり少し熱い。
「そらそうなるわな」
軽く言いながら、
毛布をかけ直す。
「…ええよ」
腕の中、抱え直す
苦しくないように
でも寂しくないように
いつもより熱い頭を
自分の頬で冷やすように
詩はそのまま動かない。
ただ、少しだけ昂汰の服を掴む。
昂汰はそれを見て、
小さく息を吐く。
まだ少し旅行の余韻が残ってるような、
そんな甘さの残る彼女に
気づかれないように
頰を緩めた
夜中。
詩は何度か目を覚ます。
そのたびに、
無言で昂汰の方に寄ってくる。
探すでもなく、
確認するでもなく、
ただそこに戻るみたいに。
昂汰はそのたびに、
少しだけ位置を直してやる。
離さない。
でも起こさない。
「……ん」
また小さな声。
詩はぼんやりしたまま、
昂汰の胸元に顔を埋める。
あやすように、静かに、
背中を撫ぜてやれば
安心したみたいに息を吐く。
そのまま朝が来る。
まだ少し重い朝。
詩はまだ目を閉じたまま、
「……もうちょっと」
とだけ言う。
昂汰は少し笑って、
「はいはい」
って返す。
ベッド。
カーテンの隙間から入る午後の光が、
部屋の中をゆっくり照らしている。
熱のせいで
まだ少しぼんやりしてる詩
隣では昂汰も背中を預けて座っている。
「…起きたか」
今日はなんだか離れがたくて、
昂汰の足に腕を巻きつけたまま
いつのまにか寝入っていた
「…まだやな」
体温を確かめるように
顔や首に手を当てる昂汰と
されるがままの詩
静かな、時間。
「ねぇ、見て」
すっかり目が覚めたらしい
詩が、スマホを向ける。
画面には、旅館の庭。
木漏れ日と、
揺れてる葉っぱ。
「これ、きれいだった」
「おう」
昂汰は軽く笑う。
道端の小さい花。
湯気の立つ湯のみ。
「お前ほんま、こういうの好きやな」
「好き」
即答。
熱のせいか、ちょっと素直。
“やっぱ撮るの上手いな”
なんて。
そのまま何枚か流していって、
昂汰がふと止まる。
「……ん?」
画面に映ってるのは、
運転席の横顔。
ハンドル握ってる手。
眩しそうに細めた目。
「……おい」
「?」
詩はまだ気づいてない。
「何枚あんねん俺」
「え」
そこでやっと止まる。
数秒。
「あ」
耳が赤くなる。
昂汰、笑い始める。
「盗撮やろこれ」
「違うもん」
「何が違うねん」
「……なんか、撮りたかっただけ」
ふてくされたみたいに言う。
昂汰は笑いながら次をめくる。
また自分。
次も。
その次も。
「めっちゃ見てるやん」
「見てない」
「いや見てるやろ」
詩は耐えきれなくなって、
昂汰の足と布団の間に
顔を隠す
「……返して」
くぐもった声。
「いや無理」
「おもろすぎる」
完全に楽しんでる顔。
「昂汰さんは撮ってないの」
半分やけくそみたいに言う。
昂汰、一瞬止まる。
「……まぁ」
「あるけど」
詩が顔を上げる。
「あるの?」
「……見る?」
妙に歯切れが悪い。
その時点でちょっと怪しい。
スマホを受け取って、
フォルダを開く。
詩、固まる。
「……え」
一枚目。
旅館の縁側。
緑を見上げて笑ってる自分。
二枚目。
お茶を飲みながらぼーっとしてる顔。
三枚目。
助手席で眠そうに窓に寄りかかってる横顔。
四枚目。
腕組んで歩いてる途中、
楽しそうに何か喋ってる瞬間。
全部、自分。
しかも。
「……わたし、知らない」
ぽつりと漏れる。
昂汰は少しだけ視線を逸らす。
「そらそうやろ」
「勝手に撮ってるし」
「なんで……」
「なんでって」
昂汰、一回言葉止まる。
「……ええ顔しとるから」
小さい声。
詩の呼吸が止まる。
熱のせいだけじゃない。
誤魔化すみたいに続ける。
「普段あんま見せへん顔ばっかやし」
「旅行ん時のお前、ずっと機嫌良かったから」
「なんか……残しときたくなって」
最後だけ少し小さい。
詩はしばらく何も言えない。
画面の中には、
自分でも知らなかった自分がいる。
こんな顔してたんだ、って思う。
全部、
昂汰を見てる顔だった。
「……昂汰さん」
「ん」
「これ、ずるい」
「何が」
「わたし、こんなふうに見られてたの知らない」
昂汰は少し笑う。
「俺は見てた」
詩、完全に黙る。
もう熱どころじゃない。
昂汰はそんな詩を見ながら、
ふっと目を細める。
「……ほら」
布団を軽く引っ張る。
「また熱上がるぞ」
「昂汰さんのせい」
「知らん知らん」
そう言いながら、
結局また隣に抱き寄せる。
スマホの画面の中には、
まだ幸せそうな自分が残っていた。
オフ明け。
いつも通り
ざわざわとしているロッカー
「…っす」
昂汰が入ってきた瞬間、静まり返る
「…なんや?」
後輩の1人が手を出す
「お土産ないっすか」
「…は?」
ニヤニヤとした顔が並ぶ
「旅行行ってたんすね」
「新婚旅行っすか」
(なんでこいつら…)
「…昂汰さん、もしかして知らないんすか」
「めっちゃバズってたのに」
「は…?」
「これっすよー」
「キャップ被ってて、顔よく見えてないっすけど」
「詩さんっすよねー」
「……っ!」
慌てて取り上げた画面には
見覚えのある景色が映っていて
《噂通りラブラブだった》
《奥さん、めっちゃキレイな人!》
のコメントも一緒に上がっていた
キャップを少し浅めに被る詩
覗き込むように話している昂汰
「いつの間に…」
そして。
「昂汰さんはわたしのだもんっ」
不意に浮かぶあの声
涙を溜めて否定するあの顔
抉られたあの瞬間が次々と
「昂汰さん…」
「なんすか、その顔…」
その声にハッと我に帰れば
ドン引いてる面々
「……何やねん」
低い声。
でも耳が少し赤い。
ロッカーにスマホを放り込む。
その拍子に、
一瞬だけ待ち受けが見えた。
キャップを被って、
少し照れたみたいに笑ってる詩。
「あ」
誰かが声を漏らす。
沈黙。
昂汰、一回だけ天井を仰ぐ。
(……詰んだ)
でも。
スマホを裏返しながら、
口元だけ少し緩む。
旅行の最後、
“これ、ちょうだい”
ってキャップを抱えた顔が浮かぶ。
熱でぼんやりしながら、
自分の足にしがみついて寝てた感触も。
「まぁ」
「…かわいいな」
ぽつり。
「……え?」
「今なんて?」
「昂汰さん???」
一気にざわつくロッカー。
「うるさい」
でも。
その日の昂汰は、
ずっと少しだけ機嫌が良かった。




