好意に気付いてないのは、自分だけ
不意に放たれた言葉が一日の記憶を丸ごと吹き飛ばす――そんな経験、三十一年生きてきて初めてだった。
『私、来月誕生日なんですよ。六月十四日。土曜日ですし、ご飯でも行きませんか?』
トラブル対応に追われた一日をなんとか終え、駅へ急いでいたら、ホームで関さんとばったり会って。一駅乗る間の他愛もないやりとりの最後、別れ際に彼女はさらっとそう言った。
あのとき、俺は何と返したのだろう?
『ぜひ』と答えた気もするし、驚いて会釈しかできなかった気もする。どちらにせよ、記憶が霞んでしまっている。
夢でも見たのだろうか。
入社二年目の事務職、関さん。誰にでも優しくて、いつも笑顔で、美人で、男性社員からの人気も高いらしい。誰にでも愛想のいい彼女なら、誕生日を一緒に過ごす彼氏くらいいるのではないだろうか。方々に頭を下げて回ることが仕事のようになっている、うだつの上がらない自分とは住む世界が違う人だ。
なのに、なぜ俺が食事に誘われたのだろう? 社交辞令で「今度ゆっくり食事でも」と言われたことならあるが、誕生日だぞ?
「……高いディナーでもねだられる流れか……?」
誕生日に食事だなんて、暗に「ごちそうしてくださいね」と言われているのではないだろうか。いやいや、まさかそんな。年次も職種も違うとはいえ、俺の安月給なんて、彼女なら見抜いているだろう。三十を過ぎて役職のひとつもなく、スーツ三着をローテーション、シャツは襟元に毛玉、革靴のソールだってかなり怪しい。どこをどう見ても、高級ディナーとは不釣り合いな男だ。
だが。
「……まあ、それでもいいか」
彼女にはお世話になっているのだ。領収書の精算だとか、社内処理だとか、雑務をてきぱきこなしてくれる彼女には頭が上がらない。それに、いつ話しかけても眩い笑顔で返してくれる彼女には、ひっそりと癒されてもいる。日頃の感謝を伝えるチャンスだと思えば、一回の食事くらいどうということはない。……さすがに、美人局だと困るのだが……。
「待てよ、プレゼントも必要なのか……?」
さて困った。彼女なんていたことのない自分にだって、誕生日に手ぶらで会うわけにいかないことくらいはわかる。
彼女に贈るなら何がいいだろう?
家に向かいながら、商店街に立ち並ぶ店に目を向けた。いつもは無心で通り抜けるだけの道だが、プレゼントを考えながら見回してみれば、いろんな種類の店がある。
日用品やキッチン用品など、使えそうな物を贈るのはどうだろう――いや、要らないものを貰っても困るだけだ。
菓子が無難か? ――いや、アレルギーがあったらどうするんだ。
そんなことを考えていたら、生花店が目についた。就職と同時に越してきてから八年、素通りし続けてきた店。自分には一生縁のない店だと思っていた生花店に、入る勇気は出なかった。店頭に並ぶ花は小ぶりで、店の奥には大きな花が見える。彼女に送るなら、大きめの花がいい。そこにいるだけで周囲がぱっと明るくなるような人だから。
しばらく悩んだが店に入れずに帰宅し、次の日もまた生花店の前で足が止まった。彼女に花は似合うだろう。だが、彼氏でもない、初めて食事に行くような男が花をプレゼントするなんて、ひどい勘違い野郎だと思われないだろうか。
悩みに悩んでいたら、中にいた年配の店員と目が合い、逃げるように帰宅した。
次の日も店の前で立ち止まったら、今度は気だるげな若い店員に「らっしゃーせー」と声をかけられてまた逃げた。その次の日は、店内にいた店員二人はこちらに気付いたようだが、何も言ってはこなかった。ほっと息を吐いて、店の前からちらちらと中に飾られた花を眺めて帰った。
「……待てよ?」
ふと不安になる。そもそも、俺は本当に誘われたのか? 夢でも見たのでは?
悶々としながら週末を過ごしたせいか、休んだはずなのに酷く疲れた。関さんの前でどんな顔をしていいかもわからない。だが、待ってくれないのが仕事だ。契約書の処理のため、ためらってから関さんの席に向かう。事務的なやり取りをして、さっと立ち去ろうとしたら、メモを渡された。
『十四日、八葉駅前のカフェはどうですか? 最近できた店なんですけど』
夢ではなかったようだ。慌ててスマホを開いて検索すると、オシャレな写真ばかりが表示されて気圧される。だが、店のホームページにあったメニューをおそるおそる見てみると、なんてことはない、居酒屋で飲んで帰るのとそう変わらない価格帯の店だとわかった。
高価なディナーをねだられたわけではなかったのか? ということは、手頃な店で一緒に食事? それは、まさかそれは――デートのようではないか!? なぜに!?
メモとスマホを握りしめて固まっていると、関さんがぽそりと呟く。
「……予約、とってもいいですか」
「えっ、あっ、はい!? 俺がとります! もちろん!!」
声が裏返った。ふっと笑った関さんが、小声で続ける。
「私は十八時でも、十九時でも、二十時でも、大丈夫です」
「はい……」
その日は仕事にならなかった。普段ならやらかさないミスを連発し、同僚に心配された。それでも六月十四日十八時の予約だけは無事確保。えらい、自分。よくやった。
プレゼントは、当日の朝になっても決まっていなかった。生花店以外に洋菓子店にも外から眺めてみたが、キラキラした店内に入る勇気が出なかったのだ。駅前のショッピングモールにあるアクセサリーショップなんて、遠目にちらっと見ただけで、近づくことすらできなかった。
朝からショッピングモールをうろついても決められず、次に商店街をぶらぶらして、生花店の前で立ち止まり、また悩む。
白い花も似合うだろうし、赤い花もいい。薔薇だけは避けよう、愛の告白みたいになってしまう。そんなことを考えているうちに、もうすぐ五時だ。再び年配の店員に声をかけられた。
「お悩みでしたら、お手伝いしましょうか」
「えっ!? あ、はあ、その…………」
「よろしければ店内へどうぞ」
入りづらい。だが、もうすぐ待ち合わせの時間だ。後がない。穏やかだが張りのある声にうながされ、肩を小さく丸めて中に入ると、よくきいた空調の風が、シャツ越しでも腕を冷やしてくれた。
右を見ても左を見ても、知らない花ばかり。赤やピンク、白、黄色。色とりどりの花はどれも綺麗だ。だが、だからこそ俺が花に囲まれているなんて場違いな気がして、つい縮こまってしまう。
「どういった用途のものをお探しですか?」
「ど、同僚の女性への誕生日プレゼントを……」
「なるほど。花のご希望はございますか? ご予算に合わせた花束をお任せいただくこともできますが」
「お任せ!? ぜひそれで!」
お任せなんてシステムがあったのか! 最初からそうすればよかった。イメージや予算を問われ、どう答えたものかと悩んでいると、店の戸が開いた。
「すみません、予約した関です」
「えっ」
「あっ」
入ってきた女性は、関さんだった。会社では見たことのない上品なワンピース、髪には小ぶりな白い花の飾り。元々美人だとは思っていたが、今は知らない人みたいな綺麗さで、とっさに挨拶が出てこなかった。関さんは俺を見て目を丸くし、俺も固まってしまって何も言えない。関さんと俺を見比べた店員が、関さんに顔を向ける。
「予約の花は、もう少し後でお渡ししたほうがいいですか?」
「あっ、あー、いえ、今受け取ります」
「わかりました。少々お待ちください」
年配の店員が奥の台を振り返る。つられてそちらをみれば、若い男性店員が台の下から紙袋を取り出しているところだった。
「こちらで受け取り確認おねしゃーす。カスミソウのブーケっす」
関さんが受け取ったのは、カラフルな小さな花だけで作られたブーケだった。あの花の名前は覚えていなかったが、俺でも見たことがある。大きなブーケによく脇役として入っている白い小ぶりな花。あの花には白いイメージしかなかったが、ブーケの花は水色、ピンク、薄紫と、ほのかに色づいている。
「こちらで間違いないすか」
「はい! イメージぴったりです。ありがとうございます」
「作ったのは店長なんで、それは店長にどーぞ。お代は前払いでいただいてるので、お渡しだけっすね」
「あ、はい。店長さん、ありがとうございました」
ブーケを受け取った関さんは、俺の横にいた年配の店員に向き直って頭を下げた。この人が店主だったらしい。
関さんが俺をちらりと見る。見られただけなのに、俺の体はなぜかびくりと強ばった。
「じゃあ、のちほど」
「はい……」
関さんが店を出ていったとたん、俺の体からどっと汗が吹き出した。動悸が止まらない。
なんだったんだ、今のは。関さんが俺のために着飾るわけも花を買うわけもないだろうから、食事の前に誰かに会うのかもしれない。そんなことを考えたら、心に隙間風が吹いた――って、俺は彼氏でもなんでもないだろう。
勢いよく首を横に振り、一緒に雑念を払う。俺は日頃の感謝を伝える、それだけだ。
「あの、感謝を伝えるための花束を作ってもらえないでしょうか」
「かしこまりました。でしたら、ピンクのガーベラはいかがでしょう? ピンクのガーベラには『感謝』という意味がありますし、色を問わずガーベラを八本束ねると『あなたの思いやりに感謝します』という意味になりますよ」
「へえ……」
「今お持ちしますね」
店主が陳列された商品の中から、一つの細長いバケツらしきものを持ってきた。銀色のバケツには赤やピンク、オレンジなど色とりどりの花が入っている。たくさんの花びらが綺麗な円形に広がっていて、一つでも主役になれそうな印象の花だった。見ているだけで元気になれそうなところが、関さんと似ている。一本二百五十円という手頃な値段も、俺の財布にはありがたい。
「いいですね、ぜひこれでお願いします。感謝の意味にするには八本でしたっけ」
「はい。色はピンク以外も織り交ぜてよろしいですか? 他の花を追加することもできますが」
「お、お任せします……三千円程度にしていただけると助かります」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店主はにこやかにうなずいて、慣れた手つきで花を集めていく。手早いのに綺麗なブーケができあがっていく様子は、魔法でも見ているみたいだった。三千円ぽっきりで購入できたことにホッとして腕時計を見ると、もう五時四十五分になろうとしていた。そろそろ店に向かわなければ。
足を什器にひっかけないよう気をつけながら、足早に店を出る。外は明るく、夕暮れまではまだ時間がありそうだ。さて、予約したカフェは駅のそば。くるりと体を駅側に向けたら――目の前に関さんが立っていた。
「なっ、な、関さん!?」
「どうも」
彼女の手には、まだカスミソウの花束。とっくに生花店を出て、誰かに会いに行ったのだと思っていた。ずっと店から見えない場所にいたのだろうか? 彼女は俺の正面に立つと、花束で俺の胸をぽすりと叩いた。
「カフェで待ってようか迷ったんですけど……これ、今日のご飯に付き合っていただくお礼です」
「えっ俺に? 誕生日なのは関さんですよね!?」
「や、さすがに強引だったかなーと反省はしたんです。おごれって言ってるようなものだし。……なので、お詫びとお礼を兼ねて」
「はあ……」
色とりどりのカスミソウ。目を瞬いてると、「三宅さんは、カスミソウみたいな方だなと思ったので」と補足された。
「中心で皆を引っ張るタイプじゃないですけど、あっちこっちでフォローに回って。縁の下の力持ちっていうか、絶対欠かせない名脇役っていうか。カスミソウも、主役じゃないけど花束には欠かせない花じゃないですか。だから、三宅さんみたいだなと」
「あ、ありがとうございます……」
急に恥ずかしくなって、受け取った花束で顔を隠した。小ぶりな花だが、大きく広がっていて、図体のでかい自分を隠してくれるような気がした。
「ところで、そちらの花束は、もしかしていただけるのでしょうか」
「あっ、これは失礼を……! はい。感謝の気持ちです。お誕生日おめでとうございます」
「感謝……そうですよね。ありがとうございます」
ちょっとだけ関さんの唇が尖った。
「誕生日なので、今日はおごってください。それで、次は私におごらせてもらえませんか?」
「えっ、あー、俺の誕生日は十二月九日です」
「……できれば、もうちょっと近々で」
「ええと、あ、次の部署のランチミーティングの時に俺の分を出していただくとか」
「……」
関さんのつややかな唇が目の前できゅっと閉じ、彼女の整った眉もわずかに中央に寄る。俺は何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。関さんの目がまっすぐ俺を見上げてくるので、つい一歩後ずさってしまった。
「私は、遠回しに断わられているのでしょうか? 今日の食事だって三度目の正直でしたし、私からの誘いが迷惑ならハッキリ言ってください」
「めめめ、滅相もない! だだその、俺みたいなモテない三十過ぎのおじさんと変な噂でも立ったら申し訳ないというか」
「モテない……?」
関さんの目が、すっと細くなった。
「三宅さんはモテないんじゃなくて、壊滅的に鈍いんです!」
「は……?」
「三宅さんは、飲み会で苦手なお酒を注がれている子がいたら、必ず助けに入られますし」
「ええと、そりゃあ無理に飲むのはよくないですし」
「誰かがミスをしたら、ほとんど関係がなくても率先して謝罪とフォローに回られますし」
「はあ、まあ、慣れというか」
「うちの部に、三宅さんに助けられたことがない人なんていないんですよ。私はそんな三宅さんが格好いいと思っています」
「そ、それは褒めすぎですね。でも、お役に立てているなら良かったです」
なんでもないこととはいえ、正面から褒められると照れくさい。体の内側からわき上がってくるようなむずがゆさに耐えかねて「そろそろ行きましょうか」と促したが、彼女は動かなかった。
「……一ミリも伝わってない気がする」
「はい?」
「いいですか! 私は今日、三宅さんを口説き落として彼女の座をゲットするために来ています! このくらい直接的に言えば伝わりますか!?」
「はい!?」
関さんの声も俺の声も大きくなってしまい、通行人の視線を浴びた。そのことにあたふたしつつ、先の関さんの言葉を反すうしながらまた焦る。
「えっ、それはその、交際の申し込みということですか? 俺に!?」
「……はい。まずはお試し彼女ということで、どうでしょうか」
喉がゴクリと鳴る。生まれてこのかた誰とも付き合ったことのない俺に、彼女? しかも関さん? そんな奇跡がこの世にあっていいのか!?
そんなわけないだろうという疑念を捨てられない。だが俺に向けられている彼女の目は真剣で、冗談を言っているふうではない。
「そんな、願ってもないと言うか……よ、よろしくお願いします……」
「! はい!!」
ぱあっと明るく花開くような笑顔は、彼女の腕に抱かれたガーベラのようだった。その笑顔に、年甲斐もなく俺の心臓は強く脈を打った。
二週間後にまた食事をし、その次は一週間後。一緒に過ごす時間も頻度も増えていき、俺が薔薇の花束を買うために生花店を再訪するのは、半年後のことだった。
お読みいただきありがとうございました! 楽しんでいただけてたら嬉しいです。
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作品に出てきた生花店は、私も参加しているアンソロジー同人誌「和山生花店物語 ~九つの花をブーケに~」のお店です。(アンソロで没にしたネタを、メンバーに確認のうえ投稿させてもらました)
じんとするヒューマンドラマがあり、甘い恋愛もあり、とっても楽しい同人誌が出来上がりましたので、興味ある方はぜひ下にスクロールして、「和山生花店物語 ~九つの花をブーケに~」のバナーをクリックしてみてくださいね(*´˘`*)





