陰章之四
「おかえりなさいませ、佐野様」
出迎えの言葉をかける狐はなぜか狐の面を被っている。
「どうしたのだ、面など被って。何か妖怪らしいことでもやらかす気か。」
「それならもうしましたよ。」
狐はそう言って私の足元を指さす。足元を見やると堀田が木の葉にまみれて倒れていた。
ついに殺されたかと思ったが、薄気味悪い笑い声をあげているのでどうやら生きているようだ。足の先でつついてみる。
「ふふふふふ、佐野、見てくれよこの様を。妖怪に、それも妖術を使われて襲われてしまった。」
「ああ、災難だったな。自業自得なのだろうが。」
「幸せすぎる。僕もういつ死んでもいいや。」
「ただでさえ変態の上に、マゾヒストなのか。」
堀田の知りたくない一面をまたひとつ知ってしまった。こいつはもう救いようがない。こんなやつと友人であると近所の住民に知られれば、私まで同類扱いされてしまう。さっさとお帰り願おう。
「堀田、今日の私は狐とごろごろするので忙しい。悪いが今日のところは帰ってくれんか。」
「うらやましいな、ちくしょう。まぁ待ってくれよ、今日は狐さんじゃなくて君に用があって来たんだよ。」
「聞く義理はない。帰れ。」
「僕が試験勉強を手伝わなければ、君は今頃留年確定だったろうね。」
それを言われると弱い。どうせ堀田の頼みなどろくでもないことなのだろうが、聞くだけ聞いておくとしよう。
「何だ、狐ならばやらんぞ。こいつはうちの大事な家事手伝いだ。」
「さすがにそんなことは言わないよ。君にちょっと、この紙にサインをして欲しいだけさ。」
そういって堀田は一枚のA4用紙を差し出してきた。名前を書く欄がいくつか並んでいる。
「創部届。貴君、何か部活を作るのか。」
「ああ、表面上は歴史民俗研究部、という部だ。」
堀田は表面上は、という部分を強調して言った。少なくとも歴史民俗を研究する部ではなさそうだ。
「表面上とはどういうことだ。」
「部っていうのはサークルと違って、そう簡単に作れるわけではないのだよ。表面上だけでも真面目な目標を持っていることをアピールしなければ、中々受理されないんだ。」
「ならばサークルで良いではないか。それに私が聞いているのは、その部を作って何をするつもりなのか、ということだ。」
「部でなければ部費が出ないんだ。目的についてはこれから説明するよ。君も部員になるんだからよく聞いておいてくれ。」
まだ入部するとは言っていない、という意見はきっと聞き届けられないのだろう。
「そんなに嫌そうな顔するなよ。君にメリットがないわけじゃない。我が部の目的は、全国を巡って妖怪を探すことなんだ。君は妖怪図鑑を作るためのネタが手に入る、僕は全国の妖怪へ愛を伝えることができる。どうだい、入部してみないか。」
確かに、悪い話ではない。妖怪図鑑は百鬼分の情報が揃ったら、一旦完成とする予定であったが、もし間違って売れてしまったら第二版のオファーが来るかもしれない。そのときのために妖怪の情報を集めておくのも悪くない。
「いいだろう、入部はしてやる。しかし部活を作るにも人数がいるのではないか。私に堀田、他に誰か当てはあるのか。」
「まぁその辺は適当に見つけておくよ。君はそれにサインをしてくれればそれでいい。」
どうもこいつ何か隠している気がする。どうせ聞いたところで教えてくれないだろうから、深くは追求しないが。
「ほら、これでよいのか。」
「うん、ありがとう。助かるよ。」
私は創部届にサインをし、堀田に手渡す。堀田は無駄に爽やかな笑みを浮かべて受け取ったが、なぜか用紙を見てその笑顔が凍りついた。
「どうした、何か不備でもあったのか。」
「いや、初めて佐野の書いた字をまじまじと見たんだけど。」
字がどうかしたのだろうか。堀田は渋い顔で用紙を見つめている。
「君って字が恐ろしく汚いね。」
あ、今わりと深く心に来た。
「な、何を言っているのだ。私の書いた字が汚いはずがないだろう。」
「いや、これは酷いよ。汚いというよりもむしろ怖い。文字を見て怖いという感想を抱いたのは、生まれて初めてだよ。行書とか草書とかが比にならないレベルで、字が崩れている。」
「そんな馬鹿な。狐、見てくれ。私の字は汚くなんかないよな、な。」
「うわぁ。」
より深く傷ついた。狐の本気で引いた顔を始めて見てしまった。
「この三角形の鉛筆をあげるから元気だしなよ。」
堀田が持ち方の練習をするための鉛筆を差し出す。なんでそんなものを持ち歩いているのだ。とりあえず奪って折っておいた。
「まぁ、今のは冗談だとしても、字の練習はしておいて損はないと思うよ。それじゃ、僕は部員探しを始めるから一旦帰るよ。君もたまには大学に来なよ。」
「余計なお世話だ。字の練習だけは考えておいてやる。」
騒がしい奴がようやく帰った。やっとくつろぐことができる、と思ったところで狐が声をかけてきた。
「佐野様、実は佐野様がお帰りになってからずっと気になっていたのですが、なんだかえらく濡れていませんか。」
くしゅん。指摘された瞬間にくしゃみが出た。そういえば全身がびしょ濡れであったのだ。風邪をひかぬうちに着替えねば。
「もう、仕方ないですね、いい歳して水遊びでもなさったのですか。洗濯しますから服を貸して下さい。」
「ああ、すまないな。頼んだ。」
狐は私の服を受け取ると、てきぱきと洗濯機を回し始めた。もう一通りの家事はすっかり覚えており、私よりも上手にこなすくらいになっている。狐の容姿は幼いはずなのに、その姿は幼少のころに見た母に重なった。
「なぁ狐、貴君に家族はいたのか。」
思わず問うていた。私がそんな質問をするのが意外だったのか、狐は少し驚いた顔を見せた。
「どうしました、藪から棒に。私の家族なら、両親と姉が二人、妹が一人いました。独り立ちしてからは、ずっと会っていませんが。」
「そうか、それなりに大家族だったのだな。家族仲はよかったのか。」
狐が眉根に皺を寄せ、私に疑わしげな視線を向ける。
「まさか、家族の元へ帰れなどというつもりではありませんよね。言っておきますが、まだ恩返しは済んでおりませんし、今家族がどこにいるのかもわかりませんよ。」
「いや、そういう意味でなく、純粋な興味だ。教えてくれないか。」
狐はしばらく私に疑わしげな視線を向けた後、ようやく納得したのか、頬に手を当てて考え始める。
「うーん、そうですね。悪くはありませんでしたが、特別いいというわけでもなし。一般的な人間の家庭を想像していただければ、そう大差ないと思いますよ。餌を取って来てくれたり、夜が恐ろしくて眠れない日は寄り添って眠ってくれたり。餌を取る訓練をするときは、随分厳しかったものですけど。一匹仕留めるまで帰ってくるなと言われたり。」
狐の口から語られる、家族に関するエピソード。それを聞いている私の胸中に渦巻いているのは、羨望と嫉妬であった。
「こんなところですかね、面白くもない話だったでしょう。佐野様。」
狐に呼びかけられて、我に帰る。どうやら平生の思考を失っていたようだ。気をつけなければなるまい。
「あ、ああ、すまなかったな、妙なことを聞いて。貴君は幼いころから、お転婆だったらしい。」
「失礼ですね。私は小さなころからずっと淑女でしたよ。」
私の感想がお気に召さなかったのか、唇をとがらせてすねてみせる狐。だが、その顔はやがて悪戯を思いついた子供のような顔に変化する。嫌な予感がする。
「ね、佐野様のご家族のことも聞かせて下さいよ。」
やはりそうくるか。だが今の私に、そのことについて話す覚悟はない。私の家族のことについて話すということは、必然的に私のことも話すことになるから。
「すまないが、今は勘弁してくれないか。」
「そんな、ずるいですよ。私ばっかり話して佐野様が話さないだなんて。」
「頼む。」
狐がきょとんとした顔で私を見る。私が真剣に拒否していることに気づいたらしい。
狐はしばらく追求するか否か悩んでいたようだったが、結局押し黙った。
「すまない、いつか必ず話す。だから今は、まだ。」
私の覚悟が決まる日まで。
現代妖怪図鑑 項目ノ八十四 人魚
人魚とは人間の上半身に魚の下半身を持つ妖怪で、その肉に不老不死の力が宿っていることで有名である。しかし、現代の人魚の外見は完全にジュゴンそのものであり、その肉からも不老不死の力は失われているようだ。もはや人魚を探すことにメリットはないが、男を海中へと誘う美しい歌声は健在であるようなので、自殺をする分には人魚を探すのもいい方法かもしれない。




