陽章之二
「なぁ貴君、貴君は妖怪であろう。」
近くを通った人が心底憐れんだ眼を私に向け、関わらないようにと足早に去っていった。
しかし私は一切省みない。なぜなら私は人々を妖怪たちの魔手から救い出すという重大な使命を担っているからだ。ついでに印税も入ればなおよい。
水無月。私は例のごとく、図鑑のネタを探して町をさまよい続けていた。ここ二カ月ほどで、我が妖怪図鑑の項目はそれなりに増えた。基本的に三日坊主である私がこれほどまでに一つのことに集中するとは、喜ばしい進歩である。進歩と言えば、我が家の家事手伝いのことも報告しておこうと思う。
当初は味噌汁に味噌を入れないといった暴挙を行った彼女であったが、頭脳派を自称するだけあって私が家事を教えると、スポンジのごとくその知識を吸収していった。近頃では創作料理を作りだすほどである。きっとその頭をしぼれば知識があふれ出してくることだろう。
さて、妖怪探しである。ここ二カ月でわかったことは、どうも狐と出会ってから私の頭には妖怪アンテナがついたらしい、ということだ。近くに妖怪がいれば、その気配から感知できるようになったのだ。おかげでネタを探す分には、すこぶる便利である。
その妖怪アンテナが、近く建設中のビルの付近を通過した時に反応した。危険な妖怪でないことを祈りながら、そっと目を向ける。
それはビルとビルの間にある脇道に、ぽつんと佇む看板であった。危険!通行禁止、といった文句とともに、工事作業員がこちらに向けて手を広げている絵が描かれている。完膚なきまでに、看板である。
私は自身が看板に話しかけるほどに、話し相手に飢えている寂しいやつではないと自負している。しかし、今までに妖怪アンテナが誤作動を起こしたことはないことを考えると、一応話しかけてみるべきなのだろう。
冒頭に戻る。
「いいや、断じて違う。」
喋りやがった。人型と看板との初のコミュニケーションが行われた瞬間である。一体どこから声を出しているのだろうか。思わず隠されたマイクやテープレコーダがないか、足元を探す。特に何もなかった。
「おいお前、話しかけておいて、何故下を見ているのだ。人と話すときは目を見て話せ。」
看板に注意された。これも恐らく世界初だろう。しかし今こいつ自分のことを人と言わなかったか。それに目を見て話せと言われても、どこが目であるのかわからない。とりあえず、描かれた作業員の目を見ながら会話を続ける。
「失礼した。実は私は近くに妖怪がいればわかる、という力を持っているのだが、それが貴君に反応したのだ。貴君が妖怪でないというのなら、後学のためにも貴君がなんであるか教えてくれないだろうか。」
「俺が何者か聞く前に、お前が名乗れ。最低限の礼儀だぞ。それに、妖怪など見つけてどうするつもりなのだ。」
看板が声を荒げる。外見上変化はないが、どうやら怒っているらしい。どうやらかなり礼儀にうるさい看板のようだ。素直に謝っておくべきだろう。
「重ねて失礼した。私は佐野征十郎という。妖怪を探しているのは、私が現代妖怪図鑑を執筆しているからだ。」
「また妙なものを作っているのだな。だが残念ながら、俺は妖怪などではなく、ただの塗り壁だ。」
さらっと自分の正体をいう看板もとい塗り壁。そして私の脳みそが確かなら、塗り壁は妖怪のはずである。それも割と有名な。
塗り壁は通行人の行く先に立ちはだかると謂われる妖怪である。塀に挟まれた小道を一人で行くと、真っすぐな道であったはずなのに曲がり角が現れ、その曲がり角を曲がってみるとまた新たな曲がり角が現れる。不審に思って壁を調べてみると、塗り壁であった、という逸話が残っている。
「塗り壁は妖怪であると思うのだが。」
「塗り壁は塗り壁だろう。何を言っているのだ。」
頭が痛くなってきた。この塗り壁どうやら頭があまりよくないらしい。あるのかは知らないが、こいつの脳みそはきっと皺のない、卵のような脳みそだろう。もう面倒だから、塗り壁は妖怪か、という話は置いておこう。
「塗り壁とは、その名の通り壁のような姿をしていると思うのだが、何故貴君はそのような看板のごとき姿をしているのか教えてくれないか。」
「よくぞ聞いてくれた。この姿は俺たちが考えに考えた先に見出した、究極の形なのだ。」
何やら大げさな前振りとともに、喜々としてその姿に至った経緯を話しだす塗り壁。どうやら長い話になりそうだ。私は質問したことを後悔した。
「お前は俺たちが道を塞ぐとき、ただ道の真ん中で突っ立っているだけでよいと考えているかもしれないが、それは大きな間違いだ。人間に正体を看破されぬように、周りの壁の高さに合わせて背を伸ばしたり、周りの壁の模様と自分の体の模様を同じにしたり、広い道を塞ぐために体を横に伸ばしたりといった細かい技術が要求されるのだ。これがなかなかに辛い。そこで俺たちが考えたことは、どうにかして塀に化ける労力を減らすことができないか、ということだ。そこからは試行錯誤の日々だ。」
塗り壁の話し方に熱が入ってきた。対する私は冷めている。もし私と塗り壁が窓ガラスがあったとしたら、あまりの温度差に結露することだろう。
「多くの塗り壁が、新しい方法を試しては散って行った。俺たちはそれでもあきらめなかった。あえて道を塞がないでみたこともあった。どうか通らないでくださいと人にお願いしたこともあった。そして五百年の時を経て、俺たちは最善を見つけたのだ。」
暑苦しい。六月の蒸し暑さも相まって、塗り壁の話が終わる前に私の脳みそのほうが先にとろけてしまいそうだ。そうなれば世界の損失である。早く話し終われ。
「昔と比べて随分様変わりした世の中で、俺たちは現代人が色々なルールの下に生活していることに目を付けた。そして考えたことは、通ってはならないというルールを人間に課すものに化けることであった。これならば、あらかじめ一つのものに化けておけば、後は細かい調節をせずともいつでもどこでも道を塞ぐことができる。そしてついに俺たちがたどり着いた結論は、工事現場の通行禁止の看板だったというわけだ。」
ようやく話が終わったらしい。かれこれ三十分、私は看板に一方的に話しかけられ続けていた。よく考えたら、何故私はこいつの話を律儀に、最後まで聞いてしまったのだろう。貴重な時間を溝に投げ捨てた私の気持ち、推して知るべし。
内心イライラしていた私は、この看板にいやがらせをすることにした。
「どうだ、俺たちがこの姿にたどり着いた理由、よくわかっただろう。素晴らしい考えだと思わないか。」
「ああ、確かに一見その姿は完璧に思えるな。だが、その姿には致命的な弱点がある。」
「なんだと、俺たちの五百年を侮辱するつもりか。この姿は完璧だ。弱点があるというのなら言ってみろ。」
言葉で伝える代わりに、おもむろに私は塗り壁の横を通り過ぎようとする。
「おい、何をしている、まさかこの道を通るつもりなのか。ここは通行禁止なんだぞ。危ないんだぞ。」
「それは貴君が勝手に決めたことなのだろう。私の家はこちらから帰ると近いのだ。その姿の弱点は、正体がばれてしまったら最後、人の通行を防ぐ術はないことだ。なぜなら貴君は看板だからだ。昔のように、道いっぱいに体を広げて塞いでいれば、正体がばれても通行を防ぐことはできただろうな。」
「よせ、この道は本当に危険なんだ。」
騙されるものか。私はニヤリと笑って看板の横をすりぬけた。いい気分だ、一杯くわせることができた。楽して道を塞ごうとした報いである。
「危ない、避けろ。」
私がビルの隣の脇道を歩きだすと、唐突に上から大きな声が降ってきた。
反射的に上を向くと、建設中のビルからちょうど私の頭上に向けて巨大な鉄骨が落下してくるのが見えた。道幅的に、避けることは叶わないようだ。
私に鉄骨が直撃する寸前、「忠告はしたぞ」という声がした気がした。