陰章之二
「おかえりなさいませ、佐野様。」
同居人の狐が出迎えの声をかける。私は返事をするほどの元気がなかったので、首を縦に振って応えただけだった。
私がせんべいのごとき薄さの座布団を枕として寝転がろうとしていると、狐が再び声をかけてきた。
「これは、私が問うてよいことなのかどうか、迷ったのですが。」
なぜか頬が赤みを帯びている。
「何だ、言うてみろ。」
狐はそれでも口ごもる。よほど言いづらいことなのだろう。しばらく私の顔を見つめた後、ようやくこう問うた。
「何故、全裸なのですか。」
ああ、そういえば帰るのに必死で自分が全裸であることを忘れていた。よく通報されなかったものだ。しかしこの狐、私の裸なんぞで頬を染めていたのか。私の何倍も生きているだろうに、以外と初心なやつだ。
「これにはやむを得ぬ事情があるのだ。だから受話器をおけ。この件に警察を介入させるのはあまりに早計だ。」
「ならば早くその事情とやらを説明してください。ポル野様。私はあなたに嫁入りする覚悟すらありましたが、露出癖の変態を伴侶とする覚悟まではありません。まずはその趣味を矯正してさしあげます。これもまた恩返し。」
誰がポル野だ。私は佐野だ。しかしこれは不味い。狐の指が電話機の番号の1と0の間を高速で行き来している。イメージトレーニングは大切であるが、今回ばかりは私にとって都合が悪い。早急に事情を説明せねばなるまい。一難去って、また一難。
「実はな、火車に灼熱地獄に連れて行かれ、地獄の業火に放り込まれたことにより服が焼けてしまったのだ。」
電話機の番号を押したことを示す電子音が部屋に響く。とっさに電話線を引きぬいて事なきを得る。狐は電話の仕組みをまだ十分に理解していないらしく、繋がるはずもない受話器に呼びかけ続けている。阿呆め。頭脳派が聞いてあきれる。
しかしなぜ警察の呼び方は知っているのだ。よくわからない狐である。
「信じられないのもわかる、だが事実なのだ。受け入れてくれ。」
「私はそれよりも、目の前の現実を受け入れたくありませんよ。わかりました、もういいです。信じますから早く服を着てください。」
どうやら信じてもらえたようだ。言葉が投げ遣りだった気がしないでもないが、信じてもらえたことにしよう。とりあえず服を着る。
「そういえば、先ほど火車と仰いましたね。ということは妖怪には会えたのですね。」
「うむ。見てくれは完全に人間であったが、間違いなくあれは火車であった。それも子持ちの火車であった。さっそく妖怪図鑑の執筆に取り掛かろうと思う。」
「お待ちください。」
なぜ止める。そう思って狐の顔を見ると、なにやら偉そうな、どこかやりきったような顔をしている。頬を引っ張ってやりたい。
「何だ。服ならもう着たぞ。」
「その話はもうやめてください。次はありませんよ。図鑑の執筆を始める前に夕食にしましょう。私が作ったのですよ。私が。」
確かに、キッチンでは鍋から何やらが煮える音がする。家事をしろといったのは半ば冗談であったのだが、まさか本当にするとは。なかなか将来有望な狐である。
「ふむ、では先に夕食を頂くとしよう。ちなみに何を作ったのだ。」
「油揚げの味噌汁でございます。」
得意げな顔。少し間を置くことにする。このとき私は、狐が夕食のメニューの続きを言うこと期待していた。期待は打ち砕かれた。
「どうしたのですか。鳩が鉛鉄砲を喰らったような顔をしておいでですよ。」
「おそらくその鳩の頭は吹き飛んでいるだろうから、私がどのような表情をしているのか皆目わからん。それより、夕食は味噌汁以外にないのか。」
「はぁ、ございませんが。」
「その心底訳が分からない、と言いたげな表情をやめろ。夕食を作ってくれたことはうれしいが、さすがに味噌汁だけでは不味いと気付いてくれ。」
まぁ、人と人以外との間では常識も違う。今回は家事を教えておかなかった私が悪い。
「わかった。家事は今後きっちりと教え込むこととしよう。とりあえず味噌汁だけでも食うから、持ってきてくれ。」
「かしこまりました。」
狐が碗に味噌汁をよそう。台所に立つその姿は中々様になっており、不覚にも見とれてしまった。
「どうぞお召し上がりくださいな。」
「ああ、ありがとう。」
味噌汁の出来栄えを見る。恐ろしく透明度の高い液体の上に油揚げが浮かんでいる。ここまで透明な味噌汁は見たことがない。というより味噌汁ではない。ただの湯に油揚げを浮かべたものである。
「貴君、さっき今日の夕食は味噌汁であるといったな。まず味噌汁とは何か、答えてみよ。」
「はい、味噌汁とは熱い液体に好きな具材を叩きこんで、煮たものです。」
「ちなみにそれは誰から聞いたのだ。」
「堀田様、という方です。佐野様の御学友であると仰っておられました。昼頃訪ねていらして、右も左もわからず、困っていた私を手助けしてくださったのです。買い物の仕方も教えていただきました。」
奴か。道理で味噌汁の作り方に悪意が見え隠れするはずだ。
「今後は私がいないときに誰か来ても、扉を開けないように。堀田が来たら酷く化かしてから追い返すこと。味噌汁には味噌を入れること。わかったな。」
「あの、味付けが不味かったのでしょうか。堀田様からは愛情こそが最高の味付けになると聞いたので、油揚げに対する愛情を、溢れんばかりに詰め込んだのですが。」
私に対する愛情ではないのか。油揚げへの愛情が詰まった湯を食し、私はどういった反応を示せばよいのだろう。
「申し訳ありません。私は家事も満足にできぬ駄目な狐でございます。こんな残飯は即刻処理いたします。」
「待て、食わぬとは言っていない。むしろ食べさせてくれ。文句ばかり言ってすまなかった。」
そんなに落ち込んだ顔をされては食わざるを得ない。それに、せっかく作ってくれたのだ。何より下宿を始めてから誰かが飯を作って待ってくれているなどということはなかった。心底うれしくはあるのだ。
「わかりました。それでは口を開けてください。」
「待て、何をしようとしている。」
何故か狐が箸で油揚げをつまみ、私の眼前へと持ってくる。
「先ほど食べさせてくれ、と言ったではないですか。さぁ、早く口を開くのです。」
「そういう意味で言ったのではない。ちゃんと自分で食う。」
狐から箸を奪い取り、油揚げをかきこむ。特に味はしなかったが、暖かかった。
「御馳走様。時に、貴君は食べないのか。油揚げは好物なのだろう。」
「私は既に何匹か食べておりますから。満腹なのです。それに、佐野様のお金で買ったものを、私が食すわけにはいきません。」
「律儀なやつだな。しかし、同居人がいるというのに食卓を囲めないというのは少々寂しいものがあるぞ。」
「では、食卓で鼠を食べてもよろしいのですか。生で。」
想像してみる。食卓の上で開催される鼠の解体ショー。確かに、食事をしながら眺めたい光景ではない。
「そうだな、食卓を囲むのはあきらめよう。だが、生活に支障のない範囲ならば菓子のような嗜好品を買ってもよいのだぞ。」
「有難いお言葉です。では、今後はほんの少しだけ甘えさせていただきます。」
「うむ、我慢しすぎるのはよくないからな。」
夕食後、狐は慣れぬことばかりで疲れてしまったのか。眠ってしまった。そっと布団をかけてやる。ひと段落ついたので、妖怪図鑑の執筆に取り掛かる。
現代妖怪図鑑 項目ノ一 火車
現代における火車は、人に化けて霊柩車の運転手をしている。葬儀業者から派遣されたものだと思って安心して棺桶を預けると死体がさらわれてしまうので、霊柩車に棺桶を乗せる前に必ず運転手が火車か否かを確認すべし。注意点として、決して火車の駆る霊柩車の助手席には乗らないこと。代わりに灼熱地獄に放り込まれることになる。しばしば妻子持ちの場合がある。