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水鏡

 その冒険者は勝っていた。幼い頃から聡明で、雄弁であった。

 しかしその英気は長ずるにつれ、世の濁りにあてられて惰気へと転じてしまった。

 優れた能力を持ちながら辺境の地で隠棲し、その日に必要な分だけを稼ぎ、後は寝て過ごす日々。

 そんなある日、その冒険者はある噂を耳にする。


――『天空の鏡』と呼ばれる湖には、魔王をも恐れる盾が眠っているらしい。


 酔っ払いの戯言だったかもしれない。しかし文化も教養もない町での暮らしに飽いていた冒険者は、ここを去る理由を得たと思い、その湖へ向かった。

 人間の領域を離れ、魔王の治める地へ。

 七頭の龍が棲むという川をさかのぼり、魔王の爪痕と呼ばれる渓谷を越える。

 道中、様々なモンスターと遭遇しては戦い、あるいは逃げ、そして、


「ここが天空の鏡か」


 一年の時を経て、目的の湖へとたどりついた。

 常に暗雲たれこめる魔王領にあって、ここだけぽっかりと雲に穴が空き、光が差している。

 咲き誇る花々、波ひとつない穏やかな湖は、鏡のように天空を映し取っている。

 

「盾はどこだ?」


 湖を回ったがそれらしきものはない。

 思い切って湖に足を踏み出す。

 と、水面に立つことができた。


(これなら歩いていける)


 冒険者は湖の上を歩く。一歩踏み出すごとに波紋が広がっていく。

 なにもない、風の音すらもしない空間をゆく。


「あははっ」


 冒険者は楽しくなった。ここでは完全に自由だと、そう感じた。

 憎しみも、悲しみも、怒りも、愛すらもここにはない。

 天があって地がある。それだけで十分だった。


 冒険者は夢中になって歩いた。

 なにものにもとらわれず、好きなように思うままに振る舞う。

 そして、湖の半ばでぽつんと浮かぶ祠にたどり着いた。

 石を積んで作られた簡素な祠。そこにある祭壇の戸を開くと、


「これは……」


 ひとつの盾があった。

 まるでこの湖のような盾の表面には、冒険者の姿が映っている。


 老いた顔、衰えた体、若き日にまとっていた身を焦がすような覇気はどこにもみられない。

 あるのは驕り、自惚れ、人を見下してきた己が半生と、これから失われていく残りの半生。

 醜くゆがんだ口元には人の悪さが出てしまっている。


「ああ、そうか」


 冒険者はたじろいで湖に尻もちをついた。

 跳ねる水も、沈む太陽も、流れる雲も、命でさえも、一時としてとどまらない。

 その恐るべき無常を知ってなお世界を慈しむ心が、己の内にあるのに驚いた。


「魔王も恐れるわけだ」


 そして笑う。ゆがんだ口を大きく開けて、老いた顔がしわくちゃになるのを気にもとめずに大笑いした。

 冒険者は立ち上がる。もう盾はいらない。祭壇の戸を閉めて静かに去った。


 それから数カ月後。勇者の一行に賢者が合流した。

 賢者は若き勇者に道を示し、その勇気を広めたのだった。

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