11 告白
「ラ、ランダ……」
抱きしめられたエリュアは、彼の名を呼ぶ。
けれど、それから先の言葉が思い浮かばなかった。
挨拶として、様々な人と軽く抱擁し合ったことなら、数え切れないほどある。
けれど、今ランダから受けている抱擁は、全く違うものだった。
身体をすっぽりと包み込まれ、さらにその外側から情熱のヴェールに包まれている。二つの身体が一つになりそうなほど、強く強く、飲み込まれそうな抱擁だった。
『生贄になったら食われる』と思いこんでいた時のことを、今さらに思い出す。
「エリュア。もう、ニキウス王を夫だなどと思わないでくれ」
耳から、ランダの低い声が、熱く染み入ってくる。
「エリュアを傷つけるだけのそれは、人間じゃない。ただの毒だ。蝕まれてきたあなたは、癒されるべきなんだ」
心の傷を癒すべき、とか、心身を癒してほしい、とランダは何度も言ってきた。今まで、エリュアはそれを「疲れを回復させ、また戻る」という意味で受け止めていた。
しかし、夫に殺されそうになった今ならわかる。ランダの言葉や気持ちは、エリュアを死の淵から救い出そうとしていたのだ。
「ランダ……ありがとう。嬉しい……」
自然に手が動き、そっと抱きしめ返す。
ランダは大きすぎて、がっしりとした背中に手を添えるくらいしかできなかったが、より身体がぴったりと密着した。
胸が高鳴る。
(あぁ、人を愛しく思うのって、こんな気持ちなのね。親子とも、友情とも違う。初めての気持ち、初めての……これが、恋)
そこへ、告白が降ってきた。
「初めて会った時から、あなたに憧れ、惹かれていた」
わずかに腕が緩み、ランダの瞳がエリュアの瞳とぶつかる。
「……愛してる、エリュア」
はっ、と息を呑むと同時に、その言葉が曇りのない真実だと知る。
「もう、帰ろうなどとしないよな? 俺のそばで、一生、俺に愛されてほしい」
「あ……」
(この人に、愛されたい。私も愛したい)
このまま身も心も委ね、同じ気持ちで結ばれたら、どんなに幸せだろう。
エリュアはくらりとめまいを覚えた。
二人の唇が近づく。
──エリュアの手が、ランダの背中から離れて引っ込み、彼の胸をそっと押した。
二人の身体に隙間ができ、熱が、すっ、と冷えていく。
「エリ……」
「ランダ」
目に涙をいっぱいにためて、エリュアは声を震わせた。
「私は今もあの人の妻で、王妃で、両親の娘なの。……本当に、ごめんなさい」
言葉に迷うランダの腕を、エリュアは素早く抜け出した。
そして逃げるように、天幕から出て行った。
「まあ……そうか……そうなるか」
フォーシードがため息をつく。
海鳥の声が響き、午前の陽がセマン・セタール号の船長室に差し込んでいる。
ランダは椅子に座ってがっくりとうなだれ、フォーシードはそんな彼の肩を、慰めるように軽く叩いた。
「いや、な。俺もてっきり、さすがのエリュア王妃も夫を見放してお前を選び、あのままお前となだれ込んで、今朝は恥ずかしそうな二人の姿を見られると思ってたよ。そのつもりで二人きりにしたんだし? ……エリュア王妃は?」
「……今朝は……会ってない……」
ぼそぼそとランダはつぶやく。
「俺じゃ……ダメだったのか……いやでも、彼女の瞳は……」
「自信持て。お前は王妃を幸せにできる男だ。でもな」
フォーシードはかがみ込み、ランダの顔を見つめた。
「俺もうかつだった。王妃の言うとおりなんだよ」
ランダの視線が、フォーシードのそれと合う。
フォーシードは続けた。
「ニキウス王と離婚したわけでもない。トルリア国民はまだ彼女を王妃として戴いている。そして、彼女の両親の立場もある。……例えばもし、ニキウス王が『王妃と話し合いたいから一角獣に乗って中立地帯まで来てくれ』みたいなことを言ってきたとしよう。どうなる?」
はっ、と、ランダは息を呑んだ。
さらにフォーシードは続ける。
「お前と結ばれていたら、王妃は当然、一角獣には乗れないわな。乗った姿を見せることができなければ、彼女は一気に叩かれる。不義だふしだらだ、トルリアを捨てて他国の男に走った、と。元々お前と王妃が通じていたんだ、ぐらいのデマ、ニキウス王なら嬉々として他国に言いふらすだろうな」
「彼女の両親も立場を失い、家は凋落の一途……」
「そういうこと。たとえお前たちの心が通じ合っても、まだ、彼女は何本もの鎖に囚われている」
「…………」
ランダはしばらく、黙り込んでいた。
やがて、パン、と自分の膝を叩いて立ち上がる。
「ありがとう、フォーシード。問題点が明確になった。考えてみる」
「お、顔色が戻ったな」
「エリュアを、本当の意味で解放したい。俺が愛したのは他国の王妃なんだ、これくらいの障害はあって当たり前だよな」
「よっし、その意気だ! 頑張れ!」
「ああ。今はとにかく、俺の仕事をしてくるよ」
フォーシードに見送られ、執政ランダは全身に決意をみなぎらせつつも、公務に戻っていった。
エリュアは一人、客室で書き物机に向かっていた。
殺されそうになったばかりの彼女である。何かあった時のため、遺言を書かなくてはならない。そう思ったのだ。
しかし、便せんは白いまま、一文字も埋まっていない。
(ランダ……)
エリュアはペンを置き、ため息をつく。
今朝は気まずくてとても顔を合わせることができず、朝食は自室でとった。
(傷つけてしまったかしら。きっとそうね。……どうしたらいいんだろう)
ニキウスに離婚を申し出ようかと、一度は考えた。
しかし、トルリアは妻の側から離婚を申し出た例がほとんどない。男性の地位が高いため、妻が夫を糾弾するなどもってのほか、という空気があるからだ。
特にニキウスなど、聞き入れないどころか、逆に意固地になるだろう。ますます泥沼になり、解決など見込めない。
(あちらから離婚を申し出てくれれば……無理でしょうけれど……)
エリュアは自分の身体を抱きしめる。
昨夜、ランダに愛を告げられて、自分も彼を愛していると気づいてしまった。
けれど、自分が王妃である限り、結ばれることはできないのではないか。最悪、自分はどうなってもかまわないけれど、実家を始め様々なところに迷惑がかかる。
愛しているからといって、執政という地位にあるランダをいい加減な繋がりで縛ることも、してはいけないと思う。彼はマルディガルの民に必要とされている人だ。
ふらり、と立ち上がったエリュアは、外廊下に出た。
水音に包まれる。すぐ庭に降りられるようになっており、午後の陽が作る木々の影が、天幕に落ちている。
(ランダの気持ちを知りながら二人きりになるのも、よくないこと……よね。あそこでトリテで遊ぶことも、もう……)
柱によりかかり、彼女はうなだれる。
(私などいない方が、全て丸く収まるのではないかしら。世俗を離れて……修道院のような場所で暮らす方が……)
その時だった。
木陰からひょっこりと、姿を現したものがある。
「あっ」
思わずエリュアは声を上げた。
「一角獣さん」
額に角のある真っ白な馬が、ゆっくりと近づいてきた。エリュアも急いで近づく。
「どうしたの? 私をここに連れてきてくれた時以来ね」
しかし彼女は、すぐにハッとした。よく見ると、細かいところが違う。
「あなた……あの時の一角獣ではない、わね?」
『清き乙女よ。よくわかったな』
言葉を解する獣人でもある一角獣は、嬉しそうに軽く跳ねて見せた。
そして、エリュアの周りをぐるりと一周すると、彼女の前で横向きになった。黄金の鞍がついている。
『急ぎの用があって迎えにきた』
「迎え?」
『そうだ。我らの聖域に、あなたをお連れする』
一角獣は、聖域と呼ばれる山岳地帯に住むという。
(また、ランダが寄越したのかしら。私が考えたように、ランダも私をどこか修道院のような場所に隔離しようと……?)
胸がズキリと痛む。
そんなはずはない、いや、もしかしたらやっぱり、と、心が惑う。
(……でも。どちらでもいいわ。今はとにかく、ここを離れた方がいい。ここにいたら、私……また昨夜みたいに抱きしめられてしまったら)
無意識に、鞍に手をかけた。
「エリュア様?」
廊下の向こうから、ザクロの声がした。飲み物か何かを運んできていたのだ。
一角獣にまたがったエリュアは、一度振り向いた。
「ザクロ。私、行ってきます」
「お待ちください、お出かけなら私も……あっ」
一角獣は前足を軽く上げると、一気に走り出した。
そのまま、一角獣は公邸を囲む塀をふわりと飛び越え、普通の馬とは全く違う速度でエリュアをぐんぐんと連れ去っていった。




