10 夫の殺意
トルリアの壮麗な王城を、月が冷たく照らし出している。
人々の目には白く、清く映るその城の中には、重く濁ったものが渦巻いていた。
ガシャン!
グラスが砕け、白黒の大理石の床にワインの赤紫が飛び散った。
「エリュアめ……何をやっている!」
立ち尽くしたニキウスが叫ぶ。
「生贄として死ぬためにマルディガルに行ったくせに、まるで国賓気取りではないか!」
夕食の後の、遊戯室だ。カードゲーム用のテーブルを挟んで二つの椅子があり、片方にはウリーダが腰かけている。
テーブルには、クシャクシャになった報告書が置かれていた。身内である公爵家の使用人に商人のふりをさせ、マルディガルに調査に行かせた時のものだ。
港での、エリュアの様子が書いてある。
「私の結婚、ぶちこわしてくれたくせにね」
ウリーダは椅子で足を組み、耳の横に垂れた髪をくるくるといじった。
「ま、あのお堅いサルト聖国に嫁がなくて済んで、よかったような気も……」
「何か言ったか!?」
「何もぉ。あの女、私のこともバラしまくってるんだろうなって言っただけ!」
「元々口うるさい奴だ。色々しゃべっているだろうな」
「そうよね。ふん、私のこと叩いたって、自分がお兄様に愛されてないことが帳消しになるわけじゃないのに」
「自分の恥も同時にさらけ出しているんだから、バカな女だ」
「あ。同情を引いて、獣公を誘惑してるんじゃない? あっちも獣だからバカだろうし」
「ふん! バカ同士、似合いというわけか」
この二人は想像で話をしているのだが、話すうちにそれが真実のように思いこみ始める。
悪意は増幅しあい、止まらなくなるのだ。
「トルリア王妃のくせに、トルリアの害にしかならない役立たずめ。おとなしく死んでいれば……」
ふと、ニキウスは言葉を切る。
そして、口元を歪め、笑みを作った。
「……トルリアの内情をしゃべりまくる女など、処分した方がいいに決まっている。最後に、元々の予定通りの役に立ってもらおう……あの獣男を引きずり落とすために」
彼は呼び鈴の紐を引き、やってきた使用人に命じた。
「もう一度、あの公爵の従者を呼び出せ」
エリュアがマルディガルにやってきてから、数ヶ月が過ぎていた。
今では、マルディガルとトルリアを友好の架け橋で繋ぐ役目を持ったエリュアが、マルディガルについて深く知ろうと学んでいるらしい、ということになっていた。
「そうでもなくては、こんなに長く滞在させていただいていたらおかしいですもの」
エリュアは言い、ランダに頼む。
「高等教育機関を視察させていただけないかしら? 私、マルディガルのことをもっと知りたいのは本当なの」
留学の形で教育機関に籍を置きたいくらいだったが、まだ揉め事が片づいていないため、視察の形にするしかない。
「もし……ニキウスが反省してくれて、私がトルリアに戻ったとしても、また同じことが起こらないように。知っておくのは、大事だと思います」
「わかった。手配しよう」
返事をしつつも、ランダは聞き返さずにはいられなかった。
「戻りたい気持ちが、まだ、あるんだな」
「私は、トルリアの王妃だから。慕ってくれる国民もいます。あの国でできること、まだあるはずなの」
エリュアは微笑んだ。
しかしランダには、その微笑みは力なく映った。
ランダとフォーシードが学んでいた大学は、都市国家マルディガルの中心部にあった。煉瓦づくりのどっしりした建物で、国内のみならず国外からも教師を招き、未来のマルディガルを率いる若者たちを育てている。
エリュアは、ランダやザクロなどの付き添いとともに、大講堂での授業を聴講し、図書館や史料館を見学した。大学は一般人も入れる場所なので、野次馬も外から遠巻きに見てはざわざわしている。
「エリュア、庭園も見てほしい。学生たちの憩いの場なんだ」
ランダに案内されて、一行は庭園に出た。
花時計を中心にベンチがあちこちに置かれ、学生たちが談笑したり、木の枝で地面に何か書きながら議論したりしている。こちらに気づいて立ち上がり、礼をする者もいた。
「ランダも懐かしいでしょうね。……?」
一瞬、エリュアが視線を動かし、また戻した。
「どうした、エリュア」
「また来ているわ、トルリアの公爵家の従者」
エリュアは扇で口元を隠し、ささやいた。背後でザクロが「あ……本当ですね」と反応する。
「離れているけど、外廊下の人たちの中にいる。私が出かけるたびに見張っているのかしら」
すると、ザクロがひっそりと指摘した。
「いえ。港の商談会の後、尾行しましたが、帰国したはずです。また来たんですね」
「何か用でもあるんだろうか。接触してくるかもしれないな、気をつけておこう。……さて、正門に向かおう」
煉瓦を敷き詰めた道を歩いていくと、途中で花壇にかがみ込んでいる男がいた。園芸用の手袋に作業服、脇の桶にはつみ取った雑草が入っている。
やはりこちらに気づいて、驚いた様子で立ち上がり、くまでを片手に帽子に手をやって頭を下げた。エリュアも礼を返し、横をゆっくりと通り過ぎる。
しかし。
男のくまでが、スッと持ち上げられ──
エリュアに向かって、振りかぶられた。
「あ」
「エリュア様!」
飛び出したザクロが、素早い身のこなしで身体を回転させ、男の手首を蹴り飛ばす。くまでが吹っ飛び、転がった。
「チッ」
舌打ちとともに、男のもう片方の手がエリュアに伸びたが、今度はそちらの手首がガッと捕まれる。
「ぐあっ!」
腕をひねり上げて地面に押し倒したのは、ランダだ。
はっ、とエリュアが振り向くと、さっき外廊下にいた公爵家の従者が急ぎ足で立ち去るところだった。
すぐに男は連行された。
執政公邸に戻ったエリュアの元に、夕方になってランダが戻ってくる。エリュアは、フォーシードとともに庭の天幕にいた。
「お帰りなさい、ランダ」
「エリュア、遅くなった。フォーシード、来ていたのか」
「ああ。恐ろしい目に遭った王妃様の、気を紛らわす話し相手にね」
エリュアと向かい合わせに座っていたフォーシードが、飲み物のグラスをトレイに置く。
「襲ってきたのは、トルリアの人間か?」
「いや、あの男は港で雇われた船員だった。詳しいことを何も知らない様子でな。しかし雇ったのは……どうやらトルリア人のようだ」
フォーシードの隣に座ったランダが説明すると、エリュアは強ばった顔で答える。
「船員を雇ったのは、あの従者でしょうね。手は下さなくとも、様子を見に来ていたんだし」
「ああ。実行犯はそいつから、くまでと手袋を渡されていた。どこかの庭先で襲撃しろと命じられ、機会をうかがっていたらしい。……手袋にも金属の爪が仕込まれていて、くまでともども、毒が塗ってあった。実行犯はそれも知らなかったらしい。傷をつけろと言われただけだと」
「それくらいなら、って引き受けたのか? くまでで殺すのは無茶だろ、と思ったら……そうか、毒か」
フォーシードが眉根を寄せると、エリュアが首を振る。
「くまでや、爪つきの手袋であることにも、意味があるんだと思う。……私の身体に、獣に襲われたような傷をつけたかったんでしょう」
「え」
目を見開いたフォーシードは、エリュアとランダを見比べた。そして不愉快そうに顔を歪める。
「そういうことかよ」
『生贄となったエリュア王妃は、獣に殺された』
当初、ニキウスが言い張っていたことである。
それを、真実にしようとした。本当にそんなふうにエリュアが死んだのだと、見せかけたかったのだ。
もちろん、実際の状況を見ていた者はそれなりにいたが、『身体に獣の傷が!』と言いふらされ広められたら、信じる者もいるはずだ。特に諸外国には、噂に背びれ尾びれがついて伝わっていくものだから。
デマは一度広まると、消すのが難しい。
「暗殺を命じたニキウス王、自分で手を下さずに暗殺を孫請けに出した従者、金ほしさに請け負った男。みんなクズだな」
吐き捨てるようにフォーシードが言うと、エリュアはうつむいた。その顔色を見て、フォーシードは少しバツが悪そうに立ち上がる。
「おっと、俺がいると王妃様の前で罵詈雑言並べてしまいそうだ。そろそろ失礼するよ」
「あ、フォーシードさん」
「次の航海はもう少し先だから、それまでにまた一度、船に遊びに来てください。ランダ、慰めて差し上げろよ。じゃあ!」
にかっ、と笑みを浮かべ、片手を上げてから、フォーシードは応接室を出ていった。
エリュアとランダは、二人きりになった。
「…………」
ランダは少しためらったものの、立ち上がった。大きな図体で、エリュアの横にそっとひざまずく。
「エリュア。大丈夫か? ……いや、すまない。大丈夫ではない、よな」
ランダがじっと見つめると、エリュアは重ねた自分の手を見つめながら、うっすら笑みを浮かべた。
「正直に言うと……予想していたのよ。ニキウスならやるかも、って。……でも」
緑の瞳がみるみる潤み、涙がこぼれ落ちる。
声が震えた。
「仮にも、夫婦だと思ってたのに。やっぱり……傷つくものね」
憧れの女性が、また、泣いている。夫にひどい目に遭わされて。
ランダの中に、溶岩のように熱い感情が渦巻いた。
気がつくと彼は、敷き詰められたクッションの上で、エリュアを抱きしめていた。




