第2話:はじめてのコード、はじめての声
赤木夏希の放課後は、どこか色を失っていた。
剣道部を辞めてから、時間だけがぽっかりと空いてしまったのだ。道着の代わりに制服姿のまま、教室の窓際に腰掛け、グラウンドを眺める。
(あの音が聞こえない……竹刀と竹刀がぶつかる、あの鋭い響き。私の毎日は、そこにあったのに)
虚しさを抱えたまま下校しようとしたとき、廊下の向こうから声が飛んできた。
「赤木さん、ちょっと!」
振り向けば、担任の真田沙耶が笑顔で立っていた。おっとりした表情だが、目元には妙な熱が宿っている。
「赤木さん、部活を辞めちゃったんだって?」
真田沙耶が声をかけてきたとき、夏希は一瞬ためらった。
「はい……まあ」
「実はね、軽音部がちょっとピンチで。ボーカルの子が転校しちゃって、ギターの子も受験に集中するって抜けちゃって……今は三人きりなの」
「へぇ……そういえば、クラスでそんな話、聞いたかも」
夏希の胸に、小さな引っかかりが生まれる。廊下ですれ違った青い髪の少女の姿と、なぜか音楽室の光景が頭の中で重なった。
「じゃあ、軽音部に来てみない?」
「え、け、軽音……ですか? 私が?」
唐突な誘いに、夏希は瞬きを繰り返す。音楽なんて授業以外で触れたことはない。
「ギター、持ったことある?」
「ないです!」
「大丈夫大丈夫! やればできる!」
(先生、軽すぎ……でも、このまま何もせず帰るのも嫌だな)
結局、沙耶に腕を引っ張られるようにして、夏希は軽音部の部室へと連れて行かれた。
扉を開けると、音の渦が一気に飛び込んでくる。
ベースの低音、ドラムのスティックがリズムを刻み、キーボードが軽やかに旋律を添える。その真ん中で、見覚えのある青い髪が揺れていた。
「……え?」
思わず声が漏れる。病院の廊下ですれ違った少女、青柳千夏が青いギターを抱えていた。
千夏も驚いたように目を見開き、すぐに落ち着いた笑みを浮かべる。
「君は……この前の」
「えっと……やっぱり同じ学校だったんだ」
場の空気を破るように、ベースを持った黒川颯太が割り込んでくる。
「おっ、新入りか? 赤木夏希さんだね! 俺は颯太、よろしく!」
人懐っこい笑顔に、夏希は少し気圧される。
続いて、ドラムの白井律が軽くスティックを回しながら会釈した。
「律。よろしく」短い言葉だが、冷静な雰囲気が頼もしい。
最後に、眼鏡をかけた葵岬が譜面を抱えながら近づいた。
「私は岬。音のことなら、何でも相談して」
(なんだろ、この三人……性格バラバラすぎる。でも、楽しそうだな)
沙耶は満足そうにうなずき、「じゃあ、せっかくだし弾いてみよっか!」と無邪気に提案する。
「ええっ!? 無理ですって!」
「心配しなくていいよ。千夏ちゃん、ちょっと教えてあげて」
「わかりました」千夏は微笑み、赤いギターを抱える夏希に青いギターを差し出した。
「左手で押さえて、右手で弾くんだよ」
「えっと、こう?」
「うん、でも指はこっちに……」
千夏の細い指が夏希の手の甲に触れる。ひんやりとした感触に、夏希は胸が跳ねた。
(な、なんか近い! 病院のときよりずっと近い!)
二人で構えたギターから、不揃いなコードが鳴る。
「……あれ、全然違う音になっちゃった」
夏希が苦笑すると、千夏も思わず吹き出した。
「でも、ちゃんと音になってるよ。最初はそんなもの」
「そっか……じゃあ、もう一回!」
再挑戦。だが、今度は逆に千夏が押さえ間違えてしまう。
「わっ、ごめん」
「ははっ、千夏ちゃんでも間違えるんだ」
「人間だもん」二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
部室に響いたその笑い声は、ベースの低音やドラムのリズムよりも鮮やかに、仲間たちの耳に残った。颯太がニヤニヤと囃し立てる。
「おお〜、いいじゃん! 息ぴったり!」
「ぴったりではないだろ」律が冷静に突っ込む。
「でも、悪くない組み合わせだね」岬は眼鏡の奥で優しく笑った。
練習が終わるころ、夏希は額の汗を拭いながら深呼吸した。
(声を合わせるって、こんなに難しいんだ……でも、不思議と楽しい)
千夏はギターを抱えたまま、そっと夏希を見つめる。
(この子となら、何かが始まる気がする。怪我で失ったものとは違う、新しい音が)
春の夕陽が窓から差し込み、赤と青の二人を包み込んでいた。
まだ拙い音しか出せない。けれど、この瞬間から二人の音は確かに始まっていた。




