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第17話:未完成の青藍色

 『赤と青』で特別アンコールを駆け抜け、袖に戻った瞬間だった。


 抑えきれない歓声が、さっきよりもさらに大きく膨れあがって押し寄せてくる。スタッフが目を丸くし、モニターのレベルメーターが振り切れたまま戻らない。


「……まだ、終わらせてくれないみたいだな」

 玲央が笑う。声は軽いが、目つきは真剣だった。


 夏希はギターを抱え直し、肩で息をしながら客席のざわめきを見えないまま感じていた。

(どうしよう……持ち曲、まだあるけど……)


 頭に浮かぶのは『十七歳の地図』と『初恋レゾナンス』。どちらも大切で、もう一段ギアを上げられる切り札だ。けれど——。


「お前ら、あの声に、全力で“どう応える”?」

 玲央の問いが、胸の真ん中に落ちた。


 颯太がタオルで汗を拭いながら、おどけるのをやめた顔で二人を見る。律はスティックを握り直し、岬はキーボードのスタンドを微調整する。


 千夏は、一度だけ深く息を吸って、前を向いた。

「……ナッキーにも、まだ聴かせてない曲があるの」


「えっ」夏希の目が丸くなる。


「未完成。でも、いま、ここで歌いたい」


「えええっ!?」楽器隊の三人と沙耶先生の声がハモった。


 玲央は口角を上げる。

「いい。面白い。未完成を出すってことは、いまを全部賭けるってことだ。やる勇気、あるか?」


「あります。みんなと、ナッキーとなら」

 千夏の声は震えていなかった。

(わたし次第。いま、ここで踏み出す)と心の中で噛み締める。


 夏希は一瞬だけ唇を噛み、それから勢いよく頷いた。

「千夏ちゃんが行くなら、あたしはどこまでも合わせる!」


  空気が一気に引き締まる。袖の片隅が、即席のリハーサルスペースになった。


「テンポは体感でミドル(ハーフタイムのバラード感)。最初はギターのアルペジオだけで入る。I–V–vi系(たとえば……G–D–Em)のニュアンスで、土台は柔らかく」


 千夏が小さく爪弾く。海の底に光が差すような、静かな音が広がった。


「律くん、ブラシか、軽いリムショットでスネアを“シャッ、シャッ”。ハイハットはクローズで8分、薄く。音量は歌とギターを邪魔しないくらい」


「了解」律はブラシを取り出し、膝でリズムを刻んで確認する。


「颯太くん、ベースはルート中心。音数は絞って、低域でステイ。2番の後半からオクターブで持ち上げて、サビ前に少し体温を上げよう」


「オッケ」颯太は親指で空を弾き、頷く。


「岬ちゃん、パッドは最初“トニック/ミディアントの単音”で空気を敷く。サビから薄いトライアドを重ねて。ベロシティ控えめで、あくまで景色」


「はい」岬が音色を切り替える。神社の風鈴みたいに、透明な響きが返ってきた。


「ナッキーは——」


「主旋に3度上、または6度下で寄り添う。ブリッジはユニゾンで一度まっすぐに」


 言葉が揃う。夏希は自分でも驚くほど自然に返していた。

(大丈夫。千夏ちゃんの言葉は、あたしの中で最初から地図みたいにわかる)


 袖から客席のコールがまた高まる。照明チーフが手早く色を調整し、ステージに深い群青と紫のグラデーションが落ちた。


 玲央が顎で合図する。

「行ってこい。いまの“赤と青”を、全部だ」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑う。

(行こう、千夏ちゃん)

(行こう、ナッキー)


 舞台に一歩踏み出すと、観客のざわめきが吸い込まれるように静まっていった。

 千夏がセンター左、夏希が右。左右の立ち位置は出会いの日の“鏡合わせ”そのまま。


「まだ完成していない新曲なんですけど、聴いてもらえますか?」


「うおおおおお——!」

もはや地鳴りのような歓声が巻き起こる。


「聴いてください! 青藍色!」

 千夏はピックではなく指先で、最初の弦に触れる。

 爪と弦が触れる音が、砂浜に落ちる波の泡みたいに、かすかに、確かに広がった。

 青いスポットの中で、千夏の声が立ち上がる。



【青藍色】 作詞・作曲:青柳千夏 編曲:赤と青


ひとりきりの 青 揺れていた日々

君の笑顔が 光をくれた

何度も染まり 深くなる色

触れた心が 未来を描く


言葉よりも 強く響く

Bluer than before, I’ve found my true self


青藍色に 変わってゆくの

あなたの優しさ 抱きしめながら

青を越えて 藍に染まる

美しい装い 君がくれた


迷いを隠して 笑っていたね

隣にいるだけで 勇気になった

「ありがとう」より 大事なこと

声にしなくても 届いてるから


重ねた音が 明日を呼ぶ

Your color in me, forever true


紫がかった 明るい藍に

私の心を 染め上げてく

“あなた次第”と 思っていたけど

気づいた今は 私次第


青藍色に 溶け合いながら

新しい自分に 歩き出すよ

青を越えて 藍に変わる

Bluer than before, I’ve found my true self


Resonance of hearts, guiding me…

Not just you, but me, I believe


青藍色に 輝く空へ

二人で描いた 青春の地図

ありがとう そしてさよならじゃない

This is my voice, my future light


青藍色……わたし次第



 ひとりきりの青で揺れていた日々——そんなイメージが、言葉の形をとって観客の胸に降りていく。

 「あなた次第」と思っていた過去が、「わたし次第」に変わっていく——歌は、意志の色が変わる瞬間をそっとなぞっていた。


 律のブラシが砂を掃く音で寄り添い、颯太の低音が心拍のように足元を支える。岬のパッドが夕凪の空気を広げ、夏希の三度ハーモニーが、千夏の声に淡い光を差し込む。

(ナッキー、ありがとう)


 千夏は歌いながら思う。

(あなたと出会って、私の青は、藍に変わった)


 夏希は、弾く指先がじんわりと熱くなるのを感じていた。

(千夏ちゃん……こんなの、反則だよ)


 涙がこぼれそうになるのを笑顔で押し戻し、声で支える。

(いまの千夏ちゃんを、全部、受け止めたい)


 サビに入ると、照明が紫がかった藍色で二人を包む。赤と青のスポットが混じり合い、新しい色がステージに生まれた。


 バラード特有の静けさが、会場全体に満ちる。誰も声を出さない。スマホを構える手も、息を潜める。

 波音のようなブラシがやさしく消え、最後のフレーズに二人の声が重なって——。


 音が止まった。


 一拍の静寂。


 空気が震える。


 そして——。

「おおおおおお——!」

 どよめきが、嵐のように巻き起こった。


 割れるような拍手と歓声。中には顔を覆って泣いている観客もいる。肩を抱き合っている子たちもいる。

「やば……」

「キタ」

「今の……反則だろ」


 夏希は、泣き笑いのまま千夏を見た。抱きしめてしまいそうになる衝動を、ギターのネックをぎゅっと握ることで堪える。

(ズルいよ、千夏ちゃん。こんな宝物、隠してたなんて)


 千夏は客席に一礼し、横目で夏希を見る。

(未完成で、よかった。だって——一緒に、これからを描けるから)


 「わたし次第」。その言葉が、心の内側で静かに輝いた。


 袖で玲央が、ゆっくりと手を打った。

「……想像以上。未完成が、一番強い」


 沙耶先生はハンカチで目元を押さえながら、小さく頷く。

「最高……」


 拍手はいつまでも鳴り止まない。

 二人はステージ中央に歩み寄り、少しだけ近づいて立った。指先が触れるか触れないかの距離。


 マイクはまだ上げない。言葉はいらない。

 観客の拍手が、二人の沈黙をやさしく包む。

(まだ終わらない。終わらせない)

(未完成のまま、一緒に進もう)


 藍色の照明の下で、赤と青は新しい色を手に入れた。


 そしてステージの空気は、次の瞬間——千夏と夏希の声を聞いた。


 「私たちも、まだ未完成です!」


 その宣言の予感だけを残して、二人は静かに目を合わせ、笑った。

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