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第1話:廊下で交わる左右の傷

 春の午後、汐ヶ崎市立病院の廊下には柔らかな日差しが差し込んでいた。


 窓の外には新緑が風に揺れ、病院の中庭にうららかな日差しが漂っているのに、それに混ざって漂う消毒液の匂いが、2人を現実に引き戻す。どこか乾いた空気の中で、規則正しく鳴る点滴の機械音が小さなリズムを刻んでいた。


 赤木夏希は、リハビリ室から出てきて額の汗を拭った。右足首にはまだテーピングが巻かれていて、一歩ごとにわずかな痛みが走る。


「もう剣道は無理かもしれない」——さっき理学療法士に言われた言葉が、頭から離れなかった。


(中学からずっと続けてきたのに……あの竹刀を振る音が、もう自分のものじゃないなんて)


 唇を噛み、明るく振る舞う癖で笑顔をつくるが、それは誰に向けたものでもなかった。


 一方、廊下の反対側では、青柳千夏が待合椅子から立ち上がった。制服のスカートが揺れ、青い髪が肩で光を受けて透ける。左足にはしっかりとしたサポーター。彼女は一歩踏み出すたびに重さを感じ、自然と眉根が寄った。


(バスケ……コートの匂い、仲間の声、あの瞬間の全部が遠ざかっていく。私……もう走れないのかな)


 誰にも弱音を吐けない。だからこそ、心の奥でひそかに叫ぶしかなかった。


 ——その時だった。


 角を曲がった先で、二人の姿が重なる。

 右足をかばう少女と、左足をかばう少女。引きずる足が反対で、まるで合わせ鏡のようだった。


「……あ」


 思わず声が漏れる。夏希が顔を上げると、そこにいたのは、涼しげな目元の同年代の少女だった。

 千夏もまた驚いたように立ち止まり、互いに視線が絡む。窓から差し込む光が二人を挟み、足元の影まで左右対称に落ちていた。


「君も……怪我?」夏希が先に口を開いた。明るい調子を装った声。


「うん。左足、バスケで」千夏は控えめに答える。


「私は右足、剣道でさ。……なんか、すごい偶然だね」


「……そうだね」


 短い会話だった。けれど、互いの言葉の奥に、似た痛みを感じ取っていた。


(右と左。まるで、足りない半分を映すみたい)千夏は心の中でつぶやく。


(この子、笑ってるけど……私と同じだ。本当は泣きたいくせに)夏希もまた、相手の瞳を覗き込み、胸がざわめくのを感じた。


 ふと廊下の先から看護師の呼ぶ声が響く。

「赤木夏希さーん」

「青柳千夏さーん」

 名前を呼ばれ、二人ははっと顔を上げた。


(千夏……“夏”の字、私と同じ)夏希は一瞬だけ心を弾ませる。

(赤木……夏希って確か……どこかで)千夏はかすかな記憶を探った。


 別れ際、言葉はなかった。

 けれど、夏希は(誰、このひと……制服はうちと同じだ……可愛い) と心の中でつぶやき、千夏は彼女のすれ違いざまのシャンプーの香りに(あれ……いい匂い)と思わず感じた。


 その小さな反応だけが、二人の胸に不思議な余韻として残った。

 二人の足音が、廊下に響く。


 右足をかばう音と、左足をかばう音。それは不揃いなのに、不思議とリズムのように交差していく。

(あの子も、私と同じで前に進めなくなってる。でも……歩いてる)千夏は心の奥で呟いた。


(もう一度走りたい。竹刀を握れなくても、何かを掴みたい)夏希は歯を食いしばり、背筋を伸ばす。


 病院の自動ドアを抜けると、外は春の風が吹いていた。海の匂いがほんのり混じり、制服の袖を揺らす。夏希は右足を庇いながら歩き出し、千夏は左足を確かめるように踏みしめる。互いに別々の道へ向かうのに、同じ午後の光が二人の背中を照らしていた。


 その左右の足音は、未来でひとつの共鳴へと変わっていく。


 ——今はただ、不完全なリズムとして、春の空気に溶けていた。


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