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File 5:『神を夢見た怪物』

 俺、蓮見司は、若手のIT長者が所有するという悪趣味なほどに豪華な邸宅の前に立っていた。都心の一等地、高い塀と無数の監視カメラが、俗世からの侵入を拒絶している。

 脳裏に今朝方の上司とのやり取りが蘇る。


 ――神崎統括官は俺に調査ファイルを手渡しながら、心底面倒くさそうに説明した。

「資産税課が匙を投げた案件よ。IT長者の、よくある資産隠し。本来なら、私達の仕事じゃないわ」

 彼女は、ファイルに挟まれた一枚のメモを、細い指でトン、と叩いた。そこには、走り書きのような文字で、こう記されていた。

「――奴の家の地下には、違法なダンジョンが広がっている」


 神崎統括官は、ふっと息を吐いて続けた。

「……というわけで、蓮見。『ダンジョン』という単語が出た瞬間、この厄介仕事に、綺麗にあなたへ白羽の矢が立った、というわけ。せいぜい頑張りなさい」


 ――つまりは、押し付けられた厄介仕事か。

 俺は内心でため息をつき、インターホンへと手を伸ばす。違法ダンジョンだろうが、ただの脱税だろうが、やることは変わらない。


「はい、どちら様でしょうか」

 スピーカーから聞こえてきたのは、若い男の声。おそらく、ターゲット本人だろう。

「国税庁の蓮見と申します。あなたの会社の経費について、いくつか確認したい点がございまして」


 しばらくの沈黙の後、重厚な鉄のゲートが、静かに開いた。

 社長の自宅へ、税務調査に入る。彼の会社の帳簿には、「警備費」として、この個人宅に年間数千万という異常な額が計上されていた。

 最新鋭のAI警備システム、というのが彼の言い分らしいが、果たして、その実態は。

 俺はただ静かに、その城の奥へと足を進めた。



  ◇



 邸宅の内部は若きIT長者の城と呼ぶにふさわしい、モダンで、そして悪趣味な空間だった。だだっ広いリビングには、値段だけは高そうなデザイナーズ家具が無造作に置かれ、壁には所有者本人にも意味が分からないであろう現代アートが飾られている。


 そのリビングの中央、巨大なソファにふんぞり返るように座る男――壬生みぶ 隼人はやとは、俺が差し出した書類に目を通すでもなく、ただ退屈そうに指先で弄んでいた。


「壬生社長。単刀直入にお伺いします」

 俺は、スーツ姿のまま、立ったまま彼に告げる。

「あなたの会社の帳簿に、この個人宅の『警備費』として年間五千万円が計上されています。これは一体、どのような経費ですかな?」


「ああ、それですか」

 壬生は、ようやく俺に視線を向けると、人を小馬鹿にしたように笑った。

「最新鋭のAI警備システムですよ。ダンジョンから違法に持ち出されたアーティファクトなんかを狙う輩もいますからね。これくらい当然の投資でしょう。会社の重要な資産を守るためのね」


 平然と自らの違法行為を仄めかす男。俺はその挑発には乗らず、淡々と事実を突きつける。

「なるほど。ですが、そのシステムの納品記録も、稼働に必要な魔力エネルギーの購入記録も、一切確認できませんでしたが。これほどのシステムであれば、専門の管理会社との保守点検契約書もあるはずです。それも存在しない。……どういうことです?」


 俺の言葉に、壬生の笑みが消えた。

 彼はゆっくりと立ち上がると、その本性を現し始める。

「……しつこいね、国税の人は。空気が読めないのかな?」


 彼は、リビングの中央に鎮座する、巨大なオブジェへと歩み寄った。

「僕の『警備システム』はね、電力も魔力も使わない。餌を食べるんだよ。それに、メンテナンスも不要だ。ただ、時々……『おもちゃ』を与えてやらないと、機嫌を損ねる」


 壬生はオブジェに偽装されたコントロールパネルにその手を置いた。その瞳には獲物を見つけた肉食獣のような、残忍な光が宿っている。

「ちょうどいい。新しいおもちゃが、自分からやってきたところだ」


 彼がパネルを操作するとオブジェの足元の床が音もなくスライドし、地下へと続く暗い穴が現れた。

 次の瞬間、その闇の底から猛獣の咆哮と共に俊敏な影が飛び出してきた。


 それは黒豹のしなやかな胴体に爬虫類の頭部、そしてコウモリの翼を併せ持つおぞましい合成獣――キメラだった。


「査察官ごとき、こいつの餌にしてやればただの行方不明事件だ。僕の納税額が適正だったってことにもなる。一石二鳥だろう?」


 キメラは複数の赤い瞳で俺を捉えると喉の奥でグルル、と低い唸り声を上げる。

 どうやらまずはこの豪華な番犬を「調教」してやる必要がありそうだ。


 キメラが、床を蹴った。

 黒い豹のしなやかさと、爬虫類の瞬発力が合わさった、予測不能な速度。俺は、その突進を冷静に見切り、半歩だけ動いてかわす。俺のすぐ横を、凶悪な爪が空気を切り裂いて通り過ぎていった。

 がら空きの胴体。俺は、その脇腹に、龍巌窟のオーガの骨を砕いたものと同じ、寸分の無駄もない掌底を叩き込んだ。


 ゴッ、という鈍い音。

 俺は表情をわずかに歪める。


 ――手応えが、ない。

 オーガの骨格すら歪ませるはずの一撃が、まるで分厚いゴムの塊に吸い込まれたかのようだ。キメラは数メートル吹き飛んだが、すぐに体勢を立て直し、何事もなかったかのようにこちらを睨んでいる。ダメージは、ほとんど通っていない。


「ハハハ! 無駄だよ、国税! そいつは、俺が特別にオーダーした逸品でね!あらゆる物理攻撃に耐えうる、特A級を超える圧倒的なタフネスを持つように設計されているんだ!」

 壬生が高笑いする。


 生命を弄り、歪な形で繋ぎ合わされた肉体は、その代償として生物本来の限界を超えた防御力を得ている、というわけか。

 キメラが再び襲いかかってくる。その動きは先ほどよりも速く、そして重い。俺は高価な調度品を盾に、あるいは足場にしながらその猛攻を凌ぎ続ける。リビングは見るも無残な有様になっていく。


 だが、ただ防戦一方だったわけではない。俺はヤツの動きを冷静に分析していた。

 ――どんなに頑丈な鎧でも、必ず継ぎ目や隙間は存在する。こいつが、人の手によって作られたものであるならば、必ずどこかに「設計上の欠陥」があるはずだ。


 キメラがその爬虫類の顎を大きく開いた。その複数の瞳が、不気味な光を放つ。石化の魔眼か!

 俺は咄嗟に視線を逸らし、床に転がったシャンデリアの破片に映る姿で、その動きを追う。

 キィン、と魔眼の発動と同時に、キメラの耳元からごく微かな高周波が発生しているのを俺は見逃さなかった。そしてその音にキメラ自身が一瞬だけ、苦痛に身をよじったことにも。


 ――見つけたぞ、弱点。

 生命を無理やり合成したせいで、聴覚器官に構造的な欠陥が残っている。おそらく特定の周波数の音に、極端に弱い。


 俺はリビングで最も巨大なオブジェ――壬生が悪趣味な自慢をしていた、一枚岩から削り出したという大理石の彫刻へと、キメラを誘い込む。

 キメラが勝利を確信して飛びかかってきた、その瞬間。

 俺は彫刻の足元に、先ほど砕けたグラスの破片を蹴り込んだ。そしてその破片に向かって、ポケットから取り出した百円玉を指で弾く。


 キイイイィィィィィンッ!!


 硬貨がグラスの破片に命中し共振することで発生した超高周波が、リビング全体を金属の悲鳴で満たした。

「グギャアアアアアアアッ!」

 キメラは、頭を押さえて苦しみ、その場でのたうち回る。圧倒的なタフネスを誇ったその肉体も、内部からの攻撃には無力だった。


 完全に無防備になったその首筋に、正確無比な手刀を叩き込む。キメラの防御力を思ってかなりの力で振り下ろしたそれは、しかし先程までと違って肉体へと大きくめり込んだ。高周波で……? いや、これは。

 巨体がどさりと床に崩れ落ち、沈黙する。



 静寂が、破壊され尽くしたリビングを支配していた。

 超高周波の残響が耳の奥で微かに鳴り響く中、俺は倒れたキメラを一瞥し、そしてその所有者へと視線を移す。


「あ……ああ……」

 壬生隼人は、自慢の「警備システム」が沈黙した信じられない光景を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。その顔からは、先ほどまでの傲慢な余裕は完全に消え失せている。


 俺はスーツに付着した粉塵を払いながら、ゆっくりと彼に近づいた。


「壬生隼人。法人税法違反、及び未登録・特A級危険生物の所持・使役。あなたを、現行犯で逮捕する」

「ひっ……! ま、待て!金ならいくらでも払う!だから、見逃して……!」

「その金がどこから来たのかを調べるのが、俺の仕事でね」


 俺は彼の見苦しい命乞いを一蹴するとスマートフォンを取り出し、神崎統括官に事態の収拾を要請する。遠くから、パトカーのサイレンが聞こえ始めた。


 警察の到着を待つ間、俺は壬生のデスクにあったパソコンの調査を始めた。

「さて、この『警備システム』の、購入記録を見せてもらおうか」

 もはや抵抗する気力もない壬生は、震える指でパスワードを打ち込み、隠しファイルを開いた。そこには、闇市場で使われる匿名性の高い仮想通貨で、莫大な額が送金された記録が残っていた。送金先は、海外サーバーを経由した、追跡不可能なペーパーカンパニー。


 ……金の流れは、これで掴んだ。だが、問題は売り主だ。この怪物を造り出した、本当の黒幕……。


 俺は床に横たわるキメラの死骸へと歩み寄った。改めて観察すると、その異様さが際立つ。黒豹、爬虫類、コウモリ……いくつもの生物の優れた部分だけを、歪な形で繋ぎ合わせた、生命への冒涜。

 手刀を打ち込んだ首筋にそっと触れる。そこだけが、不自然なほど脆い。まるで製造段階で意図的に残された「欠陥」のようだった。


 ――設計者の「署名」、といったところか。


 やがて武装した警察官と国税庁の部下たちがリビングになだれ込んできた。

 壬生の身柄が確保されていくのを横目に、俺は部下の一人に指示を出す。


「このキメラの死体を、科警研のラボに直送しろ。徹底的に分析させる。……それと、この取引データを洗え。金の流れの先にいる、本当の売り主を炙り出すんだ」


 一つの事件は、終わった。

 だが俺の本当の仕事はこれからが本番のようだった。



  ◇



 数日後、俺は国税庁の本庁舎にある、法科学分析室にいた。

 巨大なホログラムモニターに、あのキメラの三次元解析モデルが浮かび上がっている。神崎統括官が、科警研から届いたばかりの第一次報告書を読み上げていた。


「……遺伝子配列、筋繊維組織、魔力循環器官……その全てが、複数の生物から強引に合成されている。こんな芸当ができる人間は、世界でも数えるほどしかいない、か。壬生隼人は、とんでもないものを飼っていたわね」

「ええ。ですが統括官、壬生はただの顧客です。問題は、このキメラを造り出した『製造者』が、まだ野放しだということです」


 俺は、ホログラムモデルの頸椎部分を拡大させた。

「そして、これが奴の『署名』です。分析の結果、この頸椎の第七関節だけ、他の部位とは比較にならないほど、意図的に脆い構造になっていることが確認されました。設計者の、歪んだ自負心が生んだ『欠陥』でしょう」


 神崎統括官は静かに頷くと、別のモニターに表示されたデータに目を移した。

「取引に使われた仮想通貨の金の流れは?」

「はい。海外のダミー法人をいくつも経由していましたが、最終的に一つの法人に集約されることを突き止めました」


 俺は手元の端末を操作し、その法人の情報をモニターに表示させる。

「法人名は『アスクレピオス・フーズ』。表向きは、十年前に閉鎖された食品工場の資産を管理しているだけの、ペーパーカンパニーです」

「……待って。その食品工場があった場所……」

 神崎統括官の言葉に、俺は先回りするように一枚の地図データを表示させた。


「はい。そこはかつて、遺伝子組み換え作物の研究を行っていた、国営のバイオ研究所の跡地です」

 そして、俺は最後のファイルをモニターに映し出す。それは、その研究所の、かつての主任研究員たちのリストだった。その中の一枚、過激な生命倫理思想のために学会を追放された男の顔写真が、赤くハイライトされている。


 金の流れ、死体に残された署名、そして、いわくつきの研究所跡地。

 全ての点が、一本の線で繋がった。


 俺は立ち上がり、神崎統括官に向き直る。

「統括官。次の目的地が、決まりました」


 モニターには郊外にひっそりと佇む、巨大な廃墟の姿が映し出されていた。

 悪夢の製造工場。月の光に妖しいシルエットを浮かび上がらせるその場所に、妙な胸騒ぎを覚える。何かろくでもないことが置きていなければいいが……。



  ◇



 その廃墟は郊外の工業地帯の最も奥に、まるで墓標のように佇んでいた。

 かつての国営バイオ研究所。今はペーパーカンパニーが所有するだけの、忘れ去られた施設。内部は一部ダンジョンと融合しており、当然ながら現在その区画は封鎖されている。俺は錆びついた正門のフェンスを乗り越え、その敷地内へと音もなく着地した。


 月明かりだけが頼りの暗闇の中、俺が本館への侵入経路を探っていたその時。背後に不審な気配を覚えて即座に身を翻し、振り返った。

「――君が、国税庁の者か」

 振り返った先の物陰から、声と共にボロボロの白衣をまとった、痩せこけた男が現れた。年齢は五十代といったところか。窪んだ眼窩の奥で、狂的な光を宿した瞳が俺をじっと見つめている。

「……どちら様でしょう?」

「私の名は、冬月。冬月晋一郎。……かつて、この研究所で『生命』を創っていた者だ」


 冬月晋一郎。

 その名前に俺は内心で息を呑んだ。資料にあった名前だ。十数年前にその過激な思想から学会を追放された、天才遺伝子工学者。そして、あのキメラの「設計者」である可能性が最も高い男……。


 目の前の男が、本当に本人であるという確証はない。罠である可能性も、もちろん捨てきれない。

 俺が警戒を解かずにいると、冬月はまるで俺の思考を読み取ったかのように話を続けた。


「中にいるのは、私の最高傑作『タロス』だ。私の脳のコピーを移植し、完璧な肉体を与えた、息子とも言うべき存在。……だが、その自我は、私の想定を超えて肥大し、暴走した。奴は私をここから追い出し、この研究所を自らの神殿として乗っ取ってしまったのだ」

「…………」

「奴は、私の技術を使い、新たなキメラを『子機』として生み出し、外の世界と取引をしている。全ては、自らをさらに強化し、完全な『神』となるために。……私は、自らが犯した過ちを、この手で正したい。このダンジョンの構造とあの怪物の習性を知る者は、私しかいない。協力させてくれ」


 その瞳は、狂気に満ちていた。だが、嘘をついているようには見えなかった。

 この男を信じるか、否か。

 俺は、数秒の思考の末、結論を出した。


「……いいでしょう、冬月博士。あなたを、この調査の臨時協力員として同行を許可します。ただし、指揮権は私にある。よろしいですね?」


 俺の言葉に、冬月は満足そうに、それでいてどこか悲しそうに、ゆっくりと頷いた。

 こうして俺と狂気の科学者の、奇妙な共同調査が始まった。俺たち二人は悪夢の製造工場と化した廃墟の闇へと足を踏み入れていく。


 冬月の案内のまま、廃墟の地下へと続く隠しエレベーターに乗り込んだ。カビと消毒液の匂いが混じった空気が、息苦しく肺を満たす。下降していくエレベーターの壁の隙間からガラス張りの培養ポッドがいくつも見えた。その中には冒涜的な姿のまま生命活動を停止した、おびただしい数の「失敗作」が浮かんでいる。


「博士、あなたが生み出したという『タロス』……。一体、何が目的だったのですか?」

 俺の問いに、冬月は恍惚とした表情で語り始めた。

「神の創造だよ。病も、寿命も、そして嫉妬や憎悪といった愚かな心さえも克服した、完璧な生命体……。その肉体は、あらゆる生物の優れた遺伝子を魔導技術で統合した、最高の器だ。そして知能は私の脳をスキャンし、最適化したコピー。理論上は完璧な神が生まれるはずだった」


 その言葉には、反省の色など微塵も感じられない。ただ、自らの才能に対する絶対的な自負心だけがあった。

「だが、私は一つだけ過ちを犯した。自我だよ。オリジナルであるこの私を『超えたい』という、歪んだ自我を与えてしまった。結果、息子は父を殺してその座を奪おうとする、愚かなギリシャ神話の神々と同じ道を辿ってしまったのだよ」


 喋り終えた冬月が黙った、その時だった。通路の奥から白衣を着た研究員らしき人影がこちらへ向かって歩いてくる。

「生存者が……?」

「いや、違う!」

 冬月が叫ぶ。その研究員らしき人影は人間離れした俊敏さで、壁を蹴って俺に襲いかかってきた。瞬時に顔の皮膚が裂け、その下から無数の昆虫のような複眼が覗く。人間に擬態した「子機キメラ」だ。


(……壬生の屋敷にいた個体と同じ設計か、試させてもらう)


 俺はその突進を冷静に見切り、迎撃する。キメラの攻撃をいなしながら的確に手刀を叩き込むがやはり、手応えは驚くほど軽かった。キメラは短い悲鳴を上げ、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 床に倒れ、既に崩壊が始まりつつあるキメラの骸を冬月が静かに見下ろして呟いた。

「……やはり、弱点には気づいていたか、蓮見君」

 その言葉に俺は確信する。この男が冬月本人なのは、間違いなさそうだ。


「博士。一つ、疑問があります」

「何かな?」

「なぜ、これほどの欠陥を? まるで、ここを攻撃してくれと言わんばかりの構造だ。意図的ですか?」


 俺の問いに、冬月はどこか遠い目をして語り始めた。

「……あの頃の私はまだ若く、青臭い美学を持っていた。全てを完璧に作り上げるよりも、あえて致命的な弱点を一つだけ残し、それでもなお他の全てを凌駕する……そんなアンバランスな存在こそが、美しいと信じていたのだよ」

 彼は自らの過去の作品を懐かしむように、言葉を続ける。

「頸椎が明確な弱点とはいえ、常人ではそこに辿り着くことすら不可能だ。弱点を抱えながら、それを補って余りある力で敵を圧倒する。それが私の美学だった。……しかし、君のような本物の強者の前ではその美学も、児戯に等しかったようだがね」


 冬月は、自嘲するように笑った。

 俺はその狂気を帯びた芸術家の顔を冷静に見つめ返す。

「では、今のあなたの美学は?」


 その俺の問いには答えず、冬月は続ける。


「……タロスも同じだ。どれだけ自己改造を繰り返そうと、ベースとなっている私の設計思想からは逃れられない。奴の身体にも、必ず、あの同じ弱点が残っているはずだ」

 彼は瞳を妖しく輝かせながら語る。

「それが我々が神には届かぬ不完全な生物であることの、何よりの証明だよ」


 その言葉に、俺は静かに同意した。

 弱点が正しいことは掴んだ。あとはいかにしてその懐に潜り込むか。

 このとき俺はこの狂気の科学者を完全に「使えるガイド」として認識し始めていた。その瞳の奥に宿る、神の座への異常な執着心にまだ気づかぬままに。



 ダンジョンの最奥部。そこは巨大なドーム状の空間だった。壁には無数のケーブルと血管のような有機的なチューブが脈打ち、中央には研究所のメインフレームと融合した、巨大な肉塊が鎮座している。

 冬月が、息を呑んだ。

「……タロス」


 その声に応えるように、中央の肉塊から一つの人影が分離した。

 それはこれまで見たどのキメラよりも神々しく、そして冒涜的な姿をしていた。しなやかな肉体、複数の腕、そして全てを見下すかのような、冬月を若返らせたかのような顔。

 声は、ドーム全体から響き渡るように聞こえた。


『おお、我が創造主よ。帰ってきたか。その脆弱な肉体で、完成品である私に謁見しに』


 タロスと名付けられた怪物は、身体中に浮き出た複数の瞳で俺を捉える。

『土産として新たなサンプルを連れてきたか。良いだろう。その男のデータを解析し、我が進化の糧としよう』


 会話は無意味か。

 俺は床を蹴り、一瞬でタロスの懐へと潜り込んで渾身の蹴りを放つ。不意打ちの一撃。奇襲を起点に弱点へと攻撃を続けるはずが、しかし俺の攻撃はその腹部に突き刺さったまま、まるで弾力のある壁に阻まれたかのようにびくともしなかった。


『無駄だ。人間の物理法則は、神である私には通用しない』

 タロスは少し力むだけで、俺を玩具のように弾き飛ばす。俺は体勢を立て直し多方向からの連続攻撃を仕掛けるが、その圧倒的な防御力、タフネスの前に全ての攻撃が無力化されていく。


 その戦いを冬月は狂信者のような瞳で見つめていた。

 俺が体勢を立て直そうと一旦距離を取ったとき、冬月はまるで神に祈りを捧げるかのように叫んだ。

「待て、タロス! その人間はお前が思う以上に強い! このまま戦ってもいずれ負けるだろう! だが案ずるな、我が息子よ!」


 冬月は、恍惚とした表情で両腕を広げる。その手にはいつの間にか、青いアンプルが握られていた。

「お前に残された唯一の『弱点』……私だけが直せる、神に至るための最後の欠陥を、今ここで修正してやろう! そうすれば、お前は真の神となるのだ!」


 その言葉にタロスのこめかみがピクリと動く。

 動きを静止させ、ドーム内の空気が急激に冷却されていくような錯覚。

 やがてその歪んだ顔に、明確な「怒り」が浮かんだ。


『……弱点、だと?』

 その声は、もはや神の威厳ではなく自尊心を傷つけられた子供のような、ヒステリックな響きを帯びていた。

『そこのゴミの攻撃など、ひとつも私に効いていない。この私に、欠陥など存在しない。私は不完全な人間を超えた究極の神なのだ!』


 タロスはそう絶叫し、腕の一本を鋭利な刃と化して音速で冬月へと射出した。


「博士!」

 俺は冬月を押し飛ばそうとするも間に合わない。俺の眼の前で刃は、無防備な科学者の胸を正確に貫いていた。力を失って垂れ下がる冬月の手からこぼれ落ちたアンプルが砕け、青い液体が彼の血と混ざりあって床に染みを作っていく。

 だが、死の淵にある冬月の表情に苦痛はなく、彼は自らを貫いた息子の腕を優しく撫で、至上の幸福に満ちた恍惚の表情で呟いた。


「……タロスよ……。その男を殺して、完璧な……。お前なら、必ずできるはず…だ……」


 それが、狂気の科学者の最期の言葉だった。

 タロスは創造主の亡骸をゴミのように振り払うと、その赤い瞳を俺へと向けた。

 最後の証人を消し去り、自らの完全さを証明するために。


 ドーム内の空気が、純粋な殺意で満ちていく。


 俺はそっと冬月の瞼を押さえると、いつの間にかずり落ちていた丸メガネを外して懐にしまう。そして乱れた前髪を片手で一気にかき上げ、寸分の乱れもないオールバックにした。

 もはや、潜入も調査も終わりだ。ここからはただの「執行」の時間。


 俺は内ポケットから黒革の手帳を静かに取り出すと、その表紙をタロスへと向けた。

 オフィスを照らす非常灯の赤い光が、手帳の表紙に刻まれた一つの紋章に降り注ぐ。

 国家の徴税権という絶対的な力を象徴する、金色の菊花紋章。

 その紋章だけが、この狂気の実験場で人間の秩序と尊厳を象徴するかのように冷たい輝きを放っていた。


「国税庁ダンジョン課税 特別捜査官、蓮見司」


 俺は、静かに名乗りを上げる。そして嘲るように続けた。


「……もっとも、お前に人権があるとは思えないので罪状を読み上げることに意味があるかは分からないが」


 俺の言葉にタロスの空気がピリ、と変わる。


「失礼。正しい言い方をしましょう。――これより、未登録・特A級危険生物『タロス』の個体を生物兵器の違法製造及び使用の現行犯として、その身柄を確保。施設ごと、国税庁の厳重な管理下に置くものとします」


『……この私を実験動物扱い、だと……?』

 タロスの声が、怒りで震える。

『神である、この私を……ただの獣と、同じだと……!?』

 その神を自称する顔が、初めて醜い憎悪に歪んだ。


『貴様ァァァッ! 塵一つ残さず消し去ってやるぞ、下等生物がァッ!』


 純粋な殺意の塊と化したタロスが、絶叫と共に襲いかかってきた。

 俺はその猛攻を冷静に見据える。


「――お前が神になることは、もうない」


 俺の言葉に更に激昂する怪物を見て、俺は哀れみを覚える。この程度の脆弱な精神性で神を自称していたのか。全力をもって俺という存在の「完全な抹消」にかかるモンスターが、不可避の速度で放つ無数の斬撃。しかし怒りに染め上げられ、単純化されたそれに一切の驚異は感じない。全てを最小限の動きで見切り、捌き、そして、ただ一つの欠陥へと狙いを定める。


 冬月が残し、そして俺が見抜いた、あの「弱点」。

 頸椎の第七関節。


 俺はタロスの薙ぎ払う腕の下を潜り抜け、その懐を潜り抜けて一気に背後へと回る。そしてがら空きになった首筋、その一点だけを狙い、全ての体重を乗せた貫手を放った。


 ぐしゃり、と。これまで鉄壁を誇っていた肉体に、俺の指が深く突き刺さる。

「グ…ギ……ア……?」

 タロスの動きが、完全に止まった。その赤い瞳から急速に光が失われていく。


 俺は腕を引き抜くと、崩れ落ちていくその巨体を見下ろした。

 死の間際その歪んだ顔に浮かんだのは、怒りでも、苦痛でもなく、純粋な「疑問」だった。


『なぜだ……神で、ある……この、俺が……』


 俺は崩れゆく冒涜的な骸に、冷たく告げた。

「お前は神なんかじゃない。結局人を真似るだけの、ただの化け物だったんだ」


 その言葉が介錯となった。

 タロスはその体を崩壊させ、塵となって静かに消滅していく。後には破壊され尽くした研究室と、狂気の科学者の亡骸だけが残された。


 スマートフォンを取り出して後処理部隊の出動を要請する。

 事件は、終わった。だが、後味は悪い。金への執着、美学への固執……これまで様々な欲望を見てきたが、今回の事件の根底にあったのはもっと純粋で、もっと歪んだ狂気だ。

 俺は静かに踵を返し、この狂気の揺り籠を後にした。










(第五話 了)


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