纏足(てんそく)
纏足の老婆を見かけたことがある。
纏足についてはご存知の方も多いだろうが、とりあえず、ざっと説明しておこう。
纏足とは二〇世紀の前半まであった漢民族の風習で、幼女の足を布で縛りつけて大きく発育しないようにするというものだ。縛られた足は完全にその成長がとまることはないにせよ、大人になったときには非常に小さな足となる。十センチくらいが黄金サイズと呼ばれ、足が小さければ小さいほど魅力的な女性とされていた。
纏足の女性を見かけたのは、中国・雲南省昆明の郊外のとある公園でだった。五月の天気の好い日に、湖のほとりの遊歩道を散歩していると、とうに七十歳は過ぎているだろうと思われるおばあちゃんの二人連れが前からゆっくりと歩いてきた。腰を揺らしながら、ひょこひょこと。
老婆は二人とも、身長百五十センチくらいの背丈で、まるくぽっちゃりと太っている。昆明は標高約二千メートルの高地にある都市なので、長年にわたって強い紫外線を浴び続けた顔は赤銅色に焼け、彼女たちの人生の苦難をしのばせる深い皺が幾重にも刻まれていた。
「ほらほら、小脚よ」
いっしょに散歩していた地元の友人が教えてくれた。小脚とは、すなわち纏足のことだ。漢語の話し言葉では、纏足よりも小脚を使うほうが一般的なようだ。ちなみに、普通の足は大脚という。
「へえ」
驚いた私は彼女たちの足を見つめた。確かに小さい。子供のような青い布靴を履いている。まさか、纏足の女性に会えるとは思いもしなかった。
二人の老婆はおだやかに話していた。方言なので会話の内容は聞き取れなかったが、心地良い陽射しと余生を楽しんでいるようだ。
すれ違った老婆を振り返った。
やはり腰を揺らしながら、ひょこひょこ歩いている。歩みを進めるたびに、お尻が右へ左へ、ゆりかごのようにゆったり揺れる。
「あんなふうに腰を振って歩くのがセクシーなのよ。昔の男は、それがすごく好きだったんだって」
相手は老婆なので、さすがにセクシーさは感じなかったが、アヒルのようでかわいらしいと感じた。チャイナドレスを着た妙齢の女性なら、また話は別だったかもしれないが。
「纏足ってすごく痛いのよ」
友人が纏足について解説してくれた。
足を縛る際には、たんに縛りつけるだけではなく、足の指もむりやり折り畳んでしまう。足の指をそのままにしておいたのでは、小脚にならない。激痛が走るので、泣かない女の子はいない。纏足を施された女の子は、みんな布をほどいてくれと親に哀願する。
後日、纏足の素足を撮った写真を見たのだが、親指をのぞく四本の足指が足の裏にめりこんでいた。こんな状態で、成長しようとする足を縛りつけるのだから、痛みはなおさらだ。泣き叫ぶのもむりない。
このようにして纏足をしなければ、昔の漢民族の女性は結婚できなかった。大脚の女性は貰い手を見つけるのにかなり苦労したそうだ。だが、この纏足には、セックス・アピール以外にもうひとつ意味があるのだそうだ。
纏足では、当然、農作業などの重労働はできない。纏足の状態では普通に歩くだけでも腰が揺れるくらいだから、重い物を担ごうとすればひっくり返ってしまう。労働力としてはカウントできない。
労働力にならない娘を養っている。つまり、それだけ我が家は経済力がありますよ、ということを誇示するためでもあるのだ。
世間体のために畸形にさせられたのでは、たまったものではないだろうが、自分の娘に纏足を施した親は、なにも我が子を虐待しようとしたのではない。むしろ、その逆だ。
纏足することが常識の世の中では、纏足しなければまっとうな女とはみなされない。女性としての魅力や価値のない者とみなされてしまう。簡単に言えば、女ではないということだ。
そうなると困るのは自分たちだ。親は誰でも、我が子にいい人生を歩んでほしいものだし、世間の常識から外れた娘を育てれば、親の沽券にもかかわる。親たちはそうすることが親としての当然の義務だと信じて、疑いもせずに我が子の将来のために纏足を施していたのだ。もし纏足しないまま年頃になれば、その娘は嫁ぎ先がなかなか決まらず、どうして纏足してくれなかったのかときっと自分の親を恨んだことだろう。
纏足しなければ、女は女になれなかった。昔の漢民族の女性は、生まれながらに女として生まれてくるのではない。纏足することで、ようやく女になるのだ。漢民族は纏足の習俗が永遠に続くものと思いこみ、いつか女性が纏足しなくなる日がくるとは考えもしなかった。女は小さな足で腰を揺らしながら歩くものだと頭から信じこんで。
女真族(満族)の政権である清朝は漢民族の纏足の風習を嫌い、纏足禁止令をたびたび発したが、漢民族がこれに従うことはなかった。
纏足の風習がすたれ始めたのは一九一一年の辛亥革命以降で、その後、一九四九年に大陸中国で政権を奪取した中国共産党によって全面的に禁止された。漢民族の女性はようやく行動の自由を得ることができた。
漢民族がなかなか纏足をやめようとしなかったのは、ほかでもない、彼らの思考回路が世間の価値観に「纏足」されていたからだ。みんながそうしているから、纏足しなければならないという横並び意識が原因だ。個人の意見が尊重される世の中であれば、ほぼ全員が纏足されることもなかっただろう。いかに世間の価値観の「縛り」がきついのかがよくわかる。
とはいえ、纏足の風習ばかりを批難することはできない。自分自身で気づかないうちにある価値観に縛られるというのはよくあることだ。いや、そんなことばかりだと言っても過言ではないかもしれない。ふと我と我が身を振り返ってみれば、なにかに「纏足」されていないだろうか? なにかの「空気」に縛られていないだろうか? ほんとうに自分の頭で物事を考え、自分の足で歩いているだろうか?