紙呪〜shisyu〜 その7
*** 香奈宅・安堂寺 礼 ***
扉が閉まり、部屋には香奈と礼だけになった。
「あの……」
香奈のか細い声に振り返った礼は、距離が近すぎて見下ろす形になる。
見上げてくる香奈の瞳は潤みを帯びており、大きめの上着から金のチェーンとレースの肩紐が覗いていた。
「残ってくれて、ありがとうございます」
香奈はそう言うと、礼の胸に手を置く。
「この呪いが、貴方に向いていればよかったのに」
赤面しながら言う香奈。
「随分と積極的だな」
礼がそう言うと、香奈は頭を小さく振った。
「こんな女は嫌いですか?それとも、私が……いや?」
勇気を振り絞っているのか、香奈の体は小刻みに震えている。
「特定の相手を作るつもりがないだけだ。こっちに住んでないしな」
「それでも良いって言ったら、どうしますか?」
礼は女の顔に片手近づけ、頬にかかる髪を耳に掛けてやった。
想像していなかった動作だからか、香奈の体が震える。恐れなのか、歓喜なのかは分からない。
「もし、私の呪いが貴方に向けられたものなら、これ以上はダメですよね」
ふっと息が溢れる。
「事前にわかっている呪いなんて、オレには通じない」
礼個人に向けられたモノか、男という生体に向けられたモノなのかは分からない。ただ、その呪いが発動しようとしている事だけは感じ取れた。
部屋のどこか、ではない。香奈の身につけている”何か”だ。
「自信家なんですね……いえ、それだけの力があるってこと?」
小さく首を振りながら、呪いの発動が近い事を悟った。
「ただの特技だよ。相手が能力者でも、力を封じる事ができる特技」
「呪いも無効化できる?」
「さあ、どうだろうな」
「……」
閉じた瞳から、一筋の涙。
香奈は目を閉じると、まだ耳元にある礼の手に頬を寄せた。
小鳥のような仕草と同時に、胸元でゆらりと動く濃紺の煙。
礼の指が耳から首を伝って降りていく。
ニットが肩の下にするりと落ちた。スモーキーピンクの服の下から、パステルピンクの小さい石が、鎖骨の間で淡い輝きを見せている。金のチェーンに礼の指がかかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ちょっと待った」
突然、ゴーグルを外された光。礼の手に移ったゴーグルの内側に見えている映像には、肩を肌けた女。
「あぁ、これからって時に!」
「怪しいと思ったんだよ、あのカード」
ゴーグルを見ながら、大きなため息を漏らした礼。
「それよりも師匠、それ、まだ続いていますよね」
「あの後、ネックレスの先についているピンクの石を破壊して、呪いは終了。めでたし、めでたしって話だ」
「なんで隠すんですか!」
ゴーグルに手を伸ばしながら、叫ぶようにして言う光。
「光にはまだ早……いや、何もなかったって事で見なくてもよろしい」
腕を天に掲げた礼は、光の顔を押し下げながら言った。
「何もないなら見てもいいじゃないですか」
「いや、オレの濡れ場見ても楽しくないだろう」
「何もかもあるじゃないですか!そっちの教育にもなるから見せてくださいよ」
刹那の沈黙。ゴーグルを覗いていた礼が、目だけを光に向けて小さく言った。
「……冬香には言わないように」
「い、言いませんよ、そんな事。都合悪いなら、なんで見せたんですか」
憮然とした礼の表情から、想定外だった事を悟る。
「迂闊だったよ、オレから採ったのはここから随分先のやつだから、てっきり武から抽出したもんだと思ってた。香奈から抽出……いや、色んな奴から抽出して混ぜたのか……ひょっとして若月の記憶も……いや、まさかあいつのも……」
ぶつぶつ言う礼に、目を丸くした光が問う。
「え、香奈さんってここの人なんですか?」
「まあな。会っても変な顔するなよ?」
「が、頑張ります……」
目を逸らしながら言った光を見て、礼は取り上げてよかったとゴーグルに目を向けた。
「それにしても」
光の声に視線を戻した礼。
「師匠、話し方というか雰囲気、やっぱり違いますね。言葉は粗暴って言うか、尖ってますし、ちょっと怖いです」
「そうか?まぁ、若かったんだよ」
「年齢の問題ですか?……18のくせにやたら大人っぽいし。なんか今まで見てきたの全部なんですけど、笑ってませんよね、師匠。あれってわざとですか?」
「いーや、無意識。でもまぁ、愛想笑いくらいは出来たぞ」
愛想笑いくらい覚えろと言われていなかっただろうか。
「……俺は今の師匠でよかったです」
追体験とは言え、この人に向かい合って睨まれたら怖いに決まってると、光は心の中で呟いた。
彫刻のような顔立ちのせいか無機質に感じることもあり、じっと見られるとドキドキなのかヒヤヒヤなのか分からない感情が芽生えるのだ。
「師匠、相手を観察しているだけで怖がられた事ありませんか?」
光がそう問うと、礼は腕を組んで頷く。
「よくある」
「あ、もしかして、視界を調整する力のせいですか?」
「どうだろうな。多少は影響あるだろうが、他人の感情の機微なんざ、理解しようがない。だから分からないな、実際何を感じとっているかなんて」
理解する気はあるんだろうかと、光は思った。
「……ちなみに香奈さんは師匠より年上ですか?」
「武と同じ年だったような……よく覚えてない」
興味ないとでも言いたそうな気配に、光は過去の香奈に同情した。
「まぁ、それはいいとして、結局呪いってなんだったんですか?解呪方法とかいまいちよく分からなかったんですけど」
気持ちを切り替えるように問いかけた光。
「解呪方法は多岐にわたるから、これが呪いでこれが解決法だって言い辛いモノだな。この続きはその一例でしかないし」
「続き、見せてください」
じっとゴーグルの内側を見ている礼。光の距離からは端の方しか見えない。
人肌が触れ合っているように見えるのだが、詳細がわからなくてモヤモヤする。
だがそれ以前に、と光は思う。
「尖ってても怖くてもモテるなんて、理不尽」
ぽそっと無意識に口から出た言葉。
「何か言ったか?」
「いえ!なにも言ってません!」
慌てて首を左右に振り、またゴーグルの内側を覗く様に見たが、今度は何も見えなかった。
(全カットかぁ。ま、でもこれ見たら、見る目変わっちゃうかも?)
少しの悔しさと、少しの安堵が入り混じった複雑な心境の光。
「よし、この辺りからなら見てもいいか」
礼がそう呟いてゴーグルを光に返す。
「もう途中で取り上げないでくださいよ」
「善処する」
疑わしげな光の視線は、装着したゴーグルによって隠された。
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*** はなちるさと・大波 武 ***
翌日、”はなちるさと”では、ピンクの砕けた石と、ハート型の金属片が斜陽に照らされ、テーブルにそっと乗せられていた。床には燃え焦げた額縁の残骸。絵はその中にない。
「それで、これもオカルトグッズの女からなの?」
ペンの先で砕けた石をつつきながら、若月は顔を上げて正面に座る礼を見た。
「いや、別の同僚と盛り上がって共同購入したらしい。違う効果の4つセットで、チャームのキャッチコピーが気になってつい、とか言ってたな」
「どんなコピーだったの?」
「よくある恋愛系のもので、恋を引き寄せるとか、なんとか」
「アヤシイっすね……そんなの見て買う人いるんすね」
武はそう声に出したが、同時に心の中でも呟く。
(香奈さん、恋、したかったんだ。このまま礼さんと付き合うのかな?)
「絵の方は解析できたのか?」
足を組み直しながら礼が聞き、若月は少し首を傾げながら答える。
「気を紛らわせる呪いがかかっていたわ。解析途中で呪いの何かを弄ってしまったようで、途中で燃えちゃったのよね。だから古杣の存在を隠したかったのか、怨霊付きである事を本人が自覚しないためのものだったのか不明よ」
「用意周到だな」
「なんて不自然な偶然かしら。気に食わないわね」
若月は腕を組むと、そう言って鼻から息を吐き出した。
「不自然っすか?」
首を傾げた武に応えたのは礼だ。
「不自然だろ。呪いに古杣、紙呪が2種だぞ。そこに怨霊憑けられてここに来た時、たまたま若月の結界がなくて通過できた。これが全て偶然なら、武はハーレムだって作れるだろ」
「なんすかその例え……俺がモテないみたいじゃないっすか」
「モテるの?」
「全然っす」
ほらな、とでも言いたげな礼に、若月のため息。
「複雑な力が絡み合っているわ。紙呪と古杣の出所は同じなのよね?解呪されたのはよかったけど、このチャームがついた石の呪いだけ他の力だなんて厄介だわ。それが偶然香奈ちゃんの手に渡ったなんて都合良すぎるし」
そう言って、ガラスの箱から紙と木片を取り出した。
「なんで紙呪と古杣が同じって分かるっすか?」
「礼が同じ色だと言ったからよ」
若月はペンで石を小突くようにした。
礼は木片を指でなぞるようにして、武に説明する。
「紺色のメッシュのようなモノがまとわりついている。紙と木片に」
武が首を傾げながら、じっと砕けた石を見ている。
「メッシュ、メッシュ……メッシュってどこにあるんすか?」
さっぱり分からず、若月に目を向けた。
「あたしにも見えないから教えてあげられないわ」
「え!オーナーにも見えない?礼さん、凄いっすね!なんで見えるっすか?」
顔を上げ、キラキラした目で礼を見ている武に、若月が説明した。
「礼の視界は特殊でね。呪いや霊体の色合い、魂の輝きまで見えるのよ。たぶん、世界中で魂まで見えるなんて能力の持ち主は、礼くらいでしょうね」
若月の言葉に、武はへえと言ってから、何かを思い出したように両眉を上げた。
「あ、それなんすけど、魂を見ると何が分かるんすか?」
「呪いの進行状況や、霊的素質が見えるらしいわ。ここに登録されてる能力者なんて、礼の協力がなきゃ見つけられなかった人ばかりだもの」
「霊的素質って、昨日言ってた俺のレベルなら見えるはずってヤツっすか?それってどんな風に見えるんすか?」
「簡単に言うと光の総量だな。能力の高い奴ほどまぶしいし、範囲が大きい」
「へえ、凄いっすね!」
「オレは個人的に、怨霊と同じ視野だと思っているけど」
「それじゃあオーナーは大きいんすか?」
「そりゃあ、な。隠してなければ誰よりも大きいんじゃないか」
「隠す?」
それがなにを指しているのかよく分からない武は、首を捻って礼を見たが、頷きだけが返ってきて戸惑ってしまう。
「どういう状態っすか?あ、それに眩しすぎて、他が見えなくなったりしないんすか?」
「視界を調整できるから問題ない」
質問が2つあったので、礼は手っ取り早く後半だけ答えた。
「あ、そうなんすか!俺も視界の調整したいっす」
分かったような分からなかったような、曖昧な理解だったが、そのうち若月に聞いてみようと思った武はそう言って納得したフリをする。
「ん、とりあえずやってみると良いんじゃないか。できるかどうかはお前次第。ただ、今のままじゃ難しいだろうな」
武は何故だろうという顔をして礼を見た。
「能力があっても努力がなけりゃ、その先の成長はないぞ。せめて自分の保護くらいは安定させないと。お前はこの店が結界で守られているのを分かっていて、手を抜いているだろう」
図星だと言わんばかりの武の顔。
「そろそろ階級を作らなきゃね」
石を突いていたペンを上げ、気だるげに言う若月。
「な、何段階になるんすか」
「う〜ん、そこなのよねぇ。最低ランクは見る、もしくは聞こえるだけだとして、次は……」
若月はペンを回しながらブツブツと呟く。しばらくして武に向き直った。
「最低でも10くらいはできそうだわ。武、希望だけ聞いてあげる。武道みたいに級から段で表すか、ABCDで行くか、もしくは企業らしく、主任とか部長のような役職名、どれがいい?」
「え、えっと……」
武は天井を見上げて考える。
「アイデアがあるなら他のものでも良いわよ」
ふと、武の脳裏にみんなが使う音叉が出現した。
「あ、じゃあ、音階とかどうっすか?」
「音階?」
不思議そうな若月の声。礼は何も言わなかったが、じっと武の説明を待っている。
「12種類できますよ」
少し首を傾げた礼が武に聞く。
「フラットとかシャープがつくのか。同じ音はどうするんだ?ド・シャープかレ・フラットか。それで、一番高い階級はなんだ?ドか、シか?」
「あ、えっと、それは……」
「呼びにくくないか?なんたらのシャープとか」
武が返答に困っていると、オートロックのチャイム音が鳴った。
「はーい」
反射のように返事をした若月が、モニターを見てすぐに礼を振り返る。
「香奈ちゃん、来なくても良いって伝えたのよね?」
「もちろん。怪異は取り除いたんだから、来ても仕方ないだろ」
頷きながら即答した礼。モニターを見て訝しげに眉根を寄せた。
「とりあえず通すわね。はーい、どうぞー」
若月はそう言うと解錠した。
「礼さんに会いたかったんじゃないっすか」
「また呪われたとか」
「お湯、沸かさなきゃ」
三者三様に呟いて、香奈の到着を待った。