紙呪〜shisyu〜 その11
*** 小池クリニック・大波 武 ***
ふっと武の目が開く。違和感を覚えあたりを見ると、薄ピンクの制服が目に入った。
なぜここに看護師がと武は思う。
点滴を確認しているようで、指差し点検のあと、武の顔を見る看護師。はっと目を見開いて、後ろの方に顔を向けて叫ぶ。
「先生!大波さん、気がつかれました」
看護師は点滴を少し動かし、武の周りをテキパキ整えた。
しばらくすると、白衣の女性が入ってくる。
切長の瞳が印象的な、和風美人だ。
「若月さんから聞いたわ。あなた、自分の状況分かってる?」
「いえ……」
ああ、この人が小池先生かと、武は目の前の美人を観察しながら思った。
「名前は言える?」
「大波……武」
「家で何日倒れていたのか理解している?」
「1日、普通に寝ていただけじゃないんすか……」
「なるほど。……ま、少し診るわね」
寝たままの体勢で、聴診器を胸や背中に当てられ、目の下を引っ張られて色を見られたり、喉を点検された。
「無意識でも水分はとっていたのかしら。若月さんの話だと、あなたは1週間眠っていたのよ。その割には驚くほど元気だし、血液検査にも異常は見られないわ。点滴が終わったら帰っていいわよ。お風呂に入って、栄養のあるもの食べるのよ」
武は無言で頷いた。
点滴が終わってクリニックを出た。
空を見上げて太陽の位置を確認すると、陽は少し傾いていたが、夕方と呼ぶにはまだ早い。
「まだ、撮影中かな」
”はなちるさと”には、写真の予約が入っている可能性がある。
武は何がどうなっているのか知りたかったが、まずは小池先生の指示に従う事にした。
1度家に帰りシャワーを浴びる。
新しい服に着替えて、自分が吐いたものだけは片付けてビニールに詰め込む。
そのまま外に出てゴミ捨て場にビニールを放り込むと、”はなちるさと”に向かって歩き出した。
「風呂に入ったら、栄養、栄養」
あたりを物色していた武は、中華や焼き肉店で1度足を止めた。しかし、夜の営業にはまだ早いのか、準備中だったためそのまま前を通り過ぎる。
自分の腹と相談しつつ、結局は行きつけの店に入った。
「鴨南蛮ください」
メニューも見ずに注文し、水を飲みながらぼんやり店内を見回す。
(古杣なんて、いつ持ち帰ったんだろう)
記憶を辿るため、目を閉じて考える。
『待って、帰らないで』
首に絡みつく絵琉の腕。
古杣と睨み合っていたはずなのに、この記憶はなんだろう。香奈さんはこの時、どうしてたんだろ。なんとなく、2人きりではなかったような気がする。
でもそれならそんな事するだろうか。それとも時系列が混乱しているのか。
どのタイミングの記憶?
「お待たせいたしました」
店員の声に思考が途切れる。
出汁の香りが鼻腔をくすぐり、急に空腹を感じた。
「いただきます」
丁寧に手を合わせて言った。普段はやらないが、何かに感謝したくなったのだ。
ずずっと蕎麦を啜る。
今まで食べた中で、一番うまかった。
出汁の香りも、蕎麦の香りも、いつも以上に芳しい。
「はぁ、生き返る〜」
蕎麦をいつも以上に噛み締めて食べる。なんだか無性に泣きたくなった。
そこからは夢中で食べすすめ、出汁を飲み干してようやく一息つく武。
残りの水も飲み干して、紙ナプキンで汗と、滲んできた涙を一緒に拭き取る。
この一連の感動のせいで、店の右奥から黒いモヤが動き始め、自分に乗ってきたのを、武は気が付かなかった。
「ふぅ」
黒いモヤを頭に乗せたまま、大きく息を吐き出して窓に目を向けると、かなり暗くなっている。
「そういやあ……」
前に礼と来た時に、パワーストーンか何かの話を聞いていた絵琉を思い出した。
「ひょっとして、あの時のもう1人が、香奈さんと絵琉さんに古杣を渡した女?」
う〜んと唸り、腕組みで考える武。
「よし」
考えても分からないと思い、小さく気合をいれて立ち上がった。
以前、礼からもらった割引チケットを使って精算する。
「ありがとうございました」
店から出ると、ぐっと伸びをした。
「まだ、お客さんいるかな……まぁ、でもとりあえず」
そう呟いた武。足を”はなちるさと”に向けた。
「お、大波さん……!」
店の前で声をかけてきたのは、見知らぬ女を連れている香奈だった。
柔らかそうなパステルグリーンのワンピースは、ギリギリ鎖骨の中心が見えそうな位置まで空いており、中心に大きめのリボンがあった。それが揺れて武の目を攫う。持っている鞄にも似たようなリボンがついており、そこに目を向ける事でようやく逸らす事ができた。
香奈ばかりをジロジロ見るわけにもいかず、他に目線を移した武。必然的に、もう1人に注目する事になった。
ダボッとしたデニムの上着の下に、黒いブランドロゴ入りの厚手シャツを着ている女。下はアイボリーに近い色のワンドパンツだ。
(あの時のもう1人かな?)
制服の背中しか見てなかったが、顔を見ていたとしても特別印象に残らない感じだ。ただし服装はーー詳しくないからオシャレじゃないとは断言できないがーー武には理解できないファッションセンスだ。記憶に残ってしまいそうで、少しだけ嫌だなと思う。
「佐間さんに聞きました。大変だったって」
香奈は武を見上げるようにして言った。微妙に目が合わないなと思いながらも、何について大変だと言われているか分からず、返答に困って口を開けないでいる。
「私が帰ってから、ずっと……その、……と睨み合っていたって聞きました。朝までだったんですか?」
「あ、あぁ。その事っすか。うん、そう。朝までっす……」
記憶が曖昧だが、きっとそうなんだろう。
「それで、今も……?」
「?」
今も、とは何だろうともは思うものの、怨霊という言葉を使わなかったという事は、香奈の連れてきた女は部外者で、こちらの事情を知らないのだろう。武はどう聞き返そうかと思案する。
「え、なになに?絵琉の知り合い?誰と睨み合ってたの?」
突然、話しに入ってきた女。そう高くない武に合わせたのか、少し腰を折って、下から見上げるようにして聞いている。
(こーゆーの、媚びた目って表現するのかな。かなりワザとらしいけど)
そんな事を考えながら、絵琉と呼び捨てにしている事から、親しいのだろうと予測した。やはり古杣を渡した女かもしれない。
(あ、もしかして、パワーストーンの話をしていた時のもう1人?)
武からは背中ばかり見えていたので、顔は分からなかったが、あの興奮口調で話していた人物かもしれない。なんとも凡庸で特徴のない顔だから、見ていても覚えていない可能性が高いのだけど。
あの時の雰囲気を感じると、言えなくもない。
しかし所作はいい女風なので、それがいいと言う人もいるんだろうなと考え直す。
武は愛想笑いをしながら質問した。
「絵琉さんと仲いいんすか?」
女はそう問うと、肩にかかっていた髪を、自分の手で後ろに弾いてから答えた。
「そうね。いい方だと思うわ」
へえと相槌を打っておいて、香奈に顔を向ける。
「この時間から、何があるんすか?」
写真館の営業時間はそろそろ終わるので、撮影の客でないことは明らかだ。
「若月さんが降霊会をやるって言うので、興味ありそうな人を誘ってきたんです」
「降霊界ぃ?」
なんすかそれ、と言いかけて、言葉を飲み込む。
「大波さんは別件で呼ばれたんですか?」
「ま、まあ、そんなとこっす」
香奈は頷いて、一緒に行くのが当たり前のように歩き始める。
あらかじめ約束していたのか、時間も見ずにオートロックの前で”はなちるさと”を呼び出した。
『はーい』
「香奈です。同僚と来ました。大波さんもいます」
『武?もう大丈夫なの?』
元気よく「はい」と返事すると、ガラスの自動ドアが開いた。
2人の後を追って1歩足を建物に入れた瞬間、バチっと大きな音がして、頭皮が背後に引っ張られた。それと同時に静電気が発生して顔全体に痛みが走る。
「イテっ!」
小さく言った武に、前の2人が振り返る。
「どうしたんですか?」
香奈の連れてきた女がそう聞いてきた。
「あ、いや……」
何が起きたのか分からず、首を横にふる。香奈はまたしても武の上の方を見ていたが、にこりと笑って頷いた。
まるで、良かったですねと言われているように感じた武は、それが何の合図かも分からないまま曖昧に頷いて返事とした。
改めて奥のエレベーターに向かって歩き出す3人。
「香奈さんや絵琉さんと同じ会社の人……っすよね?」
そうだろうとは思っても、制服ではない事と、雰囲気が2人とは随分違って見えた。やはりきちんと確認しておく必要があると思い、本人に尋ねた武。
「はい。佐間さんと同じ部署の都岡さんです」
これには香奈が答える。それを受けた女は鞄から、名札のようなケース入りのカードを出して武に見せた。
「できれば乃菊って呼んでくれない?苗字より名前の方が好きなのよ」
武はIDを覗き込んで頷いた。
「乃菊さんっすね。大波 武っす」
よろしく、とでも言いたげな軽い会釈。武も釣られて会釈したところで、エレベーターの前に辿り着いた。上のボタンを押した瞬間、乃菊から興奮気味の声が聞こえる。
「楽しみね!」
パンっと音がして、少しビクッとなった武が乃菊を見る。
香奈に向かって、両手を打ち鳴らしたようだ。降霊界とやらが楽しみなのだろうか。
「あ、来たっすね。先にどうぞ」
ビクついた事が気恥ずかしく、エレベーターの到着をじっと待つ。到着するとボタンを押した武は、2人を先に中へ入れ、最後に素早く操作パネルの前を陣取ると6階のボタンを押した。
その背後から、乃菊の声が武の名を呼ぶ。
「武、武……。あ、そっか。武って名前、どこで聞いたのかと思ったら」
名前が出てきた武は、【閉】ボタンから手を離して振り返り聞いた。
「俺を知ってるっすか?」
「絵琉の言ってた人でしょ。想像よりかわいい」
肩をくねらせて言う乃菊。
「か、かわいい……っすか?」
絵琉から何を聞いたのか不安になる。記憶が曖昧な武は、何か恥ずかしい事をしていないだろうかと急に不安を覚えた。
『待って、帰らないで』
(この前後、何してたんだ、俺)
夢と現実、それに妄想が混濁している。
しかし深く考える時間もなく、6階に到達してしまった。
乗り込んだ時と同じように、2人を先に出す。香奈が先導して歩き出し、その後をついて行った。
「え?ここ?写真館って書いてあるけど」
最奥の扉前で表札を指差しながら、乃菊が香奈を振り返りつつ言った。
「写真館がメインのお仕事なんですって。だから、営業時間外か、予約のない時にお邪魔する事になっているの」
ふうんと乃菊は口から溢し、香奈は玄関のベルを鳴らす。
すぐに扉が開き、そこには若月ではなく礼が立っていた。
(あれ、オーナーじゃない。あ、何か目的があるのか!)
武はそう思い、外に向かって開いた扉に手をかけて押さえた。礼は武に頷き、ドアノブから手を離して、前屈みになっていた体を起こす。
(玄関扉スレスレの高さだ……羨ましい。俺もあれくらいあったら、かわいいなんて言われなかったかな)
そんな事を考えている武を他所に、礼は無言で3人に目を向け、それぞれの全身をじっくり見ている。
(怨霊や呪いを連れていないか確かめているんだ)
武は瞬時にそれを理解したが、2人はどうだろう。入店拒否と受け取られないか少し不安になって、チラリと横目で2人を確認した。
薄く頬を染めて、礼を見上げる2人が目に入る。
(あ、大丈夫そうだ)
「よし」
礼はそれだけを残して店内に引っ込む。しばし3人の時が止まる。
「あ、どうぞどうぞ」
慌てた武が乃菊を中に促し、香奈がスリッパを3足分用意した。
「何、あの人」
密やかな乃菊の声。感じ悪いと言われるのだろうかと、武はスリッパを履きながら、フォローするつもりで口を開こうとした。
「芸能人?めちゃくちゃかっこいいんだけど。言葉、どっか行っちゃった」
ほっと胸を撫で下ろし、開きかけた口を閉ざす。先に店内に入り、香奈と乃菊を奥に誘導した。