紙呪〜shisyu〜 その10
*** はなちるさと・若月 ***
「おはよう、ございますぅ……」
翌日。
土色の顔をした武が、オープン直前の店に来た。
「何、その窶れた顔」
驚いた若月の声に、武が力なく答える。
「朝まで睨み合ってたっす。あれ、礼さんは?」
「昨日、横浜に帰ったわよ。それより、睨み合ってたって……古杣と?」
「はいっす」
若月は呆れた顔で言う。
「何かあったら連絡するように言ったでしょう?」
「目を逸らしたら、攻撃して来そうだったんす。絵琉さんも怖がってて……」
「エルって誰よ」
武にそう聞いてから、あっと若月は声を上げて言う。
「佐間さんの事ね。やだ、何か仲良くなってない?」
「それが、そうでもないっす」
はぁ、と大きなため息の武。何があったのか、聞かない方が良さそうだと判断した若月は、話題を怨霊に切り替えた。
「それで、古杣はどうしたの?」
「一応、ここに」
尻のポケットから布を取り出す姿を見て、はたと気がついた。
「そういえば結界カード。礼が破いてそのままだったわね」
少し気まずく思いながらも、武から布を受け取った。
「香奈ちゃんの家にいた奴は、殆ど人の形状してなかったけど……」
そう言いながら布を開く。
「あ、気をつけ……!」
武の警告が終わる前に、結界に閉じ込められていた怨霊が、勢いよく飛び出して来た。
頭髪は殆どなく、目の落ち窪んだ頭の大きな人間のような形状。お腹だけぽっこり大きく出ていて、餓鬼みたいな怨霊だった。
解放に歓喜の表情を浮かべた怨霊は、近くにいた若月に腕を振り下ろす。
若月がすっと1歩下がって回避すると、怨霊はその直後、唐突に苦しみ始めた。
闇雲に腕を振り回していたが、遂には頭を抱える様にして悶えている。
「嫌な声ね」
耳を塞ぎながら言う若月。不快そうな顔のまま、布を木片に被せる。
ふっと映像が途切れるみたいに、怨霊が姿を消した。
「なんで、あんなに苦しんだっすか?」
「ここがあたしの結界内だからよ」
「あ、そっか。そっすね」
当たり前の事を質問してしまった武は、恥ずかしそうに頭をかいた。
「それよりも、武、これに苦労したの?」
「はいっす……」
さらに恥ずかしそうに返事した武は、パーカーのフードを被って俯いてしまった。
「あら?ちょっと武……」
何事かと顔を上げた武の緑のパーカーから、ぴょこと飛び出た緑の髪。
「おわ!」
あまりに近い若月の顔に驚いたようだった。ぐっと近寄って、鼻の辺りを見ている若月に、武はだんだん不安そうな表情になる。
「もしかして、また鼻を噛みつかれたんじゃない?」
「なな、なんで分かるっすか。最初に噛みつかれて、その後から睨み合ってたんす。まさかあんなに体が伸びるなんて……」
ふう、と盛大なため息を吐いた若月は、武に金のカードを渡しながら言った。
「霊体が損傷して弱ってるんだわ」
「ええ!そうなんすか!」
若月は布に隠れた木片を指差す。
「この古杣は香奈ちゃんの家の怨霊より、ずっと弱いもの。反射の速度も遅くなっているんじゃない?来る時、人とぶつかってない?」
「なんで分かったっすか!」
やっぱり、とポツリ言ってから説明を続ける。
「霊体が損傷しているとね、色々不調が出るのよ。反射能力が鈍ったり、人との距離感が予測できなくなったり。ま、能力者じゃなくても、風邪ひきやすくなったりするでしょう?」
「そう、なんすね……」
首を傾げて答える武に、若月はそうかと呟く。
「常識だと思っていたけど、これもみんなに教えておかなきゃね」
若月は礼と当たり前のようにしている会話から、自分達の常識だと思って認識している事を、改めて修正する必要を感じた。
メモを取り出すと、それを書き加える。
「人も増えてきたし、マニュアル作成しなきゃ。本当はシステムごと作りたいんだけど、誰か詳しい人いないかしら」
ブツブツ言いながら、ふと武を放置していることを思い出す。
「まぁ、それはともかくとして」
若月は布を手に取り武を見た。
「これはあたしが解析しておくわ。武は夜になったら香奈ちゃんと連絡とって、会社で動きがないか確認して。今は帰って寝なさい」
「はいっす……」
武が力なく返事した直後、店のチャイムが鳴る。
午前予約の来客だ。
「さ、写真のお客様よ。帰って帰って」
追い払う様に武を追い出した若月。
軽口もたたけないまま、武はふらふらと帰って行った。
*** 自宅・大波 武 ***
武は自宅へ帰りつき、疲れたと呟いて床に座り込む。ふとハンターグリーンの丸いローテーブルに目を向け、そこに乗っている握り飯を手に取った。しばらくぼんやりそれを眺めていたが、ゆっくりと口に運ぶ。
「うまい……幸せだな……」
そう呟いて、乗っていた握り飯を2つとも食べ切った。添えられていた漬物をポリポリ噛みながら、敷きっぱなしの布団にダイブする。
男の一人暮らしで散らかり放題の部屋は、その後すぐに静寂に包まれた。
どれほど眠っただろう。
一瞬のようでもあったその眠りを阻害したのは、けたたましい着信音だった。
まとわりつくような布の海を腕だけで掻き分けて、音の原因を探ろうと腕が宙を彷徨う。
やがて、手に触れた無機質なモノを引き寄せ、半分しか開いていない目を画面に落とした瞬間、大きなあくびが出た。
着信しているが、相手の名前が涙で滲み見えない。
「誰……?」
疑問に思いつつも、そのまま出ることにした。
「はい……」
そのまましばらく待ったが、何も聞こえない。
着信音が鳴り始めて、どのくらいで気がついたのだろう。随分長い間鳴っていた可能性もあるため、向こうから切ったのかもしれない。
「う〜ん」
まだ眠いとばかりに、掛け布団を引き寄せる。
ピンポーン
「んん……」
二度寝をしてすぐ、今度は玄関からチャイムが鳴る。
微睡から抜け出せないでいた武は、薄く目を開けてぼんやり天井を見つめた。
ピンポーン ピンポンピンポーン
「うるせぇ」
武、と呼ぶ声が聞こえたような気がした。
しかし体を起こす事が酷く億劫で、その声に応える気力がない。
「もしかして、オーナー?」
若月の声のような気もするが、体を起こそうとしても力が入らない。
ああ、そうか、と急に腑に落ちた。
「夢だ……」
夢から覚める夢。まるで現実であるような夢。
なんだか不思議だが、これは夢の感覚だという確信があった。
「なぁんだ」
そう呟いて再び目を閉じた。心地良い眠りの波が武を覆う。
ガツ
ガツガツ
ガツガツガツ
「……何?」
またもや眠りを邪魔する音。何か固いモノを食べているような不快な音に、武の目が薄く開く。
「……もしかして古杣?」
ふとそう思い当たり、半身を起こして辺りを見たが、視界に変なモノは映らなかった。
「あ、服、そのままだった」
着替えようとしたが、面倒になってやめた。その代わりに転がっていたペットボトルの中を空ける。お茶か水か分からなかったが、まぁいいだろう。
じっとして考えてみるが、武には古杣を持ち帰った記憶などない。
回収した木片は”はなちるさと”に置いてきた。
今頃は若月によって解析され、封印か破壊かされているだろう。
しばし首を傾げる。
「古杣だとして、こんなに頻繁なのか?」
頻度は徐々に増すとのことだったが、発動はいつなんだろうと考えた。
「う〜ん」
うまく考えが纏まらない。
「ま、起きたらちゃんと調べよっと」
再び掛け布団を抱え込み、布団に倒れ込む。
その直後、玄関からチャイムが聞こえた。
「古杣って、睡眠妨害。うざい」
武は着たままのパーカーのフードを背中から引っぱり出して、深めに被った。
体力回復が先決だと思い、無視して寝ることにしたのだ。
金のカードもある事だし、大きな害はないだろう。
次に聞こえてきたのは、またしても玄関チャイムだった。
「バリエーション少な……」
香奈の体験した古杣は、掃除機や洗濯機の音だったり、レンジの音だったりしたんじゃなかったか。
「掃除機、洗濯機、電子レンジ……」
目も開けないまま呟く。
「そっか、どれもねぇや」
また深い眠りに入ろうしている。
「武!」
外から聞き覚えのある声。
玄関からガタガタ鳴る音。開かない扉に諦めて音が止んだのか、静寂が戻ってきた。
(一晩で何回起こすんだよ)
枕を頭に乗せて音を遮断して眠ろうとした。
「武、武!」
また音が聞こえる。先ほどと同じ聞き覚えのある声。
(オーナーの声に似てる?)
しかし目を開けるのが億劫で無視した。沈みゆく意識の中で、ガチャっと鍵が開くような音を聞く。
「臭いな」
(あれ、礼さんの声?横浜に帰ったんじゃ……?)
「武!しっかりしなさい」
(オーナーだ。しっかりってなんすか)
「ここか?」
ジーンズのポケットを探られるような気配。
「こいつだな。壊れるけどいいか」
(礼……さん?)
「やむなしだわ。武の命が優先よ」
「了解」
礼の短い返答の直後、小さなガラスが割れるような音。続いてパキンと折られるような乾いた音。
その音が耳に吸い込まれ、喉を通って腹に溜まるのを感じた。
「う……」
吐き気を感じた武は、慌てて口を抑えようとして、体の動きが鈍い事に気が付く。
誰かに支えられて上体だけは起きている事が分かった。
(この腕、オーナーかな。今、吐くと迷惑が)
そう思ったが、腹から逆流してくる感覚。これは、もうダメだと思った。
「うぅう!」
支えの腕を跳ね除け、ぐるりと反転し床に嘔吐した。
「げほっ、げほっ」
口の中に不快な酸味が広がる。それと同時に、脳にかかった霧が晴れる様な感覚。
「あれ、俺……?」
きょろりと左右を見た。
若月が膝をついてすぐ横におり、礼が自分を見下ろしていた。
「すぐ小池先生のところ行くわよ」
「え?なんでっすか」
武の言葉などまるで無視で、若月がその腕を引く。
引かれるまま立ち上がろうとして、カクンと膝をついた。まるで力が入らない。
「あ、あれ……?」
礼が脇に腕を差し込み、武を支えて立ち上がる。
「大丈夫か……って、本当に臭いな」
自分では匂いなどわからないので、戸惑う様な顔のまま無言で礼を見た。
なぜこうなっているのか分からないまま、武は目の前が白く塗りつぶされて行く事に気が付く。
視界は白いモヤで覆われ、意識をゆっくり手放した。