紙呪〜shisyu〜 その1
*** 屋上 ***
瞬くグレーの瞳は、静かに悲しみを湛えていた。
「……」
陽に透けた薄い金の髪が、下から噴き上げる風に煽られて舞う。
風が止み、さらりと頬に落ちる髪。その持ち主は、ビルの屋上に設置された小さな社に、物憂げに手をかざした。
グレーの瞳が見つめる先には封印の札。
上には牡丹紋、下には竜胆紋が浮かんでいた。
その紋が小さくなり消えると、はらりと紙が剥がれる。風に攫われぬよう気をつけながら、男は帛紗を広げ、札を丁寧に置くと包んで懐に入れた。
*** 大阪本町・安堂寺 礼 ***
大阪本町は金曜日のランチタイムを迎えていた。
地下鉄3本が交差するわりには、あまり人がごった返すことのない町である。
「あ、礼さん、ここどうっすか」
前髪にだけ入れた緑色のメッシュを揺らし、先行く”大波 武”は【うどんそば】と描かれた看板の店を指差した。
問われた”安堂寺 礼”は武を見て答える。
「武の好きなトコでいい」
さっそく足を向けた武の背を追う。手前の店と違い、店外への行列はなく、空いていると目算をつけたのだろう。
「いらっしゃい、ま……せ」
入口にいた店員は礼と目があった瞬間、口をもたつかせた。
「2人っす」
武の声をきっかけに、礼は店員から目を離して店内を見た。
企業ビルが周辺に多く、外から見た印象よりも混んでいたが空席もある。
回転も速いだろうと思って見ていると、すぐに案内された。
男性が多いが、小洒落た内装のためか女性客も2組いる。
制服姿の女性客の奥に通された2人は、テーブル端に立てかけているメニューを開けた。
「あの、お決まりでしょうか。本日の日替わりは……あ、えっと、確認して参ります!」
席に座って早々にやってきた店員は、水とおしぼりを置きながら注文を取ろうとしたようだったが、礼が顔を上げて見たことによって、日替わり定食の内容がすっかり飛んでしまったようだ。慌てて料理が出されるカウンターに戻って、他の店員に確認している。
「日替わりって定食だよな」
「そっすね。A定食が丼ものでB定食が麺と米っすね。小鉢と味噌汁は共通っす!」
「米とか味噌汁はいらねぇな」
「じゃあ、単品にするっすか?」
「オレはな。武は遠慮せず好きなの頼みな」
「はいっす!おねーさーん」
大きく手を挙げた武に、先ほどの店員と、隣の店員が同時に反応した。2人の間で少しやりとりがあり、先ほどとは違う店員が注文を取りにきた。
「俺はこれを定食に!」
武はメニューを指差して言う。
「かしこまりました。それではお客様は……」
店員が礼を見たので、口頭で注文するものを言おうとしたが、こちらに来る動作で口を閉ざした。思った通り、店員は礼のすぐ側まで来て、メニューを覗き込むようにした。
指差せという意味だろうかと思い、記載されている写真を指す。
「うどんとそばが選べますが、どちらになさいますか」
「そばで」
そう言うと、店員は腰を折ってふいに近づく。礼の耳近くで、囁くようにして言った。
「かしこまりました。他にご注文はございますか?」
虫を払うような仕草で、無言のまま首を横に振った礼。蕎麦と言ったのであって、側ではない。
「失礼いたしました」
ようやく離れた店員が去っていくのを確認した礼は、右手を顎の側面に当てて頬杖をつき、店の右奥にある黒いモヤを見る。
「動けないのか」
負の感情が少なそうな店だ。黒いのが消耗せず留まっていられそうにないが、あえて動かず獲物を狙っているのかもしれない。
今のところは害がなさそうだと思い視線を外したが、遅れたように礼の視線を追って、武が首を捻る。
「あれ、大丈夫なんすか」
「ま、とりあえずは大丈夫そうだな。何か害があれば、若月が仕事にすんだろ」
「それもそっすね」
ほっとついたのは安堵の息だろうか。伸ばしていた首を引っ込めた武が、料理を運んできいる店員を見たので、礼は頬杖をやめておしぼりを手に取った。
*** うどん屋・大波 武 ***
「礼さん、いつまでこっちっすか」
武は向かい合って座る礼をちらりと見て質問すると、割箸を手にとって引っ張る。おしぼりを軽く畳んだ礼は、眉間に落ちて来た巻毛を顔の動きで振り払いながら答えた。
「明日の終電で帰る予定だ」
たったそれだけの仕草でも、色気を感じるのは羨ましい限りだ。
整った顔立ちにウェーブのかかった髪。身長も平均以上で、大人びた雰囲気。先ほどの店員も、あんな態度になってしまうのは仕方がないのかもしれない。
「大変っすね、横浜から通うのって」
過剰な接客の事には触れずに会話を続けた。
「まぁな」
「交通費は出るんすか?」
「いや、込みの委託料だから自費だな」
「え!大変じゃないっすか」
「金額よりも時間がネックだな。もう慣れたけど」
ほえ〜と言いながら、武は”安堂寺 礼”の端正な顔を見た。
”はなちるさと”には色んな契約形態の人が関わっている。
自分のようにがっつり従業員として働く者、委託契約によって副業的に関わる者、協力関係にあり利益が別の者、金銭ではなく何かの対価と引き換えに関わる者、武が知っているだけでもこれだけいる。
その中でも礼の存在は特別で特殊だった。
共同設立者に近いと言っていいが、経営には一切関わっていない。
オーナーである若月とは旧知の仲のようで、何か大切な役目を請け負っている事は確かだが、武はよく知らない。他の従業員や協力者とは別格だということだけは認識している。
そして能力者としても、オーナーと肩を並べることのできる唯一の人物だ。
加えてこの容姿と色気である。
(天は二物を与えずなんて、誰が言ったんだ?)
武は心の中でそう呟いた。
「武、今日もそれ?ホント、好きな」
礼がそう言ったと同時に武はずずっと蕎麦を啜った。一通り飲み込んでから聞き返す。
「なんかマズイっすか?」
「いや、まずかねぇけど……美味そうだな、鴨南蛮」
「へへ、そうでしょ〜。俺、これ好物なんすよねぇ」
「だろうな。それ食ってるとこしか見た事がない」
「そっすか?」
「この店来たら、百発百中なんだが。昼飯はそれって決めてるとか?……ま、いいけどな」
礼はそう言うと箸を取り、注文した油揚げの入った蕎麦を食べる。
「礼さんってたぬき派っすよね。饂飩は嫌いっすか?」
「今日は細い麺の気分だっただけで、どっちが好きも嫌いもないな」
1度蕎麦を啜ってから、『きつね』や『たぬき』の使い分けがよく分からないと武に告げた礼。
「あ、そっか。あっちって、どっちも”きつね”なんでしたっけ?なんかで聞いた事あるっす」
「あんまり意識した事ないけど、そうかもな。いつも適当に頼んでるからよく分からないが」
覚えるのも面倒といったところかと、武は内心で勝手に結論付けて納得した。
「じゃあ、お揚げさんが好きってことっすね!」
「オアゲサン?あぁ、油揚げのことか」
「煮てよし、焼いてよし、炒めてよしの食材っすもんね。わっかるなあ」
「でね、願い事は新月の日にしなきゃいけないのよ」
武の声にかぶさる様にして聞こえてくる女の声。
礼の背後の席からだ。覗くように首を伸ばす武。
「どうして新月なの?あ、ごめん、新月って何?」
「そこから?新月ってのは月が見えない日の事よ。月齢ゼロ。朔の日とも言うわね」
「サクの日?」
礼の背後に座っている女の声が大きくて、会話が続け辛い。
チェックのベストに黒いスカート、胸元には赤いシフォン素材のリボンだろうか。ふわりと揺れてかわいい制服だと武は思った。
2人同じ制服のように見えるが、声の大きい方は背中だけだ。武が見えているのは、説明を聞いている方の女。うどんを持ち上げたまま聞いている顔は、目鼻立ちがくっきりした美人だったので、まあ良いかと伸ばしていた首を戻した。
礼は無言で箸を進めているので、武もそれに倣って無言で食べ始めた。
「月齢ゼロって事は、そこから満ちていくでしょう?願いが満ちていきます様にって事らしいの」
「あはは、何それ。親父ギャグ?」
「せめて駄洒落と言ってよ。でも、呪術とか魔術ってそんなモノよ。ちゃんとした知識を身につけて、手順をきちんと守ったら、絵琉にだって使えるようになるものよ。ああ、能力がなくたって大丈夫。その時は月の力を借りればいいんだから」
呪術、魔術にピクリと反応した礼と武。固まってしばし話に耳を傾ける。
「月ってのはね、特別な力があるのよ。パワーストーンだって月光浴で浄化するでしょう?」
「凄いのね、月って。パワーストーンの月光浴ってどうやるの?」
礼は興味を失ったのか、食べるのを再開した。
武も内心、
(なんだ、そんなことか)
と麺を啜る。
「まずは石を浄化するために海水に浸す。これは一種の禊なの」
食べるのを止めて話に夢中の女2人。対して男2人は黙々と食べ進める。
「月光浴で浄化したタオルを使うのよ。そっと拭き取ってガラスのお皿にAを乗せて、その上に石を設置するの。外気に晒したまま新月から満月まで月の光にあてる。夜通しよ」
「トランプ?」
「いいえ。トランプのような絵柄の特別なカードよ。スペードやダイヤもあるけど、トランプではないの。目的に応じて絵柄を変えて使うのよ。恋愛ならもちろんハートね」
「昼間はどうするの?」
「太陽の光に当てない様に、きちんとしまわないと」
「へえ、そうなんだ」
かちゃん、と丼に箸を置いた武。申し合わせてもないのに、礼がそっと箸を置いたのとほぼ同時だった。
「店、戻るか」
「あ、はい!」
礼が巻毛を揺らしながら立ち上がり、武もつられる様に続く。
「それでね、明日泉南の方でパワーストーンの販売会があるの。あ、休日出勤じゃないよね。一緒に行……」
ふいに止まる会話。
武は通り過ぎる礼を、2人の女性が目で追っているのに気がついた。
後ろに続く自分は、どのタイミングで目を離されるのだろう。
よく見る光景だし、慣れているけどねと心の中で呟いて、小さく溜息をつく。
「あ、ありがとうございました」
レジの人も頬を紅潮させており、愛想も過剰だ。
武が1人で来る時は、ありがとうございました、で終わるのに今は……
「また、ぜひ、お越しくださいませ」
これだけならまだよかった。
「こちらは次回お使い頂ける割引チケットです。またのお越しをお待ちしております」
なんて御利益があるのだと、拝みたい気分になる。
「イケメンってお得だ……あ、礼さん!」
武は礼の背を追って慌てた様に頭を下げた。
「ごちそうさまっす!」
軽く頷き、割引チケットを武に渡した礼は、さっさと店の方に歩き始める。
「ファッションが特別ってわけじゃないしなぁ」
膝上まである長めの上着は緩めで、その下は普通の丸襟シャツに、黒のジーンズ。
「うん、普通だよな」
自分と大差ない……と、思う。緑のパーカーにジーンズ姿の自分を見下ろして呟いた。
「礼さん、早いっす!」
ふと前を見ると、随分先に進んだ礼の背中が見える。
慌てて追いつき、横に並んだ武。目をスライドさせて礼を見ようとした。
しかし顎までしか見えない身長差に心中でがっかりし、自分の顔を上げて確認する。
整った目鼻立ちに、シャープな顎のライン。大きい手が目にかかった髪を掻き上げる姿は、同性でも息を呑むほど美しい。1日に何度それを思い知らされるのか。
武が見上げていると、視線に気がついた礼がなんだとでも言いたげに顔を向ける。
「いやぁ、今日も絶好調っすね」
礼といると、さっきみたいな事は多い。
会話を中断して見てくる女、きゃーきゃー騒ぎながら気を引こうとしてくる女、直接ナンパしてくる女、様々だ。何か特別な匂いでも撒き散らして歩いているのだろうか。
「あぁ、さっきの従業員か。まぁ単に感度がいいんだろ」
落ちてきて眉間にかかる巻毛を、人差し指で弾きながら言う礼。
「か、感度っす、か……あ、いや、従業員もっすけど、客もガン見してたじゃないっすか」
「ふうん。オレを見てたって事は感じてんだろ」
「!?」
なんて事を言い出すんだと思いながら、どんな顔をしていいのか悩む武。
「そんな風には見えなかったから、少し意外だけどな」
”そんな風に見えない”
その言葉で、ふいに礼との出会いを思い出す。
「それって、能力の事っすか?」
武の問いに頷いた礼。
「ずっとその話だろ?」
自動販売機の前で立ち止まった礼は、缶コーヒーばかりを適当に3種類買い、付け足すように言った。
「ま、関係ない人間のことなんて、どうでもいいけど」
「あいかわらずドライっすね」
歩き出した礼の背中に、武はそう投げつけた。