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ファン失格だけど、綺羅星のあなたを讃えてもいいですか?

モラハラ幼馴染の『気遣い』がヤバ過ぎて、妖艶なお猫様に「それ要る?」と真顔で諭された件~理不尽系ヒロインと抵抗できない男子の心理分析~

理不尽系ヒロインのモラハラが酷すぎたので不思議なお猫様と彼女の心理を考察するお話です。緩いファンタジー設定がありますが、神様的存在が居るというふわりとした認識でお読みください。

 僕は猫を被る。

 頭の上からすっぽりと。覆い隠してごまかして。

 本当の自分を見せることはない。


「おはよう、翔太」


「あ、おはよう葵ちゃん」


 今日は「当たり」の日だ。

 

 彼女は桐崎葵(きりさきあおい)

 艶やかなロングヘアが目を引く、可愛らしい女の子。

 

 まるでアニメキャラみたいな藍色の髪である。それには僕らの世界に関する基本設定めいたものがあるが、本筋には一切関係ないので割愛。

 

 いわゆる幼馴染で、幼稚園の頃から仲が良い。

 小学校に続いて中学校も同じになり、クラスも一緒だ。

 他の誰よりも距離感が近い、と思う。


 僕は猫を被る。

 それを被るのは、世界でたった一人の相手だけだ。


「来年にはもう高校生か。想像つかないね」


「そう、だね。あっという間だ」


 無難に答える。大丈夫。今日は落ち着いている。


「変化って苦手。私達は近くに高校があって良かったね。歩き慣れてる、地元が一番」


 彼女は近くの高校に進学予定らしい。


「うん。でも僕は受験、する。行きたい学校があるから」


 そんな風に、他愛無い受け答え。

 すると彼女は急に押し黙り、足を止めた。

 ひやりと背筋に嫌なものが走る。


「どうしたの」


 声を掛ける。


「あのさぁ、なんなのよ!」


「えっ」


「なんでわかんないの!? わかってよ!」


 大声を上げて、こちらに詰め寄る。

 両目を見開き、異様な剣幕。

 ここ数週間なくて、油断していた。

 彼女の、地雷を踏んだ。


「ごめん。な、何か気に障った?」


「それ言わないとわかんないの!? もういやぁぁぁぁ!」


 そう言って、走り出して行ってしまう。

 残された僕は呆然と、立ちすくむ。

 通行人がこちらを見ており、足早に学校へ向かう。

 教室でまたあの子に会うのがあまりに憂鬱だった。


 僕は猫を被る。

 あの子に対して、猫を被る。


 彼女はキレる。

 うっかり服からシャツが出ているとキレる。

 だらしないところを見せるとキレる。

 

 それは仕方ない。

 だらしない自分に問題があるからだ。

 

 重たそうな荷物なので持とうかと声を掛けたら激怒される。「これは私のだから!」と大声でキレる。

 

 相手の荷物を持とうとしたのだから当然だ。

 余計な気遣いって奴だね。


 翌日。


「おはよう」


「っ、そういうの、いいから」


 挨拶をするとキレる。

 

 機嫌が悪いらしく、溜め息を吐く。

 昨日の苛立ちを引きずっているようだ。

 こちらに顔も向けない。

 ただ厳しい顔つきをしている。

 

 体調が悪いのかもしれない。

 配慮できない自分が悪いから、仕方ない。


「ごめん。でも、朝だし」


 反射的に答える。

 上手い切り返しではない。


「会釈でもしてればいいじゃない!」


 大声に、ひるむ。


「わかったよ、そうする」


「あああああああああああもおおおおおおお」


 彼女は突然キレる。

 苛立ちが限界に達すると無視のはじまりだ。数日ほど無視をし続け、やがて向こうから気まずそうに話しかけて来る。

 

 「今日何のアニメ観た?」


 そんな話をして、緩やかにいつも通りになる。


「僕が悪いのかな。よくわからない」


 飼い猫のルビーを相手に愚痴をこぼす。

 高齢で最近は寝ていることが多い。

 この子だけが胸の内を吐き出せる相手だった。


 友達も多くない。

 同級生からは大抵、こんなことを言われる。


「良いよな桂木は、超美人の彼女が居てさ」


 僕と葵ちゃんは幼馴染だ。

 付き合ってはいないし、彼氏彼女ではない。


「あれだね、恋愛未満の何か。ラブコメ漫画だと結ばれるまでの色んな出来事が、楽しいんだよね」


 彼女は機嫌が良いときは優しい。

 漫画やアニメの話をしたり、休日には遊びに誘われることもある。買い物や図書館に行ったり、軽食を取ったり。


 世間一般的には、リア充。


「また、口を聞いてもらえなくなった。挨拶をしても目を逸らされる。溜息を吐かれる。まぁそれだけ。それだけだよね。本当に」


 愛猫のルビーにだけ、表に出せない気持ちを吐き出す。返事はない。だからこれはただの独り言。


「嫌われたのかと思って諦める。でもしばらくすると向こうから話しかけて来るんだ。そして元通り」


 彼女はとても気分屋で、朝会うたびにゲームで言うところのガチャを引くような気分になる。普通に挨拶をしてもらえるだけで当たり。運が良ければその状態が続く。

 

 だけどある日突然、何かの拍子に彼女は無視をし始める。ゲーム同様に外れの方が多い。

 

 溜息を吐かれるのもキツい。

 わざわざ目の前で「私はお前が不快です」と表明する。


「どうしたらいいのか、わからない」


 最も気持ちが沈むのが、彼女の不機嫌の理由が意味不明に近いことだ。

 

 先日なら「高校の進路」に関する言葉だろう。

 でも、前にも言った。

 忘れていたようだから、改めて伝えただけ。

 あるいはとぼけていたか。

 

 背後にある何がしかの感情は見て取れる。

 でも、幼馴染がどこ受験してもいいよね。

 

 恋人同士なら、わかる。

 付き合っている男女なら「彼女の気持ちも考えてあげなよ」と誰かに助言されるかもしれない。


 でも、付き合ってない。

 ただの友達だし、告白されたわけでもない。

 

 例えば一緒に歩いている際に、彼女の友達らしい女子と顔を合わせたときのことだ。


「あ、デート?」


「いやいや違うって。偶然そこで一緒になっただけ。家が近所で姉弟みたいな感覚。付き合うとかはないよ。本当に絶対ないから」


 そんな風に本人がバッサリ言う。

 こちらもそうだね、としか返せない。

 

 で、問題は。

 何故付き合っても居ない幼馴染の進路で、そこまで不機嫌になるんだ、と言うことだ。

 

 同じ高校へ行こうね、なんて約束は一度たりともしていない。昔から僕は自分の進路を伝えている。

 それを彼女は明確な説明もなく、不機嫌で返す。

 

 考えても、自分の落ち度が不明瞭。

 今回に限った話ではない。

 

 過去数年間に渡って彼女は延々とこれを繰り返している。

 もはや日常風景。しかし年齢を重ねるごとに怖さが増している。迫力が増し、冷や汗が出るような剣幕で、もはや「いつものこと」と流すことも困難になる。

 

 と言うか、きつい。

 僕は何かしたのだろうか。


「何らかの落ち度はあるかもしれない。でも一つ一つを考え直すと、どうしても自分が悪いとは思えないんだ」


 彼女の苛立ちのきっかけはわかりにくい。

 主にこちらの言動や態度が引き金になるようだ。

 

 例えば、近所のおじさんに挨拶をされたとする。

 顔見知りなので、僕も挨拶を返す。

 すると、彼女は何かカチンと来るものがあるらしい。その場では何事もなく、普通にしている。でも緩やかに彼女は不機嫌になっていく。

 

 教室の中では、露骨な態度は取らない。僕が何かの拍子に話しかけても反応してくれない程度だ。


 一日、二日、三日。

 何故だか通学路で彼女は待っている。

 声を掛けると、向こうは「うるさい」と呟く。

 不機嫌そうな顔をして立ち去る。

 しかし翌日も同じ時間帯で待っている。

 素通りすると「何なのよ!」と絡んでくる。


 君が何なのよ、だよ。

 

 無視は悪手らしいので、無言で会釈対応に切り替える。

 彼女は溜め息を吐き、あるいは気まずそうに足早に去っていく。

 何をしたいのだろう。


「嫌いなら嫌いでいいんだよ。登校時間をずらすとかしてくれればいい。前に僕がそれをしたらさ、彼女はこちらの時間に合わせてきて、恐ろしく機嫌が悪くなった。だからいつも通りにしたよ。逃げられないね」


 彼女も僕を心底嫌っている風ではない。

 距離を置くと、近づいて来る。


「あの子は一応、こちらに気を遣ってるんだよね」


 長い付き合いなので、わかる。

 

「自分が不機嫌なのは理解してる。だから、こちらへの気遣いで、不愛想な態度をしている。いや僕がそう思うだけかもだけどね」


 言葉にすると、意味不明。

 ただ、そう感じることが多いのだ。

 無視をされても、普通に接しようとしたことも何度となくある。

 

 そうすると、「あんたに迷惑かけてると思ってるから気を遣ってるのに!」と激高されたことがあった。それで恐らく「気を遣ってそんな態度をしている」んだろうなとわかった。


「よくわからん」


 深い溜め息を吐き出す。


「気を遣うなら、もっと別のことがあるでしょ」


 まさに意味不明。

 感情的になってるなら自分から避けて欲しい。


「こっちが避けると近づいて来るし、無視で返すとキレてくる。あの子がキレるとさ、僕も怖い。だからいつも通りにしてしまう」


 最悪なのは、機嫌が良いときは機嫌が良いことだ。


「穏やかなときは良い子なんだよ。話を振ってくれたり、お菓子くれたりね」


 ずっと、それが続けばいいのに。

 彼女の機嫌が良いときは、僕も楽しく感じる。

 まるで漫画の青春ものみたいなやり取り。


「でも突然、何かをトリガーにして彼女は怖くなるんだ」


 非常識な振る舞いはしていない、はずだ。

 彼女がどれだけ機嫌が悪くても僕は普通に接する。それがベストだと今までの経験で学んだ。


 文字通りの猫かぶりを極める。


「こっちが普通にしないとね、もっと機嫌が悪くなるんだ」


 同じような態度を返すと傷ついたような顔をする。避けようとすると近づいて来る。そして機嫌を取るような優しい態度を見せて来て、僕がうんざりしている風だとあちらもかなり必死になるようだ。


 そうなると、僕も徹しきることはできない。

 無視を重ねると、最終的にやはり向こうは盛大にキレるのだ。

 何なのよ、と。もう、いやああああ、と。


「普通の状態が続けば良い子だよ。でも不機嫌一色なことも多いから、あの子の普通って何なんだろうね」


 だんだん気持ちが擦り減って来た。

 

 素直に一緒に学校行くのやめよう、と言えばいい。

 僕のことが嫌いなら、それでいいから。

 適切な距離を取ろう。

 お互いに別の人間なんだし、無理に近づく必要はない。

 ただの幼馴染で、姉弟みたいなものなんでしょ?

 本当は、ちゃんと伝えるべきだ。

 

 でも勇気を出してそれに近いことを言おうとしたらすごい勢いでまくし立ててくる。こちらの意図を察したように、彼女は先手を打つ。


「今度一緒に遊びに行かない!? 映画のチケット貰ったんだ」


「あ、うん。いいよ」


 僕は疲れて来て、反射的に頷いてしまう。

 その態度もとても良くないとわかっている。

 だけど、彼女を前にすると反抗する気力が萎える。

 

 なんと言うか、怖い。

 逆らうとまたキレられるかもしれない。

 その恐れがいつしか、僕を支配していた。


「なんか疲れた」


 両手で顔を覆う。ルビーにだけ、そう訴える。


「避けられない。同じ学校の同じ教室だから」


 通学路も同じ。どういうルートを通っても同じ学校だ。避けても向こうから接近してくる。だから、結局はなるべく平常通りが一番いい。


「でもさ、いじめとかじゃないんだよ。性格の不一致って奴さ」


 全体から言えば親しい仲。

 彼女も他の異性とそのように接する様子はない。

 僕にだけ、一定の親密な接し方をしてくる。

 もちろん、見えている範囲の話だが。

 

 好きとも嫌いとも言ってこない。周囲には「ただの幼馴染」アピールを常に徹底している。

 もはやどういう関係なのだろう、となってくる。


「避けられない。拒否できない。疎遠になってくれたらと思うけど、それを許してくれない」


 自分は大人しく従順な性格だと自分でも思う。

 特にキレられたり、無視をされるのがひどく辛くて、だから彼女を不快にしない態度を心掛ける。でも彼女の心を窺い知るのはとても難しい。


「向こうも悪いと思っているんだよね。それはわかる」


 彼女は謝ることもなく、気まずそうにしてくる。

 かすれた声で話しかけて、またいつも通りに戻る。

 その状態が続くこともあるが、一定期間でまた元の木阿弥。

 申し訳なさそうな様子を見せる。

 稀に「ごめん」と言うこともあった。

 

 だからこちらも鷹揚な態度で返す。

 別になんでもないからいいよ。


「ただ、穏やかに受け流し続ければいいと思ってた」


 いつも通り、何事もなかったように振舞うのがベスト。

 それが最も落ち着きやすいパターン。

 だけど油断すると即座に情緒不安定気味になり、彼女はこちらに対する怒りとも哀しみとも取れない態度を取ってきたりする。

 

 無数のイライラスイッチを抱えている女の子。

 地雷まみれで生きている。


 自分の態度も難有りだと、本人も自覚しているフシはある。だからこそ、関係修繕期を設ける。

 

 手作りのお菓子をくれたり、機嫌を取るような態度で接してくる。冷たくすると、また彼女の態度はバランスを欠く。


 家族に次いで近しい相手なのは間違いない。

 もはや日常の一部。

 何事も、多少のことは許し合うべき。

 

 僕はいつしか心をなるべく空っぽにするようにしていた。猫を被り、無を極める。そして、いつも通りに戻るように心がける。


「でもあの子は同じことを延々と延々と延々と延々と繰り返す。繰り返し続ける」


 一時的には安定し、急に機嫌が悪くなることを何度繰り返しただろう。脈絡なくキレてくることが多い。それが嫌で嫌でたまらなくて。


「もう無理」


 自分でも驚くほど暗い声が出た。


「付き合ってないから別れようとも言えないし」


 ただの幼馴染で、親しい友達。

 僕らの関係はそれだけだ。


「そこがもうね。本当にさ」


 ルビーはうたた寝をしている。

 うるさくしても可哀想なので、自室に戻る。


 今日はお母さんは夜勤だ。

 お父さんは僕が小学生の頃に病気で亡くなっている。

 他に家族は居ない。祖父母も他界済み。

 親戚とも疎遠で、相談できる友人も居ない。

 

 真っ暗な部屋の中で、ぼんやりする。

 僕は受験生だ。

 ずっと目指していた夢がある。

 一分一秒も時間は無駄に出来ない。

 今の世の中で、それを志すなら常に全力で挑むべきだ。

 

 でも。

 たった一人の女の子に、振り回されている。

 自分でも想像以上に、あの子の相手に疲弊していた。

 ただ顔を合わせるだけで、胃が軋む。

 

 もはや向こうの、機嫌が良いときすら。

 

 だってそれは。

 キレるまでの、前振りだもの。

 

 手近なクッションを手に取り、壁に投げる。

 同時に、声をあげた。


「他の相手には普通なんだよ、あの子!」


 頭を抱えて、しゃがみこんだ。


「なんで、僕だけ。なんで、なんで。なんでぇ」


 周りに対する態度は、ごくごく普通だ。

 僕に対してだけ、何故かそんな態度を取る。

 桐崎葵は、そんな娘だ。


 どれだけ苦しくとも、時間は同じ速度で流れる。

 日常に回帰し、再びいつものやり取りを重ねる。

 少しでも負担を感じないように、無色透明で居るのが肝要だ。


「どうかした? 最近、元気ないけど」


 彼女は何故だかそんな風に聞いて来る。

 君が原因だよ、とは言えない。

 同時に、別の不安も抱えていたのでそれを吐き出した。


「ルビーが、うちの猫が調子悪くて。もう高齢だから」


 生まれたときから一緒に居た、家族。茶色の毛並みがとても柔らかく、触れているととても心が落ち着く。一人で過ごすことが多く、誰よりも救いになってくれている。

 

 でも、年相応に具合が良くない。食欲が無く、眠ってばかり。病院に連れて行っても、年齢が年齢だからと言われる。

 

 すごく不安だ。ルビーが居なくなったら、僕はどうしたらいいんだろう。


「ふぅん」


 彼女はどこかうっとおしそうに、眉を顰める。


「猫ってさぁ、死期が近づくと姿を消すって言うよね」


「え?」


「それよりさ、先週の週刊少年Festivals様読んだ?」


「あ、あぁ。えっと」


 僕は適当に答えつつ、彼女の言葉を胸の内で反芻していた。

 猫って、死期が近づくと。

 は?

 理解できなくて、頭の中が混乱する。

 彼女の話すどうでもいい雑談が耳を素通りした。

 急に我に返ったような気分だ。

  

 この子は、一体何を言っているんだろう。

 

 他人の家の飼い猫のことなんて興味がない。

 それはそうだろう。

 でも、彼女もルビーのことは知っている。

 家に遊びに来たことも、幼い頃はあった。

 

 お父さんの代わりに僕を守ってくれている。

 そんな思い入れを、何度も語ったことがあった。

 彼女は過去には「そうなんだ。じゃあ大事にしないとね」と普通に返してくれた。


 なのに何故、今回に限って。

 死期がどうとか、今言う必要ある?

 そういう会話の流れだった?

 

 日頃から僕が猫好きなことは何度となく話している。雑談の中にルビーについて触れることだって多い。短くない付き合いなのに。

 

 どうしてそこまで無関心?

 

 いや別に関心ないのはいい。

 他人の家のことなんてそんなものだ。

 彼女の言葉は全て受け流すのが得策。

 

 でも、どれほど繊細と言われようとも。

 あまりに無神経が過ぎる。

 彼女のその言葉は、僕の全人生の中で最も不快だった。

 最高値を更新して、突き抜けた。


 顔がこわばって、静かに体が震える。

 別にいいよ。他人の家の猫のことだもんね。

 君には関係ないよね。

 だけど、だけどだけどだけどさ。

 それなりに親しい幼馴染で、姉弟みたいなもんだって言うならさ。



『ふぅん。猫ってさぁ、死期が近づくと姿を消すって言うよね。それよりもさ』



 もう少し言葉を選べんのか、この女は。

 

 腹の底から何かが湧き立つ。

 そんな静かな怒りだった。

 なまじ悪意がなさそうだから余計に気に障った。

 

 常日頃から何事かにキレている彼女自身が、相当に無神経。ただし、暗くなりそうな話題を強引に変えたとも受け取れる。


 ルビーはとても大事な存在。

 無下にされれば辛い、泣き所。

 一つの聖域。だからこそ。

 

 溜め息を吐いて、気持ちを宥める。

 神経質になっているんだ。

 漂う疲労。抑えきれない何か。

 そろそろ、限界に近い。

 

 日々積み重なるストレス。謎の不機嫌。

 顔を合わせ続けなくてはいけない毎日。

 半強制的に強いられる関係、彼女の態度。

 意味不明さに、ただしんどくなる。

 

 なんでこんな娘と、無理して接してるんだろう。

 

「ねぇ、ちょっと聞いてる?」


「あ、ああ、うん」


 生返事をする。

 今君のせいで気分悪いから黙ってくれる?

 いっそ言ってやろうかと思った。

 次の瞬間。


「猫のことなんてどうでもいいでしょ」


 フリーズする。先手を取られた。

 こちらの心を読むように、じっと睨んでくる。


「前々から、気になってたんだけどさ」


「え」


 彼女はこちらに向き直り、まっすぐな目で言う。


「猫に恋するみたいなの、やめなよ。気持ち悪い」


 ぴしっ、と何かがひび割れた。

 漫画ならあれだ、そういう演出の入るところ。

 

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

 え、なに?

 何言ってんの、この子。

 こちらの戸惑いを無視して、彼女は言い立てる。

 

「ほら、今の時代ってそういう人多いって聞くじゃん? 猫フェス様ってちょっとセクシーな創作とか多いし。男子だからそういうのも好きなのわかるけど、猫のことばっかり気にしてるって、ちょっと変だと思う。そういう趣味、良くないよ」


 言葉も返せず、固まる。

 そういうの、とは?

 なんでフェス様の話になるんだ。

 彼女は溜まりに溜まったものを吐き出すように言う。

 

「早く変な趣味からは卒業しなよ。本当に。ああああああ、もう」


 不機嫌そうに髪を掻き上げる。

 小声で、彼女は呟いた。


「はやく、しねばいいのに」


 ぽそっとした声が、耳をかすめた。

 一体何に対してそれを、言った?

 今、なんて。


「ねぇ、わかってる?」


 ぐっと顔を近づけて来たので、後ずさる。


「あなたのために言ってあげてるんだよ!?」


 桐崎葵は、理解不能の最高値を突破した。



 その夜、僕はぼんやりと自室で机に向かっていた。

 やらなきゃいけないことがある。

 夢のために、ずっと頑張ってきた。

 誇らしい、評価A。

 後は残りの期間でどれだけの作品を提出できるか。

 

 でも、何故だか頭が回らない。

 大事な時なのに。

 自分の将来を左右する、学校への進学。

 ほとんど唯一と言って良い希望。

 

 お母さんは今日も夜勤だ。

 ルビーの寝顔を見に行くことにした。

 彼女のために設えた、柔らかな寝床。

 いつも居るはずのそこに、ルビーの姿はない。

 つい数十分前に、ここで寝ていたはず。


 慌てて家中を探す。

 屋内飼いで、外に出ることなんてほとんどない。

 最近は本当に、ただ眠っているだけで。

 

 見ると、庭に面したリビングの扉がわずかに開いていた。

 何かの拍子に開け、鍵を閉め忘れていたらしい。

 

 慌てて、外に探しに行く。

 不穏な予感に血の気が引いた。

 どうして、ちゃんと注意しなかったんだ。余計なことに気を取られて、本当に大事なことを気遣えなかった。

 

 大事な家族が姿を消した。

 しかも体が弱っている。

 どこかで震えているかもしれない。

 車や自転車に轢かれていたら。

 そんな悪い想像が駆け巡る。

 

 アテもなく近所を回っていると、不意に猫らしき何かが走っていくのが見えた。慌てて追いかける。

 

 近所の公園だ。

 影を追いかけベンチへ辿り着く。

 そこには、愛しい猫の姿があった。灯りで照らされていて、まるで舞台のスポットライトのようだ。


「ルビー、ルビー」


 目をつむり、眠っている。

 いつもの通り。手を伸ばして、目の前が真っ暗になる。

 僕が生まれる前から家に居た、姉のような存在。自分の人生の全てを共に過ごしていた。

 

 そんな大好きな猫が。

 すっかり冷たくなっていた。

 

 僕の、家族。


「ルビー」


 そのとき、僕の世界が終わった。


「残念ね。もう亡くなってる」


 誰かの声がした。

 振り返ると、そこには奇妙な猫が居た。

 頭から白いヴェールを被り、金色の瞳を覗かせる。人間サイズの黒いブラウスを強引に身に付けている。

 

 そんな不思議な姿。


「こんばんは。あなたの猫ちゃん?」


 猫が喋った。


「キャッツ系統?」


 驚きはするが、別の意味での驚きである。


「私はいわゆるフェス様って奴ね」

 

 猫の姿をした超越者、Festivals様だった。


 僕らの世界は少し設定が複雑である。

 簡単に言えば、宇宙生命体が定住している。

 

 説明すればそれだけだ。

 そのような不可思議な存在が居ると言う理解で良い。

 

 大昔に侵略者が来た。

 滅亡しかけた人類を助けてくれた救世主。

 愛称、フェス様。

 彼らは人類の娯楽に興味があり、しばらくこの世界に留まると告げた。そういう歴史がある世界だ。

 

 彼らは魔法のような不思議な能力を持つ。

 人類のアニメを見て「カラフルな髪が欲しいならいくらでもあげる」等と言い、それ以降に生まれてくる子どもの髪色が多彩なものになったり、その力は絶大だ。


 時折、人類の前に姿を見せてファンサービスをする。姿を見せるのは動画や、特定の聖地限定。大半の人類にはお目にかかる機会はない。神様的存在であり、人類にとってのアイドル。


 彼らの姿は実に多種多様。

 人類文化に触れて学び、動物やアニメキャラクターのようなデザインを基本としている。

 

 名前はそれぞれの種族の複数形。

 

 鴉モチーフならクロウズ。

 猫モチーフの御姿ならキャッツ。

 あるいはネコマターズ。

 後者は化け猫風で尾が複数な個体が多い。

 

 目の前の御方は尾が一本。

 よってキャッツ、ということになる。

 

 自宅にルビーを連れ帰り、お母さんにその死を伝えた。しばらくの間は共に静かに愛猫の喪に服した。

 

 その日以降、僕は学校を休んだ。行くようにとは促されたが、そんな気にもなれなかった。

 

 お母さんは仕事がある。

 辛くても哀しくてもやらなくちゃいけないことはあるんだよ、と。

 そんなとても正しいことを言ってきた。

 

 でも、無理強いはしなかった。

 

 部屋に戻ると、あの猫が来ていた。


「こんばんは。漫画描いてる?」


 お猫様はちょくちょく僕の様子を覗きに来ていた。彼らは娯楽を愛する生命体。漫画家志望に興味があるらしい。


 キャッツ系統は可愛らしい動物の猫の姿が基本。

 人間の姿にも化けられるらしく、一部はそんな姿も披露している。可愛い猫耳美少女などだ。葵ちゃんが言っていたのは恐らく、その辺りの事情も絡む。


 彼らは面倒くさがり屋で、のんびり屋。

 まるで猫のような。


 人類にとっては強烈な人気を誇る一方で、触れ合う機会はない。動画でのみ姿を見せ、年中お休みにゃー、といったメッセージを発している。


 お会いできるのは本当に貴重。

 稀なる豪運で、僕は会えた。

 

 あるいはルビーが連れてきてくれたのかもしれない。

 自分の代わりに、話し相手をしてやって欲しいと。

 そんなお願いでもしてくれたのかもしれない。


「あなたの漫画、いいわね。絵も上手いし、話も良く出来てる」


 お猫様は空中に漫画のデータをモニター画面のように広げていた。SF映画や魔法のごとき光景。見ていて、その神秘性に溜め息を吐く。すごい、本当にフェス様なのだと思う。


「おほめにあずかり、大変光栄です」


 慣れない敬語を使って、平伏する。

 

 僕は猫フェス様を常日頃から敬愛している。もう大好き。猫好きだし。ちなみに性的な興味はない。

 そんな不敬なこと考えるわけがない。お猫様だよ?

 だから葵ちゃんの変な発想にもかなりうんざりした。

 

 猫のことばかり考えて、そう言うの良くないよ。


 発想が斜め上の、何かだ。

 短くない付き合いがあるのに、おいおい、と。


「別に(へりくだ)らなくていいよ。あの猫ちゃんを看取った縁もあるし。それと、単に創作者には興味があるしね」


 お猫様は鷹揚に言う。あぁ、なんて素晴らしい。

 気品があって、下々の者への気遣いに満ち溢れている。


「あの、ちなみにお名前を窺ってもよろしいですか」


「カトゥス。フルネームは内緒」


「お猫様、ではなく確か動物の猫の学名がラテン語でフェリス・シルヴェストリス・カトゥス、でしたか。それが由来?」


 響きが極めてカッコいい。ファンタジー感が強くてゲームのキャラみたいな。さすが猫。


「そんなところね。他は全部秘密。その方が神秘的(ミスティック)でしょ?」


 首を動かすと、ヴェールがふわりと広がる。

 なんと言うか、艶やか。

 佇まいに品があり、美しさの化身。


 何とも見とれてしまう。

 動物の猫をベースにしつつ、神々しさが加わったような。


「そのご衣裳も、素敵ですね。由来などは?」


 大人の女性サイズのブラウスみたいな服だ。

 首で結んで強引に身にまとっている。

 ダブっとした布あまりで、他にも綺麗な布切れを付けている。

 

 人間の服をお洒落にアレンジしているような。

 気取った感じがなく、なんかいい。


「無くもないけど、気に入ってるからかな。裸でも猫的には全然いいんだけどね。私の性格と言うだけ」


 メディアで知られる別のお猫様の見た目は様々。

 衣装持ちだったり、普通の猫のようだったり。

 猫が色々居るように、猫フェス様もバラエティ豊かである。


「とても素晴らしいご趣味だと思います。あ、なんか変な言い方になりますね」


 気が付くと崇拝するみたいになってる。

 猫を崇めよ。お猫様を崇めよ。

 最近ストレスしかない日々なのでテンションMAX。

 

 今だルビーの死から立ち直れていない。

 気が抜くと寂しくて沈み込みそうになる。

 浮かれなきゃやってられない。

 だからか、余計目の前のお猫様を崇める気持ちになった。


「もっと普通でいいよ。あなたがどんな態度を取ろうとも、別に罰なんて与えないし、人類への態度を変えることは一切ない。何かあれば記憶消すだけだしね」


「ありがとうございます。あぁ、なんてお優しい」


 我ながらキャラが変わっている。

 誰だてめぇ感がある。

 でも何だか、楽しい。

 お猫様が居るのが嬉しい。泣きそうになるくらい。


 存在があまりに、救い。


「ところで、あなたの漫画ってこれだけ?」


「えっと、後はまだ途中で」


 執筆は基本デジタル作画だ。本当はもっと描かなくてはいけないが、最近モチベーションの維持が難しかった。


「今の調子で、締め切りに間に合うの?」


 お猫様は訳知り顔で言う。


「えっと、ご存じですか?」


「知ろうと思えば何でも。あなたが例の学校に受験してる真っ最中なのもね」


「はい。まさにその通りです」


 いわゆるテレパシー。

 フェス様は全知全能の絶対者。


「聞きたいことがあるんでしょ?」


 隠し事をする必要はないし、話も早い。


「僕の漫画はどうでしょう。A判定は頂いているんですが、受かるかはまだわからなくて」


 僕が受験しているのは創青天上院高校(そうせいてんじょういんこうこう)というクリエイター系の学校である。娯楽を愛でるフェス様のために人類は様々な形で創作者を支援する動きが強まり、そして生まれた有名な学校である。

 

 入学金・授業料など諸経費無料。生活費の支給。

 毎月のランキングに応じた月間報酬が貰えたりと、若い創作者を援助する学校機関の最高峰。

 

 ただし、相応に競争率も激しい。


「才能もあれば、努力もしてる。あなたの作品は素敵、と手放しで言えるね。でも、それだけじゃ足りないのもわかるよね」


 お猫様の声は人間の女性のように聞こえる。

 年上のお姉さんと話している気分だ。

 所作もどこか色っぽく、妖艶な御方である。

 動物の猫の姿であるので、まぁ猫基準で。


「はい。自分でもよく描けてるとは思う反面、最高傑作と胸を張って言えるパワーはないような」


 抜きんでた面白さや手触り、と言うのか。

 何かが足りていないと思った。


「恐らく今のままでは受からない。特に大事なのは綺羅星のような輝きね」


「綺羅星、ですか」


 大昔のフェス様の逸話だ。

 人類の漫画を読んで感動して「まるで綺羅星のようだ」と言ってくださったと言う。

 

「無数の感情のうねりや執着、突き抜ける己のエゴ。愛欲や憎悪、狂気。あまたの人類が生み出すその魅惑の味を、我らは望んでいる」


 どこか淑やかにカトゥス様は言う。


「今足りないのは、まさにそれです。全身全霊をぶつけるような激しさや熱い魂。それは自分でも感じてて」


 世の中に己の創造を叩きつけるような情熱。

 圧倒的な力強さ、心が震えるような何か。

 普通に良く出来ました、ではライバルに勝てない。

 でも、ここ数か月の間、すっかりそんな気力が萎えていた。

 

「何か余計なことに気を取られているね。酷い雑念がある」


「え、えぇ。気が散ることが多くて」


 つい話を逸らしてしまう。

 幼馴染の少女の癇癪が怖いから、なんて。心を読まれている。本当は隠さなくてもいい。しかし、自分の至らなさを全て他者の責任にするのはどうなんだ、とも思う。

 

「別にそれはいいと思うよ。不安の理由は様々。気にかかるのは当たり前。問題はそれを振り払って、一心不乱に挑まないと厳しいんじゃないか、ってことよね」


「はい。その通りです」


 余計なことを考えている暇はない。

 今は秋。締め切りは年末だ。

 

 入魂の一作を完成させて、提出する。

 二次審査までは通っている。

 

 後は本当に作品の評価で決まるという段階だ。

 己の創造によって裁定を受ける。

 あなたは合格か、不合格か。

 

 現代は漫画家が過去に比べて激増しており、有名な学校の卒業資格も必須レベル。権威ある賞へのエントリーなどの「前提」とされることも多い。

 

 趣味としてなら別だが、職業作家になるなら避けては通れない。母子家庭で生活に余裕があるわけでもない。

 

 だからこそ学費無料の有名校に受かるか否かで、今後の作者人生が大きく変わる。漫画家としての可否を問われているに等しい。


「若いうちから人生の決断を迫られるのも気の毒だけどね。何事も社会の在りよう次第よね」


 娯楽を愛する生命体の居る世界。

 激化する競争。娯楽産業の飽和。

 エンタメの価値もまた大昔とは違う。


「僕らの世界はあれですね、現代ファンタジーかSFみたいな調子ですからね。娯楽に熱上げ過ぎてて、漫画みたいな」


 カトゥス様はちょっと笑う。


「そういうメタなことは私達が言うものなの」


 僕も頬が緩む。

 優しく、柔和な態度で接してくれる。

 子ども相手だからか、それとも。

 そのとき、チャイムの音が響く。

 玄関に行こうと立ち上がると「待って」とカトゥス様に止められる。


「あの子が来てる。あなたの気が散る元凶ね」


 ぞわっ、と背筋に嫌なものが走った。

 葵ちゃんは僕の自宅を知っている。

 数日休んでいる僕が、気になって訪ねて来た。

 そんなところか。


 でも、顔を合わせたくない。

 学校を休んだことでハッキリと気付く。

 物凄く重荷に感じていた。彼女の存在に。

 

 身勝手かもしれないし、傲慢だけど。

 とにかく、会いたくない。

 チャイムは一度鳴ったきり、その後は静かなまま。


「ど、どうしましょう」


 自分でもどうかと思うほど、不安な声で聞く。

 壮絶なまでのプレッシャーを感じた。


「大丈夫。ポストに何か入れて、そのまま帰っていくところだよ」


 カトゥス様は窓の方を見ながら言う。

 恐る恐る立ち上がり、窓から外を見下ろした。

 ちょうど自室は玄関に面した二階にある。

 

 葵ちゃんの後ろ姿が見え、去り際にこちらを見た。

 血の気が引き、そのまま姿を隠す。

 両手で口を抑える。

 気づかれていないかと心臓がばくばくした。

 

 どうしてか、もはや。

 恐怖の対象になっていた。


「もう平気。完全に離れたよ」


 カトゥス様の言葉を聞き、玄関へと向かう。

 ポストに、手紙が入っていた。

 宛先は僕の名前だ。

 無地の便せんを開けると、メモが入っていた。


「猫と遊んでばかりで、楽しそう」


 そんな走り書きだ。

 ボールペンか何かで書いたらしい。

 意味が分からず、困惑する。


「私のことは何も気づいてない。ルビーちゃんのことね。休んだ理由は知らないから、こう書いたんじゃないかな」


 気が付くとカトゥス様が僕の肩に乗って、手紙を覗き込んでいた。


「何でしょう、これ」


 意図が読めるようで、読めない。


「しかも自分の名前は書いてないし、なんか怖いね」


 全くその通り。不気味と言っていい。

 

 ルビーの死は知らないとして、だ。

 飼い猫が調子を崩しがち、と伝えた。

 それを心配していたのは知ってるはず。

 

 どこから「楽しそう」なんて言葉が出て来るんだろう。

 あるいは自分の言動で、僕が休んだと思った?


「にしても、ですよ」


「回りくどいよね。ちょっと面白いレベルで」


 人の悪そうな、と言うか。

 猫の悪そうな風にくすくす笑うカトゥス様。

 とりあえず、手紙は引き出しに入れておいた。

 

 翌日も手紙が入っていた。

 翌々日も手紙が入っていた。

 いずれも匿名だ。

 

 繋げると、こういう感じだ。


『わたしは、あなたが猫のことばかり気にしていて、何だかすごく嫌だった。昔から、ひどく不快に感じた』


『人間以外の存在に関心を寄せるのは今の世の中ではありふれているけれど、あなたにはちゃんと真っ当な人生を歩んで欲しいと思う。だからああいう言い方をしました。申し訳ないけど、全部本音。不愉快。もう、猫のことは忘れて欲しい』


『節度を持とうよ。わかるでしょ?』


『漫画家になりたいのも知ってるけど、今の時代それがどれだけ大変かは知ってるよね。だから止めてるのに、ちゃんとした道を歩んで欲しいから。あなたはいつも無自覚で。そういうところも嫌だった。わたしはあなたの為を想って言ってあげてるの。それをわかってほしい』


『身の丈に合わせた生き方をしようよ。身の程を弁えよう』


『同じ高校に行こう。教室で会えるの、待ってる』


 いやだから、どういうことなの。

 もはや、まごうことなき怪文書。


 僕らは赤の他人。

 なのにどうして、そこまでこちらを気にする。

 趣味や将来の夢について気に掛けすぎ。


 軽く心配する程度じゃなく、なんか異様。

 わかるようでわからない。

 重要な情報が欠けているような違和感。


 思い浮かぶものはあるが、脳が理解を拒む。

 もしも『気遣い』でやってるなら相当に怖い。

 

 これ何かしらリアクション起こさないといけないんだろうか。彼女と会わなければいけないわけ? 直接対決しないと盛り上がらないとか言われる奴?

 

 窓を不安気味に覗き込むと、あの子が玄関の前に立っていてゾッとした。

 

 もうやめて。


「それで今日の不幸の手紙はなんて書いてあったの?」


「不幸の手紙って。いや、そうですけど」


 聞かなくても千里眼的な力でわかるだろうが、カトゥス様は読み上げをお望みになった。なので本当に嫌だが、文面を口にしていく。


「このままじゃあなたはダメになる。外の世界を見ようよ。あなたは狭い世界に囚われているの。猫だけが人生じゃない。漫画だけが人生じゃない。別の生き方を、怖くても見つけなくちゃいけないときなの」


 何を言ってるんだこいつは感が強い。

 苦痛だが読み進める。


「私の気持ちを、いい加減わかってよ。そういうところが本当にいつも、イライラする。もういっそ、私はあなたの飼い猫を今すぐにでも」


 衝動的に、途中で破った。

 もはや犯行予告手前。

 数日以内に何か起これば確実にあの子が犯人。

 

 わずかな理性が働き、紙吹雪にするのは抑えた。

 読めるような状態にして、保管しておく。

 何らかの証拠として必要な奴。


「諭すようで何か明らかに余計な感情入ってるね」


 カトゥス様はどこか楽し気に言う。


「これは気が散りますわ。逆に気にしないの無理でしょ」


 神経に来てしまい、口調も崩れた。

 存在感がヤバすぎる。あそこまでだっけ?


「まぁね、じゃあ推理タイムと行きましょうか」


 お猫様はまるで探偵のように言った。

 どうやらミステリーだったらしい。

 

 恐らく桐崎葵は何らかの独自の理屈やルールで動いている。あまりにモヤモヤするので考えをまとめていく。

 

 と言うか、本格的に対策を考えないと身の危険を覚えるところに差し掛かりつつある。既に亡くなっているとはいえルビーに危害を加えようという発想に怖気が走る。

 

 もしも生きていたら、何をした。


「まず、あなたは彼女の考えをどう思う?」


 カトゥス様と向かい合い、気持ちを静めて整理していく。


「こちらを心配している、ですかね」


 完全に余計なお世話だが。

 嫌がらせ過ぎて、実にストレスフル。


「そうだね。繰り返しあなたの身を案じているものね」

 

 ただその『気遣い』の意味がわからない。


 彼女はただ自分に従うよう促してる。

 猫から卒業せよと。

 その学校はやめろと、言っている。


 猫が好きなのは僕の勝手だ。

 受験は親と話し合って決めたんですが?

 もう何年も何年も準備した上で挑んでます。

 A判定貰ってます。

 

 通っている中学校もクリエイターの支援に力を入れている。クラスの大体の生徒が桂木翔太は漫画家を目指しており、どんな賞を取った、という程度のことは知っている。


 彼女にも、これまでに伝えてある。

 受験校などは伏せたが、良い成績だと。

 受験についても、既に何度も言っている。

 

 知っているはずだ。わかっているはずだ。

 その上で、意味不明の不機嫌さを極める。


「前にも言ったことあるけど、弟感覚なのかな」


 同い年だが、誕生日の関係でこちらが数か月年下。幼稚園の頃を振り返れば、姉めいた態度で接してきていた覚えもある。何かを思い出すが、嫌になって振り払う。

 

「弟相手にしては執念深いよね。こんなお姉ちゃんとか普通に嫌だし。絡み方が煩わしい。生理的な不快感湧くよね」


 カトゥス様は虫を払うように、手を軽く振る。


「何とも言えず、ぞわってしますね。誰かに心配されることがここまで怖いってのもないです」


 もはやホラー手前。

 支配的な保護者に近い何かだ。


「で、それを踏まえてどう思う? ある程度答えは絞られるよね」


「生き別れの姉とかですか?」


 敢えてあり得ないことを言う。

 これは冗談だ。軽くとぼけただけ。


「ミステリーでそれやるとルール違反でしょ。伏線大事。そうじゃなくて、もっとシンプルな話ね」


 カトゥス様に促され、渋々口を開く。

 推理と言うよりも、この場合は分析。

 言葉にするのもなんか嫌。

 だから考えないようにしていた。

 

「僕に、何らかの好意あるいは執着を抱いている」


 しかもかなり拗らせた何か。

 自惚れに近いが、他は考えにくい。

 執拗すぎるほどの何か。

 ただの善意なら、その方が怖い。


「分かりやすく言えばそうだね。推理も何もなく見たままを言えばそれしかない」


 だからジャンルとしては、やはり恋愛系。

 彼女がミステリーなだけ。

 薄々わかっていたからこそ、言語化したくなかった。


「結論出たけど嬉しくない」


 敬語を忘れて素で言ってしまう。

 両肩を抱いて座り込む。


「なんで?」


「怖いから」


 それがシンプルな本音。


「可愛い子じゃない。学校の中で一番レベル。見た目で言えばSクラス。幼馴染の美少女に愛されて幸せになり過ぎちゃった件みたいな漫画書けそう」


 ふざけるように言って来る。

 緊張の緩和を狙ったユーモアだろうか。


「もう無理でしょ。そういう甘々ハッピーなの。いっそ幼馴染キャラにも苦手意識出ますわ」


 と言うかもう出てる。

 漫画のキャラクターを考える際に、あの子と重なる要素があると「うっ」となる。


「可愛いだけじゃダメ?」


 小首をかしげてあざとく言って来る。

 お猫様にそれやられると弱いんだよなぁ、ではなく。


「顔が良いだけでいいなら、美人と離婚する人居ませんし。やっぱりダメです。と言うか無理」


 深い溜め息を吐き出す。

 こうしている間にも刻一刻と時間は過ぎる。

 しかし漫画の下書きは真っ白で、物語は一向に完成しない。


「側に居るなら、まずは安心できなくちゃね」


 すりすりとこちらに身体を擦りつけるカトゥス様。

 嬉しさよりも、ルビーのことを思い出して何だかせつなくなってきた。お撫でするのも失礼な気がするので遠慮しておく。


「僕はあの子に一切安心できない。したことがない」


 常に怯えと隣り合わせ。

 心を殺してやり過ごしていた。


「周りからは幸せそうって思われてるけどね」


 神様視点を持つゆえの見透かしたご発言。

 傍から見ると付き合ってる風なのはそう。


「何も知らないって恐ろしいですね」


 何だか虚しい気持ちになる。

 大前提、彼女の気持ちが不明。

 ここまで「好き」の一言すらない。

 妄想の世界に居るような気がしてきた。

 ほらだって、なんか喋るお猫様とか居るし。


「夢じゃないよ。ほら、感触あるでしょ」


 空中に浮かび上がり、頭を撫でられる。


「じゃあ、なんなんですかね。哀しくなってきた」


 ルビーに会いたい。

 漫画を描きたい。

 でも手が動かない。頭が働かない。

 迷子になった子どもの気分だ。


「細かいことは省くけど、その子は自分なりのルールや法則でキレてるのよね」


「そうですね、恐らく」


「察してくれなくてキレる。あまりに細やかなことで常に怒ってる」


 お猫様の分析は、テレパシーによるものだろうか。

 あの娘の心の中って、読みたくないなぁ。


「いっそ暴力的なデリケートさ、ですよね」


 失礼を承知で言えば、繊細さんのお世話係。

 かなりきついが、実態はそうだ。


「で、あなたに極度に甘えてる子なのね」


 好意ではあるが、家族に近い依存?

 どちらにしろ厄介の極み。


「親に甘えればいいのに」


「親は叱るからね。あれでちゃんと注意はされてるんだよ。それでも、ああなの」


 どこか母親のような声音で言う。

 蠱惑的な優しさを感じるが、それに近づいてはいけない何かも同時に感じた。


「何が何だか」


「あなたにキレることで心のバランスを保ってる。好かれてはいるよ。好かれては。あなたはどう?」


 彼女と過ごした十数年間。

 嫌な事しかなかったかと言えば嘘になる。

 楽しかった時期だってあった。

 

「好きだけど、好きだったけど、しんどい。良いときと悪い時の差が本当にすさまじい子なんだ」


 好きか嫌いかで言えば、そうだ。

 綺麗で可愛くて、何だか仲良くしてくれる。

 家族以外では恐らく誰よりも近しい。

 

 僕は彼女が好きだった。

 

 もはや冗談みたいな話だが、根っこはそうだ。

 だからこそ、耐えられなくなった。

 

 何より意味が分からないのが本当にキツい。

 あれは本当に、心を削る何かだ。

 淡い想いを踏み散らすような強烈さ。

 

 色々あって離婚を選ぶご夫婦の気持ちがわかる。これはもうお別れした方がいいですねぇ、という案件は間違いなくある。

 

「いくら好きでも無理だよね。甘く美味しい何かより、嫌悪や不快感の方が勝る」


「何より、よくわからないんです。それが辛い」


 あの怪文書一つ見てもそうだ。

 

 窺える感情はある。

 でも、どうしてそんな伝え方しかできないのか。

 あまりに、理解に苦しむ。


 ルビーに関する発言もそうだ。

 気に病んでいるなら普通に謝ればいい。

 でもどうやらそうではない模様。

 

 怪文書からは猫と漫画への憎悪すら感じさせる。

 愛と言うよりも負の念の方が明らかに強い。

 ラブレターではない、デスレターだ。


「こちらは気を遣っても突然キレる。何もしてないのに突然口をきいてくれなくなる」


 同じ思考がループする。

 呼吸がしにくくなってきた。

 思い返すと、冷静でいられない。


「本当にそう? 何か原因やきっかけはあったんじゃない?」


 カトゥス様は妖し気な風に問いかけて来る。

 何だか甘ったるい匂いがしてきた。

 口の滑りが良くなってくる。


「きっかけは、あると思います。自分なりに行動を振り返り、詳しく相手の反応などを窺ってみたことがあります。しばらく前にも、あることで彼女はキレた」


 不機嫌の火花が散る瞬間。

 そういえば、と思い当たる様子もあった。

 発言の前後に束の間沈黙したり、足早に去ったり。


 状況を整理すればトリガーの類推は可能。


「推理の結果は?」


 あるいは考察である。


「『パクチーが苦手』でした」


 カトゥス様は首をかしげる。

 パクチーは説明するまでもないが香辛料である。

 ハーブの一種。


「彼女の不機嫌の一か月くらい前に、僕が雑談でパクチーが苦手、と言ったんです。そこから数日を経てだんだん彼女は機嫌が悪くなり、あるとき我慢の限界が来たらしく、キレた。そうとしか思えない。前後の発言を振り返っても、他に思い当たるフシがないんです」


 彼女自身も時折、口にすることがあった。


「前に言われた、あのことが嫌だった」


 ただし理由はパクチー苦手と大差ない。

 雑談や挨拶程度。細やかな事ばかりだ。

 原因にするにはあまりに小さい。

 よって理解不能に陥り、思考停止に至る。


 意味がよく、わからない。

 何故そこまで小さなきっかけで秩序が狂う?


「自分が好きなものを否定されたとか、そう受け取るのかな。あとは前にそれ私が嫌いって言ったよね、みたいな?」


 何事も理屈はあるはず。

 同時に振り返るほどに、その異様さもにじみ出す。


「パクチーの場合、彼女がそれを使った料理の話を前にしてきたことをがあったんです。エスニック料理を食べたんだ、美味しいお店があってね、みたいな。その際には、へぇ、そうなんだ、で終わり。で、それから数か月くらいして僕のパクチー苦手発言に繋がった」


「はいはい」


「振り返れば、『今度作りたいなぁ』とも言っていた。つまり、僕にそれを作ろうとした、あるいは一緒に食べに行こうと誘いたかった」


 彼女の思考をなぞるように推測する。


「なるほど。恐らく、ずっと考えてたんだろうね。だからある程度の期間、その話題が彼女の頭の中に残っていた」


 カトゥス様は思案するように言う。


「うん、それはありがとう。でも、彼女はその意図をはっきり言葉にしなかった。そして、僕がうっかりパクチー苦手って言って、唐突にカチンと来たみたい」


「彼女の側に立つとわからなくはないよね。この鈍感男って感じで」


 それこそ漫画にありがちな話だ。

 何らかの料理やお菓子を用意していた女子が居て、男子の方は無自覚に誰かにそれを貰ったり、食べさせてもらったり。そこから起こるすれ違いで、「バカっ」ってキレるヒロイン。


「わかる。わかるよ。本当に。僕も迂闊だったかもしれない。でもさ、そこまで即座に理解するのは相当に難しいよ」


「分析しないと辿り着けない時点で、ね」


 カトゥス様はにやっと微笑む。


「僕だって別にパクチーが食べられないわけではないし、軽く匂いが苦手かな、って言っただけ。誘われれば無下にはしない。鈍感主人公くんだって悪気はない事が大半でしょ」


 わざとやってたらただの嫌な奴。

 不幸な事故である。


「これが物語なら女の子の可愛さであらゆる点をまろやかにするんだよね。最終的に彼女の健気さに惹かれてキュンとする感じ。作者の手腕が問われるヘイトコントロールの妙って奴」


 娯楽を愛する人外お猫様は実にこちらの話にうまく合わせてくれる。なので、話しやすい。会話が極めてスムーズに進む。よってこちらの口も止まらない。


「でもさ、そこまで察するのって相当困難でしょ? 怒りを買わないようにするには、言動の全てに注意を払い、推理と考察を重ねなくちゃいけない。それこそ日常的なあらゆる場面で」


 察して察して察しまくる。

 それこそ超越者の成せる業だ。


「目指すは全科目最高得点ね。わずか一問のミスで相手の爪に引き裂かれる。あなたはわたしの不合格ってね」


 ふざけたように答えるお猫様。

 どんなデスゲームよ。


「いや、無理でしょ? 難易度高すぎるよね。そもそもだよ。あまりに、わかりづらくない?」


 彼女本人にはとても言えない正直な意見。


「パクチー事件にしてもさ、最初から一言先手を打って『今度どっかで食べない?』って言われたら『えっそう? いいね』みたいにラブコメチックな流れに出来たよね!?」


 感情的になって言葉が荒れる。

 お猫様に対して不敬ではあるが、抑えきれないものがあった。


「恥ずかしかったか、ためらいがあった。素直になれないのもラブコメの醍醐味と言えるよね」


 要は、言いにくかった、と。


「わからなくはないよ。でも何故そこで、もう少しかみ砕いて説明しない? そもそも数か月間も言い出せない時点で大した想いもないわけでしょ」


 致命的なのはタイムラグだ。細かい感情を伏せて、時間を掛けて怒りを育まれるとこちらの把握も追いつかない。

 

 キレられても困るが、即座に「私はパクチー好きなんだけど!?」と言われた方が遥かにわかりやすい。

 

 何事も溜め込むのが良くないのだ。

 その場その場で言えば、恐らく怒りは早期に収束する。ああそういうことね、とこちらも理解しやすい。

 

 理不尽系ヒロインと言えど、何でも即座に口にする系なら恐らく彼女はもっとマシに感じられたはずだ。多少バカっぽいのも愛嬌になりうる。つまり分水嶺となるのは開示情報の違いだ。

 

 彼女の真の問題は、閉鎖的(クローズド)な点だ。

 溜め込んだ怒りを悟らせず、蓄積してゲージを溜める。

 本人のタイミングで唐突に怒り、ブチ切れ。


 私は気を遣ってるのに。

 その場では抑え、我慢できなくなって破裂。

 結果、こちらの理解も及ばない。


「男は鈍感とは言ってもね。それ言いだすと人類は大抵鈍感になる」


「そう、彼女の理論や、ロジック。細かい事情までは分からない。さっきまでの話だって全部仮定に過ぎない。例えば、体調によるメンタルの乱れとかもあるだろうし」


 女子特有の事情、悩み。

 さすがに声に出しては言いにくい。


「何事かの周期とかね」


「もうやだ。そういう話出されて不機嫌になられたらこっちは謝るしかないじゃん」


 頭を抱え、半泣きになって言う。

 

 やむに止まれぬ不機嫌の理由だって、本当はあるかもしれない。だけどもしもそれを出された場合、僕はどうすればいい。触れてはいけない繊細な事に対する部分は、責めた時点でこちらの落ち度となる。


「いざとなれば、誰でも相手が絶対に言い返せない武器使って戦うからね」


 まさにこの世の真理。


「そして彼女にとっても、そうした繊細な部分を晒すのは恐らく物凄いストレス。だから絶対やりたくない。それで、自分の発言に自分で傷ついたりするわけだし」


 彼女も時には罪悪感を見せることもある。

 物凄い悪人ではなく、単に困った子。

 感情的になると手に負えない、それだけ。


「さすがにもう少し説明は要るよね。察してちゃんの極み。あるいは本人も客観視が出来なくて、伝えてるつもりになってるのかもね」


 それも一考の余地がある。


 わかってよ、どうしてわかってくれないの。

 貴方の為を想って言ってるのに。

 

 なるほど、はい。

 それでは、どうしてそう思うのかをもっと詳しく説明してください。何か隠してることや、細かい事情とかもありますよね。特に思考過程と、前提となる感情ですよ、感情。それをあなたは一切口にしていない。面接官か取り調べの警官になって詳しく問いただしたいところだ。

 

「とにかく言葉足らず。こちらが彼女ではなく、別の人間であることをどこかで無視してる。感情的なもので、秩序だった思考を投げてるんだろうね。加えて言うなら」


「考えすぎだよね。妄想癖に等しい何か」


 カトゥス様の言葉に頷く。

 猫の件もそう。言わば、煮詰め過ぎた思考。

 単なる飼い猫を可愛がっていることを深く捉えすぎている。あらゆるすべての好意を恋とラベリングするかのような乱暴さだ。

 

「まぁ誰でもどこか欠けたところはあるもんだよ」


「それはわかるよ。僕もそうかもしれない。ただ、最低限必要なものってあるよね」


 人同士が付き合うための絶対条件。

 相手に対する、思いやりだ。


「本当の意味での気遣いは何か。彼女の手紙に節度、ってあったけど、相手に対する敬意、人格の尊重こそがそれだよね」


 まさにそれが、節度だ。


「本当に、あと少しが足りてない。とても大事なパズルのピースをさ、あの子はこぼし落とす。でもそのこと自体は仕方がない。罪ではないんだ」


「苦しみではあるけどね」


 カトゥス様は実に適切に相槌を打つ。心を読めるゆえの配慮。誰しも超越者ではない。僕にも気の利かないところはある。彼女の好みを把握しなかったこと、好意をやんわりと流し続けたこと。

 冷たい、と思われても仕方がない。

 だけどシンプルな本音。

 

 わかりにくい。説明しない。ズレた気遣い。配慮のなさ。無遠慮に他人の聖域を踏み荒らす乱暴さ。何より、暴力的な繊細さ。


「そういう子と付き合い続けたいかと言うと、ない」


 毎日顔を合わせ、同じ空間で過ごす。それをもう、僕はできなくなっている。


「人類は時に愛し合った者でも別れを選ぶ。周りから見たらどれだけ好条件でも、無理なものは無理ってことね」


 何事も我慢の限界はある。

 美点を遥かに超えた汚点はただの不良品と言える。


「結局、あの子は僕とどうなりたいんだろう」


「結婚したがってるよ」


 超越者は端的に言った。

 うえっ、と吐き気がした。


「あれと結婚するくらいなら一生独身選ぶわ。もー、しんどい。付き合ってすらいないのに恋愛恐怖症になるわ。それも頭おかしい奴みたいで嫌」


 三角座りをして、口調をばきばきに崩して言う。

 自分はこんな風に考えていたんだと、理解する。


「あの子の頭の中って独特なんだよね。心は読めるけど分析が要るし、何より説明が難しい」


「人間の思考って取り留めないですもんね」


 万能なる存在と言えど限界はあるだろう。僕だってあの子の頭の中なんぞ覗きたくもない。


「まぁ、下世話な言い方をするとさ」


 カトゥス様は横向きに寝そべる。妙に人間臭いジェスチャーである。


「あの子はあなたにバブみを感じてオギャりたいんだよね」


「は?」


 ばぶ、み? とは。

 自分の語彙にないものが出て来て困惑する。

 

「ごめん。説明が俗っぽ過ぎた。要するに赤ちゃん返りって言うのかな。配偶者相手に大の大人が赤ちゃんみたいに振舞うってわかる?」


「まぁ、何となく」


 概念はそれとなく認識できる。要するにでかいおじさんが「ばぶばぶ」言っちゃう感じのそれだろう。あるいは幼稚園の子が赤ちゃんみたいになっちゃう的な。うーん?


「究極的に桐崎葵が求めてるのって、己の全てを受け入れてくれる相手なんだよ。自分の恥部を曝け出せる相手。何やってもいい子、それがあなた」


 理解者となる誰か。

 それを僕に求めている?

 

 中学三年生男子に求めるにはレベルが高すぎる。赤ちゃん返り、ねぇ。お父さんにでもなってほしいのだろうか。

 

「そもそも無理あるよね。最低でも、取扱説明書要る子だし。要求するスペックが絶妙に高い。出来そうで出来ない」


 ありのままの僕では不足しているからキレるのだろうし。要は高望みと言えた。しかも彼女のお父さんは存命のはず。親に甘えろ、好きなだけばぶばぶしてろ、としか言いようがない。何故こっちにお鉢が回って来るのか。


 ただ、想像を飛躍すれば、見えてくるものはある。

 要は親に甘えにくい理由がある、僕ならいいかもと思っている。だが、僕に甘えるのも良くないとわかっているので中途半端な気遣いによってこちらを苦しめている、ということではなかろうか。


 なにその地獄の二人三脚レース。


 思考の迷宮。他人事ながら疲労困憊するような何か。全てを分析したところでこれゲンナリするだけなんじゃないの? 既に今の時点ですらカロリー高すぎて胸やけ起こしてるよ? 


「向こうの心理を細かくかみ砕くとさ、あぁこの子も色々大変なんだなってわかる部分はあるよね。貴方の年齢に合わせてマイルドに伝えたけど、大人ならもう少し深い意味で察せられると思うよ。詳しく聞きたい?」


「あ、いえ。結構です」


 そんなことで大人の階段上りたくない。

 カトゥス様は「まぁ、さすがに性癖の話はね」と苦笑する。性癖って、え?

 詳しく聞くと不幸になりそう。絶対に触れてはいけない気がする。


「ただ、それを加味しても、桐崎葵には明確な罪が一つあるよね。言い訳しようのない落ち度」


 話を変えるようにお猫様は言う。


「なに?」


 問題ならいくらでも思い浮かぶが。落ち度?


「あなたにだけキレること」


「あぁ」


 確かにそうだ。

 繊細なだけならまだ許されるだろう。

 でも、彼女は違う。

 

「キレ癖が付いてる。こいつには隠さなくていいってね」


「だろうね。わかる」


 僕以外に彼女がキレるところを見たことはない。

 他の相手に対しては、むしろ大人しい位だ。

 人見知り、と言っても良い。

 

「一つのシステムとして、定着してる。ストレスが溜まると同じことを繰り返して安定することの繰り返し」


「それ迷路か何かにハマり込んでない?」


 図式みたいなアレだ。円環構造的な。


「無限ループ。理解ある幼馴染くんという歯車を部品としたその子と言う人間のサイクル」


「彼女の人生の一部になってるのかな。それはすごく光栄なことかもしれない」


 誰かにとっての特別な人間。

 選ばれたいという気持ちは僕にもないとは言えない。


「あの子はさ、混沌としつつも安定してる子だよね。定期的に爆発させて落ち着けてるわけだから。それを人間相手にしてるのがまずいってだけで」


 人間以外でもまずいよ。いつか彼女の暴力性が見知らぬ弱き者に向かわぬことを祈るしかない。


「あの子も優しいところはある。バレンタインにはいつもチョコくれるし。周りからは、彼氏彼女って言われてて。あはは、幸せなはずなんだけど」


 淡い喜びが浮かび、沈む。


「すごく心が削られる」


 ホワイトデーにキレられたことがあった。

 お返しをしたんだけど、「そんなのいいから」と。

 受け取ってもらえなかった。

 気を遣ったのかもしれないけど、一生懸命選んだそれを振り払われて、ゴミみたいに扱われた。


「あの子、怖い」


 率直で素直な感情。

 気遣いの狂った何か。

 決して言ってはいけないことだが。

 口にするのも罪だけれど。

 思わずにはいられない。


「モンストゥルムね。恐るべき何か」


 カトゥスと同じくラテン語で、怪物の意味。

 少しだけお洒落な物言いをする。

 

 怪物か。

 

「誰の中にもある罪なきもの、ですよね」


 怒りや激情、抑えきれない何か。

 僕にもないとは言えない。


「でも、それに噛まれた者にとってはとても辛い、そして彼女は己の怪物を抑えられない。その怪物に彼女自身も噛まれて血まみれになっている」


 カトゥス様は桐崎葵をそう評した。


「それもわかるよ。短くない付き合いだからね」


 苦しんでいるのは見て取れる。

 己の感情が制御できずに辛いのだろう。

 だけど。


「でもさぁ、面倒くささが極まる存在ってさ、一緒に居る時間が本当に無駄だよね。人生の浪費と言える」


「えぇ、まぁ」


 否定できない。


「それ要る? 要らないよね。さっさと捨てなきゃダメ」


 真顔で諭された。

 僕は答えられない。

 カトゥス様はためらわずに続ける。


「いっそ退治しなきゃ。だって被害者とかじゃないもん。モンストゥルムだもん」


 あっさりと無慈悲な事を言う。


「ひどいな。きついよ。でも、わかるよ。そういう何か」


 ギリギリ抑えてしまう。

 吐きそうになるしんどさだ。


「人間と見なされるラインを、彼女は踏み越えた。ただ、これは性別とかの問題じゃないよね」


「そりゃそうだよ。あの子があの子なだけ」


 性別を逆にしたパターンだっていくらでもあるだろう。

 だから、男女の問題にすべきではない。

 それはまた全然別の話だ。

 

 むしろ、性別のせいにして欲しくない。

 物事をマクロにしてしまえば本質からズレる。

 言い訳が出来る。

 あぁ、そうだ。そうだ。そうなんだ。


「ただあの子が、葵ちゃんが」


 それより先は何故か言えない。

 言ってしまえば全てが終わり。

 わずかに存在する奇妙な感情。

 未練か、愛情か。


「本音を言いなさいな」


 ふわりとカトゥス様の被ったヴェールが揺れる。

 金色の瞳がどこか壮絶で、美しい。

 何かを悟ったような超常的な存在。

 隠し事は、何もできない。


「あいつがただ、おぞましいだけ」


 かぶっていた猫を、かなぐり捨てる。

 もう戻れない。

 わずかな理性を、あまりに心地よい憎悪が押し流す。


「あの子に人生を、狂わされている。僕はやりたいことがあるのに、やらなきゃいけないことがあるのに。なんで、なんでだよ。なんで、こんな気持ちにならないといけないんだ」


 大事な受験を前にして、全力で挑まなきゃいけないのに。気力を削ぎ落されている。かけがえのない家族であるルビーを失って。

 

 この上、あいつは何を奪おうって言うんだ。

 憎い。あいつが憎い。ただおぞましいだけの生き物。


「そうだよねぇ。厄介な子と関わっちゃったね。運がなかったね」


 蔑むような声音に愉悦を感じる。


「相手をどれだけ苦しめているかも知らないで。お前の理解ある何とかくんになんぞなれんわ」


 理想の彼氏や彼女、伴侶。勝手な話だ。自分が全くそうではない癖に相手にばかり理想を押し付ける。

 

 しかも、僕はあの子にとってただの「幼馴染」だ。あらゆる感情の捌け口にされる筋合いはない。ましてや僕は、弟でもない。親ではないし、庇護者になんかなれない。


「お前だけ勝手に傷ついていろ。周りを巻き込むな」


 繊細極まる哀れなヒロイン。

 でもそうだろうか。彼女に怒りをぶつけられるたびに味わった、あの苦痛。理不尽極まる、筋違いの激情。


「無視をされるたびに、怒られるたびに謝り、流し続けた。それも良くなかったのかな」


「弱いところを見せるとね、モンストゥルムはがぶりと行くの」


 だから怪物。

 悪魔というよりも、そうだね。

 モンストゥルム。


「でもさ、あの子とさ、揉めたり、相手が泣いたりとかすると、本当にさ、凍り付く。何より周りからも僕が悪いみたいに見られるのが怖くて」


 泣き出しそうになりながら、吐き出す。


「否定しつつも、否定できない性の差ね。この場合は社会的な認識や空気もあるけれど」


 毎朝の通学路での対面。

 振り返ればそこに行き着く。

 一日における、基本となるはじまり。


「わざわざ不機嫌なときに顔を見せ、挨拶したくない日なのに挨拶したからキレるとかわけがわからない。すごく嫌だった」


「そりゃそうだね。挨拶って最低限のコミニケーションじゃない」


 お猫様がそれを言うのだから相当だ。


「その辺のおじさんとかの方がよほど普通にやり取りが出来ている。良く知らない人でもさ、挨拶返してもらえただけで泣きそうになるんだ」


 最低限のそれを禁じられたら、何もできない。

 どうしてあの子はそんな風になってしまったんだろう。


「優しく従順過ぎてもね。いつしか普通になるから」


「だから、限度を失くしていくんだね」


 結局はそこに行き着く。

 こちらの対応にも、問題はあった。

 普通に接するという、失敗。


「だけど、怒り返すみたいなのも難しいよね。誰でもキレるのが得意かと言えばそうじゃないし」


「むしろすごい苦手。どうしていいかわかんなくなる。小さい頃にもちょっと色々あってさ。強く出られない」


 幼い頃に葵ちゃんと一緒に遊んでいて、少し怖い目に遭った。そのとき彼女から責められて、口止めされて。思えばあの辺りが二人だけのサイクルのはじまり。


「さすがに幼稚園くらいのことなら何の責任もないと思うよ」


 カトゥス様は当然のことのように言う。


「あはは。だよね。そんな昔のことさ、今さらだしね。だから僕は、単にもうあの子が嫌なだけ」


 乾いた笑みと共に、言葉が零れ落ちる。

 抑えていた防波堤は決壊した。


「世界で一番あの子が嫌だ。頭の中の落とせない泥みたいな汚れ。忌まわしい存在。好きなのに。好きなのに。好かれているかもしれないのに。それでもあの子と過ごすこの先の人生が酷くつらいんだ」


「復讐したい? ざまぁとかする?」


 相手を苦しめ、感情の捌け口とし返す。

 でもそれは、己の破滅とワンセット。


「僕は漫画家になりたい。犯罪者になんてなりたくない」


 夢を捨てたくない。


「目の前の都合の良い存在が手伝ってくれるかもよ?」


 甘く惑わすように誘って来る。

 妖艶で惹かれる何かを覚える。


「子どもの頃に、お母さんに絵が上手だって褒めてもらった。お父さんが色々調べてくれて、こんな学校もあるよって教えてくれて、道具や環境を整えてくれて」


 あぁ、そうだ。

 漫画家になるのはとても大変だよ、と言われた。だけど、僕の夢を決して否定することのなかった大好きなお父さんと、応援してくれたお母さん。


「あれから、ずっと描き続けた。可愛いルビーの絵を何枚も描いた、だから、だから、僕の創造は、美しくなければいけない。清い心で向かいたい」


 気が付くと涙が溢れて止まらなかった。

 大事な大事な、僕の思い出たち。

 あの子に全て満たされるなんて、本当に嫌だ。


「復讐なんてどうだっていい。変に我慢した僕も悪かった。ただ、ただ、あの子の不機嫌な顔だけはこれから先二度と見たくない。声も無理。姿もダメ。会いたくない。関わりたくない。存在が嫌」


「大分溜まってたんだねぇ」


 塊がごろんと零れ落ちるように。

 叫びが溢れる。


「めちゃくちゃ不快。挨拶くらい普通でいいでしょ」


 本当はずっとこれを言いたかった。

 泣いて喚いて、ただ叫ぶ。

 自由な獣のように。


「僕人間だよ。お前のサンドバックじゃねぇんだよ! うあああああああああああああああ!」


 喉の奥から抑え込んでいた感情がほとばしった。

 

 毎朝顔を合わせる度に溜め息か、不機嫌。

 彼女の虫の居所を占う日々。

 なんで、そんな思いをしなくちゃいけなかったんだ。

 本来はもっと別のことにエネルギーを使うべきだった。ルビーが居なくなった夜だってそうだ。あのとき、もっと戸締りに気遣ってさえいれば。

 

 せめて、温かい部屋の中で看取ってあげられた。あんなお別れを迎えなくてすんだ。そのことが今でもひどく心を抉る。

 

 尊いはずの時間を苦しみと言うインクで汚された。

 

 コミニケーションって、もっとまともでしょ?

 まっとうであるべきでしょ?


「好きとか嫌い以前に、人間としてダメな相手とは関わりたくない!」


 普通と言う枠から外れ落ちた何か。

 おぞましい、おぞましい、おぞましい。

 嫌い、嫌い、嫌いだ。嫌いで嫌いで、反吐が出る。


「苦しいよ苦しいよ苦しかったよ。あいつが苦しめたんだ! もうその薄汚い顔を見せるな!」


 頭の中に居る、怪物にただ怒りをぶつけた。

 あらん限りの力で吠えた。


「モンストゥルムは死ねぇえええええええええええええええええ!」


 大声で叫んだ。

 カトゥス様の気配は、いつしか消えていた。

 誰も居ない薄暗い部屋に一人、残される。

 

 やがて力尽きて、すすり泣く。

 寂しい。辛いよ。苦しいよ。

 怖い。哀しい。

 

 しばらくすると、扉をこんこんと叩く音がした。

 開くと、お母さんだった。


「どうしたの、翔太」


 何だか、ものすごく久しぶりに会う気がする。

 いつも夜勤で大変だから。

 迷惑を掛けたくなかった。負担を掛けたくなくて。


 話せなくて。


「あなたはあの子とは違うでしょ」


 カトゥス様の声だ。

 振り返ると、その姿はどこにもない。

 お母さんに顔を戻す。

 

 心配そうにこちらを見て来る。

 涙に濡れた頬を撫でる、優しい手。

 幼い頃に何度も触れ合った温かさ。


「大丈夫、どうかしたの」

 

 その柔らかな声にただ、涙がこぼれた。

 そうだ、ちゃんと言わなきゃ。

 コミニケーションだ。

 伝えるべきことを、ごく普通に伝えよう。

 たとえどれだけ話しにくくても。

 僕は、あの子じゃない。

 呼吸を整えて、落ち着いて唇を動かした。


「お母さん。聞いて欲しいことが、あるんだ」


 鼻をすすりながら、胸の内を吐き出した。

 お茶を入れてもらって、ゆっくりと話をした。

 仕事で疲れているのに、嫌な顔もせずに聞いてくれた。


「あの子、そんなにキツいこと言う子だったの」


 幼稚園の頃から一緒だ。

 なので、当然お母さんも知っている。

 ただ家族ぐるみの付き合いのようなものはない。


「うん。何年もずっと。でも、なんか言えなくて」


 葵ちゃんは周りに知り合いが居る場面に限っては抑えるところは抑える。特にお母さんについては大分注意していたように思える。その辺りをちゃんと意識したうえでキレるから余計、怖いのだ。


「辛かったね。モラハラって言うんだよ、それ」


「そうかな。わからない。キレるだけだし、無視したり」


 理不尽で、意味不明なキレ方。

 考えれば理由らしきものも浮かぶ。

 自分が悪いのかもしれない。


 だから余計、迷路に落ち込んだともいえる。


「お母さんの職場にも居るよ、そう言う人。癇に触れるって言うのかな。どうしても色んなことが耐えられないってなるのか、誰かしら当たれる人に当たる人」


「僕も悪かったのかも。何だか強く言い返せなくて」


「翔太は悪くないよ。怖い人間と無理に戦わなくていい。まずはその場をやり過ごして、逃げなくちゃ。おかしい人には何より、関わっちゃダメなんだよ」


「うん」


 本当にそうだ。

 何度も何度も逃げる機会はあったのだ。


「常に自分を被害者と思う人っているよね。悪いのはあなた。だから遠慮も容赦も一切ない。やってることは、無視して怒鳴って、傷つけて。いじめと何が違うの。無自覚なのが余計タチ悪い」


 自覚無き加害者。

 振り返っても、こじつけレベルのことでキレている。好意ゆえに、というのも僕の勝手な憶測とも言えるし、単なるサンドバックにされている面も否定はできない。


「この手紙も怖い。いつか何かするかもしれないし、証拠は残しておこう。日にちとか記録を取るのも大事だよ」


 まさに、正しい意味での対処だ。


「なんか、凄いよね。本当。何がそこまでさせるんだろう」


 目の前に並ぶ手紙の数々。

 説明するために保管していたそれを見せたが、改めて文面の気持ち悪さにぞっとする。なんと言うかもう、異様。

 

 ヤンデレとも微妙に毛色が違う。善意と正義に包まれた『あなた』への自覚無き咎め。あまりに、世界が違う。


「倒錯的思考って感じだね。自分に酔ってる」


 お母さんの指摘は的確と言える。

 関わってはいけない何か。

 モンストゥルム。

 

 対話すら厄介だとしか思えない。

 コミニケーションが更なる地獄を生む。

 そんな予感があった。


「どうしたら良かったのかな。あの子さ、普通に話せるときもあったんだよ」


 今さらになって、取り成すようなことを言ってしまう。バカだな、と思いながら。


「距離を置くしかないよ。そういうもんだよ。大人はそうしてる。そして、その子の苦しみにあなたが一切責任を負う必要はない。それはその子自身がどうにかしなきゃいけないこと」


 お母さんはきっぱりと言い切った。

 胸のすくような言葉だ。

 誰かにそれを、言ってもらいたかった。

 本当に必要な、パズルのピース。

 心の深いところに触れてもらえた気持ちだ。

 何だか、とても心地よくて。

 溢れかえる何かがあった。

 

 あぁ、もっと早くに、言えたら。


「僕は、どうしたらいいかな」


 自信を無くしかけていた。

 何かを出来るかどうかわからない。

 すっかり、心が弱くなっていた。


「これまで翔太がずっと頑張って来たのは知ってる。良く考えた上でこれまで準備もしてきたよね。その上でどんな道を選ぶかは、全部自分で決めること。その子に口を挟む権利なんて、一切ない」


 お母さんは僕の手を握って言う。


「だってあなたの人生なんだから。そうでしょ?」


 身体が小さく震えた。

 そうだ。

 僕は、それを彼女に強く言うべきだった。

 目指している夢があるんだと。

 何を言われても、やりたいことはやりたい。

 失敗しようが何だろうが、挑戦する自由はある。

 それは赤の他人に侵害して良い何かではない。

 まさに、不可侵の聖域だ。

 

「あなたは漫画を描きなさい。やりたいようにやって、ダメだったらまた次のことを考えよう。他のことは一切気にしなくていい」


 それはこの上なく力強い理解だった。


「うん、うん」


 僕はただ頷く。

 我ながら、幼い声だ。


「漫画を描くよ。カーテンは閉める。手紙も、気にしない」


 情けなく泣きながらでも、前に進むしかない。

 やりたいことがある。

 やらなきゃいけないことがある。

 それをしないと、ダメだから。


「それでいいと思うよ。全然、何も悪くない」


 お母さんがいてくれて良かった。

 話して良かった。

 話せて、良かった。

 

 そして、泣いてばかりもいられない。

 僕はこれから、真っ白なキャンパスに向かうのだ。

 

 それはきっと、何より辛い戦いだ。

 他のことなんて考える暇もない位に。


 お母さんと話し、色々相談した。

 これからどうするかの、具体的なあり方。

 何もかも無視して先に進むこともできない。

 

 結論は、創青天上院高校の受験に専念すること。

 締め切りまで残り数か月。

 漫画の制作のことを考えれば、長い期間ではない。

 全てを注ぎ込んでも、なお足りるとは言えない。

 

 幸いにも学校側と相談した結果、様々な便宜を図ってもらえることになった。絵のコンクールなどで一定の結果を出していること。既に得ているA判定。挑戦するだけの価値はある。名門校の合格者という存在は、学校にとっても一つのメリットだ。

 

 学校側に最大の懸念についても相談した。

 僕と葵ちゃんの間にあった出来事。

 理不尽なプレッシャーと、あまりにお節介な手紙を送り続けたこと。どこまで大事にすべきかはわからなかったが、お母さんは学校に出向いた。

 

 相手方の親を交えた、本人との話し合い。

 

 僕は立ち会わなかった。

 思い出せる限りのこれまでの出来事を記した。手紙も証拠として出したところ、一騒ぎあったようだ。


「あの子のお母さんすごかった。もう、大声で怒鳴ってね。でも、だってって言い訳してたけど、延々とお説教食らってた」


 具体的な経緯を聞く。

 胸がすくような思いは、特にない。

 やはり多少の気まずさは残る。


「親がうるさい、みたいなことは聞いたことがある」


 もっと優しい親が良かった、と言うような話だ。

 とは言え四六時中不満を漏らしていた風でもない。虐待とか、モラハラとかそのレベルだとは感じない程度。


「すごく真面目な人って言うのかな。教職に就いておられるとかで。あまり深いところはわからないけど、話をする限りはまともだったよ。ただ、厳しさのある人かな」


 親が厳しいからこそ、誰かに甘えた。

 バブみ、だっけ?

 赤ちゃん返りか。あの年齢としては何ともな話だ。


「色々あるんだろうね、あの子にも」


 尋常ではない性格の裏にある背景。

 ただおかしい人間、と切って捨てるには長く付き合いすぎた。相手の苦しみや悩みの一部を知るからこそ、気の毒ではある。


「まぁ、私達には関係ないよ。他所様の家のことにいちいち首突っ込んでもね。本当、どうでもいい」


「うん。もう来ないならそれでいいよ」


 そんな風に軽く流した。

 手紙の最終的な枚数はそれなりの数に上った。だんだん言いたいことが溢れて来たのか長文で伝えるようになってきて、最初期の意味不明に比べればある程度、わかりやすくはあった。

 

 思い込みに至った過程と言うか、背景のような。

 

 僕がおかしな道に堕ちてる、という主張。

 根暗だから、友達が他に居なさそうだからとか。

 漫画のせいだ。猫におかしな感情を抱いている。

 そんな考えも暴露してきた。

 

 あまりにひどすぎてかえって腹も立たない。

 

 とりあえず、まとめると。

 要はネットで色々見てしまった。

 誰かの思想や意見に影響を受けた。

 偏り気味な趣味を持つ人への嫌悪と忌避感。

 親に近いような、謎の庇護精神。


 それで、何故か僕の性癖が不安になった、と言うような。

 

 なんと言うか、だね。

 親に限らず他人に心配されるいわれは全くない。彼女にも触れてはいけないことがあるように、誰も立ち入るべきではない聖なる領域はあるのだ。

 

 彼女は恐らく、それを侵そうとした。

 

 結局彼女が僕をどう思っているかは正確には不明だった。

 好きとは一度たりとも言ってこない。

 

 にしては、執着が強すぎる。

 不可解、としか評しようがない。

 だけど本人に問いただしたところで正確な答えは返ってこない気がする。桐崎葵と言う人物は、あるいは自分にも自分がよくわかっていないのかもしれない。

 

 彼女は、おおよそ間違いなく他者とのコミュニケーション能力に重大な問題を抱えている。理不尽系ヒロインの孤独、という言葉が不意に思い浮かんだ。


 救ってくれる「ヒーロー」が居ない物語。

 より深く彼女を知る道も、あったかもしれない。


 淡い、薄っすらとした執着。

 僕の中にも間違いなく、哀れみはあった。

 でもそれこそがまさに鎖だ。

 逃げ出せなかった、理由の一端。


 でも、それをどこかで振り払わなくてはいけなかった。

 僕の人生は、僕のもの。


 こちらが受けた仕打ちは、言葉と態度の暴力。

 過度なお節介。無駄な心配。ずれにずれた気遣い。


 まごうことなき、嫌がらせ。


 彼女がどれほど苦しんで居ようとも、

 こちらが受け止める義務はない。


 僕は彼女の「ヒーロー」ではない。

 あらゆる役回りの否定を、すべきだった。

 猫など被るべきではなかったのだ。


 彼女の心を「分析」も「考察」もしなくて良かった。

 所詮は赤の他人。


 他所様の家のことにいちいち首突っ込んでもね。

 お母さんの言葉が、結論だ。



 本当、どうでもいい。



 時折、ルビーの愛用していた寝床を見つめる。

 片付けられず、ただ空っぽで置かれていた。

 そこに居てくれた。ずっと側に居てくれた。

 本当に、ありがとう。

 もっと一緒に居たかった。

 いつかきっと会える。

 そう思って机に向かう。

 

「頑張ってる?」


 お猫様だが、あれからも普通に訪ねて来た。幻みたいに去って、二度と来ないというわけではなく、ちょくちょく様子を見に来てくれた。


「はい。あなたのおかげで」


 愚痴を聞いてもらえて、相当に気持ちが晴れた。

 おぞましい怒りを吐き出して、いかに自分が疲れ切っていたかもよくわかった。


「私はただお喋りしただけ。別に惑わしに来たとかでもないしね」


 妖しい雰囲気はあったが、本気で復讐を促すでもなかった。しいて言うなら本音を引き出した。ただそれだけ。

 

「でも、とても救われました。おかげで何とか漫画、描いてます。合格は、まだわからないけど」


「受かるかどうかは私が決めるわけじゃない。そこは自分次第。まぁ頑張りなさい」


「うん。ありがとう、カトゥス先生」


 いつの間にかそんな風に呼んでいた。

 連想するのは、教え導く者。

 創作者を導くために、現れる存在。

 娯楽を愛する、という彼らの生態とも合致していた。


「先生ねぇ。私は黒幕なんですけどね。世界を裏から牛耳る妖しい存在。いつか人類に牙を剥くかもしれない」


 にやっと妖しく微笑む。


「それならそれで、いいです。あなたの牙で引き裂かれるなら」


 おかしなことを言ってしまう。

 まるで崇拝者みたいな。


「まぁ、私達の求めるものは人類の命ではない。あなた達の生み出す娯楽(エンタメ)が必要なだけ」


「フェス様は本当に娯楽がお好きなんですね」


 彼らの正体はよくわからない。

 気が付いたら存在した、世界設定。

 何百年も前に現れて定着している。

 当たり前に居る世界の一部だ。


「好きと言うか、それがないと死んじゃうからね」


「え?」


 思わぬ言葉に聞き返す。


「私達は、わかりやすく言うと精霊みたいな存在かな。物質を取り込んでもエネルギーにはならない。様々な娯楽や物語に触れて湧き上がる、情動的興奮や感動かな。それが血肉となる。よって娯楽を糧として生きると言われるの」


 類似した話は、様々な形で伝え聞く。

 彼らが断片的に語る、己の生態。

 ただここまで確たる話を知ったのは初めてだ。


「それじゃあ、僕の描いた漫画も、あなたの糧になる?」


「読ませていただけるならね」


 にっこりと微笑んで言う。

 あぁ、それはなんて、素晴らしいんだろう。

 

 胸の内に溢れる、とても深い喜び。

 

 この手で、指で、心で描いた世界が、美しい超越者の糧になる。

 世界を守る、絶対庇護者。

 大昔に人類を守ってくれた存在。だからこう呼ぶ。

 そして、お礼のようにあまたの娯楽を捧げるのだ。


 それこそが僕らの世界の創作者。

 

 この道を選んで良かった。

 そう、強く感じた。


 秋が去り、冬になり、春が近づく。

 全ての結果は出揃って、合否は出た。

 

 自分の選択が正しかったかどうかはわからない。

 でも、合格の文字と共に描かれた五つ星。

 

 それが、何よりうれしかった。


 漫画が一番のお気に入りだと言った、最も古いフェス様。


「君達は、綺羅星のようだね。すごく讃えたい気持ち」


 人類に与えてくださった賞賛の言葉。

 だから人類はその印をとても大事にする。

 

 Festivals・フェイバリットマーク。

 フェス様のお気に入り。

 

 綺羅星を胸に抱いて、僕はただとても心地よい気持ちになった。それまでの悲しみも苦しさも、無くなることは決してない。

 

 でも、前に進める。

 新しい世界に行けるんだと、この上なく嬉しかった。


 旅立ちの日はあっという間に訪れた。

 お母さんも少し楽な時間の仕事に代わるらしい。


「翔太が独り立ちしてくれて、助かるよ」


 冗談めかして言う。


「まだ学生だよ。でも、うん。頑張る。どこまでできるかわからないけど、自分の力で生きていけるように」


 創青天上院高校は全寮制だ。

 あらゆる生活に関する費用を得ることが出来る夢のような学校。その分、変な噂もあるし、荒波系とも言われる。

 闇が深い。普通の学校に行けるなら他に行きましょう。

 そんな噂も囁かれる。

 

 でも、やるしかない。

 そのために、頑張ったんだ。

 

「でも、寂しくなるね。すっかり家が広くなっちゃった」


 ルビーも居なくなり、家はお母さん一人。

 寂しくないか、とは思う。

 心配だ。でも。


「お母さんのやりたいことをやればいいよ。何にも囚われずさ。だって、お母さんの人生じゃない」


 僕は少しだけ胸を張って言う。

 そう、別れは一つのはじまりだ。


「しんどかったら、すぐに帰っておいで。勝てなさそうなときはね、逃げてもいいんだよ。待ってるからね」


 その優しい言葉に、ただ心が震えた。


「ありがとう」


 お母さんが僕を抱き寄せる。

 少し恥ずかしかったが、今日が最後かもしれない。

 だから素直に身を委ねる。

 その温かさに、何よりも深く満たされた。


 カトゥス先生も見送りに来てくれた。


「それじゃあ、お別れね。随分長い事遊びに来ちゃった」


 その言葉から、察する。


「もう会えない?」


 ルビーの代わりに現れてくれたお猫様。

 教師のように姉のように、柔らかくも淡々と頑張るように促してくれた。この数か月を乗り切ることが出来たのは、間違いなくカトゥス先生のおかげだ。


「別にあなたに特別を与えに来たわけじゃないからね。それは別の個体の役目」


「そっか。でも、ありがとう。あなたに話を聞いてもらえて、とても救われました」


 あまりに、長かった辛い日々。

 同世代の女子との関係で息苦しかった。

 本当にそれだけだったけれど。

 

 思えば幼稚園からずっと延々と、人生の多くをあの子に支配されてきたとも言える。日常に入り込んでいたゆえに、抗いにくい。

 家族の延長線上にある人。

 

 僕の側も依存する気持ちがないではなかった。本当はもっと前に距離を取るべきだったのだ。


「私はね、良くも悪くもあなたのことを軽く眺めていたのよ。だから何事も無かったと言える。私は本気を出すときは何事もめちゃくちゃにしちゃう感じの個体だからね」


 そんな不穏なことを妖し気に言うお猫様。


「でも、ありがとう。あのとき来てくれたから、僕は、僕は」


 全身に溢れかえる何かに、満たされる。

 失われた多くのもの。得られた綺羅星。

 傍から見れば、何事もなかった日々。

 小さな棘を飲み込む毎日。

 

 でも、ただひたすら辛かった。


「本当に、本当にありがとぉ、フェス様ぁあああああ」


 気が付くと、泣いていた。

 感極まりすぎた。

 

 まるで勝利の女神。

 あまりに尊い、お猫様。

 溢れ出る感情。これまで感じたすべての労苦や喜び。全てを目の前の存在への畏敬に束ねて贈る。

 跪き、大いなる「あなた」にただ強く伝えた。


「偉大なるカトゥス。お猫様。あなたは僕の綺羅星です!」


 その言葉を、深い想いと共に伝えた。

 全身全霊で讃えた。

 

 カトゥス先生は、少しだけ沈黙する。


「あ」


 何故か呟いて、静止する。

 まるで時間が止まったような瞬間。

 しばらくして、お猫様は首を左右に振る。

 少しだけぼんやりと、何かを振り払うような。


「もう、大げさな子ね。まぁ頑張りなさい。本当はもっと混沌(カオス)な方が好みなんだけど。たまには、いいよね。あの漫画も良かった。まさに、なんだろう」


 どこか蕩けるような眼差しで言う。


「愛が溢れ、涙交じりで熱くて、力強くてか弱くて、悲しくて辛くて、せつなくて。あらゆる感情のほとばしる、あまりに神秘的(ミスティック)娯楽(エンタメ)だった。まぁ、失格合格云々とかなしにさ、素直に讃えてあげる」


 まるでお母さんのように柔らかく微笑む。


「やるじゃない、人類(ヒューマン)


 よくわからなかったが褒めてもらえたようだ。

 合格の決め手となった入魂の一作。

 

 いっそこれまでの体験を物語にしてみたら、と思わなくはなかった。物語の中であの子を殺すような、復讐。でもそれはやめた。恨みがましい何かではなく、練り込むならば魂を。そんな思いで物語の面白さにこだわったつもりだ。

 

 仮に不合格だったとき、憎しみで塗り固めた作品だったらどうする。納得が出来るのか。

 

 答えは断じて、否だ。

 

 ストーリーの要となる美しい猫。

 お猫様ではなく、僕の愛しいルビーをモデルにした。

 

 表紙イラストにも徹底的に気合いを掛けて描いた。

 愛するあの子を最高の芸術に昇華させる。

 これがダメなら、悔いはない。

 最後は恐ろしい集中力で徹夜して描いた。

 

 評価としては熱量があり、特に猫が良かった、と。

 とても嬉しいお言葉を頂けた。

 この上ない賞賛である。


「でも、これからです。僕は、あなたにもっともっと喜んでもらえるような、素晴らしい漫画を描きます!」


 びしっと、敬礼をする。

 そうだ。いつかは目指す。

 全創作者憧れの、黄金の階段。

 人類最高の栄誉と言われるあの賞を。


「物語は何よりも、自分のために紡ぎなさい。他は全てついでよ。私をあなたの言い訳にも目的にもしないで。それはクリエイティブじゃない」


 恐ろしいほどに荘厳な瞳で真正面から言われる。

 まるで、世界の王から告げられるような言葉だ。

 心が、燃え立つように震えた。


「価値は掴むものではなく、与えられるもの。綺羅星の『あなた』が居なくては辿り着けない向こう側。それはつまり、誰かに選ばれなくてはいけないと言うこと」


 冷たい現実をただ伝えてくれる。

 あらゆる創造における一つの苦悩の話だ。

 黄金の階段は自ら上がるものではなく、上げてもらうもの。

 つまり承認と栄誉は、他者に依存したものなのだ。


「選ばれぬ苦しみもあれば、見られぬ絶望もある。それを頼りに生きては、青き創造はたちまち赤黒く染まり、枯れ果てていく」


 選ぶことなく切り捨てた、あの親しき彼女。

 選ばれても、顧みられることがなかった自分。


 合格は誰かのお墨付き。

 選ばれなければ、きっとこの気持ちは掴み取れなかった。

 それは、誰かのおかげ。あなたのおかげ。


「だからこそ己のためだけに、命を燃やし尽くしなさい」


 誰かを求めながらも、頼るべきではない。

 何故なら、『あなた』はずっとそこには居てくれないから。


「はい。自分のための世界を、紡ぎます」


 誰かの合格だけを頼りに、生きてはいけない。

 残るのは、己の創造のみ。

 それが創作者が持つべき、矜持なのだ。


 最後までカトゥス様は先生のようだった。

 迷える人の子の道しるべとなる偉大なる超越者。


「あの、お聞きして良いですか?」


「なに?」


「あなたのフルネーム」


 いわゆる系統名。それを知らないと、今後何らかの情報が出ても追いにくい。


「うーん。まぁいいわ。実はカトゥスと言うのは別名なの。野良として活動する際の名称ね。真名はさすがに教えられない。それでもいい?」


「はい」


 何もかも全てを知ろうなんて思わない。

 ただ、少しだけ知りたい。

 綺羅星の、あなたのことを。


「私はフェリス・モンストゥルム・カトゥス。怪物の猫」


 モンストゥルム、怪物。

 いつか口にしていた喩えだ。

 恐ろし気で、だけど震えるほど美しい。


「ありがとうございます。モンストゥルム先生」


 小さく頭を下げる。

 顔を上げると、目の前から消え去っていた。

 最後は音もなく、春の日差しの向こう側へと行った。

 

 ルビー。

 僕の家族。ありがとう。

 気が付けば、僕はルビーとカトゥス先生をどこか同一視していた。あの子の生まれ変わり、あるいは正体。

 だから優しくしてくれたのだと。

 

 あまりにも恵まれたタイミングだった。

 何もかもが偶然とは思えない。

 まるで仕組まれた物語。

 真実はわからない。

 でも思うだけならきっと良いだろう。

 どこかで元気で居てくれれば、何よりだ。


 荷物をまとめ、僕も旅立つ。

 ルビーの写真を胸ポケットに入れた。

 

 仏壇のお父さんにも伝えることを伝えた。

 

 行ってきます。

 

 なんて、厳かな気持ちだろう。

 苦しみでもなく恐れでもない。

 尊き神事に挑む、そんな心持ちだ。

 

 玄関へと向かう。

 朝早くの、旅立ちだ。

 しかし、一階に降りると誰かが騒ぐ声がした。

 

「ちょっとだけでいいんです。話をさせてください」

 

 聞きなれた、不快な声。

 お母さんとあの子が押し問答をしていた。

 

 葵ちゃん。なんで。


「あの子はもう行かなくちゃいけないの。どうしてうちの子にそんなに構うの? 本当に迷惑だからやめて」


 彼女は必死に縋るように言う。


「だって、翔太は私の、私の」


 僕は血の気が引く。

 なんだ今さら。

 よりにもよって、今日なんて。

 

 誰がお前の、だ。

 ここまで来て相手をしていられるか。

 どんな想いを抱いてようが関係ない。

 

 私はあなたのために言ってあげているのに!

 呪いのようなあの言葉がよぎる。

 

 呼吸が荒くなる。あぁ、本当にきつい。

 でも、どうだっていい。

 知ったことか。

 

 僕は、夢を叶えたい。

 復讐よりも、何よりも自分の幸せだ。

 これは僕の人生。

 そして、美しいあの猫に素晴らしい物語を。

 恩師の言葉にどこか背く誓いだが、やはり強く思った。

 

 一旦身を隠し、荷物からある物を出す。

 猫耳のニット帽とスキーゴーグル。

 学校に提出する著者近影用に使用した。

 

 新しい自分の被る姿だ。

 ずっとこれを通すわけではないが、今は何よりもこれが必要。

 

 ペンネームも猫に因むものにした。

 冗談みたいなふざけた名前だが、それは別の誰かに代わるために必要なものだ。過去の自分とは別の自分。

 

 あらゆる過去を切り離し、別の自分になる願いを込めている。

 

 頭に帽子を深くかぶり、ゴーグルを付ける。

 荷物をしっかり持って、深呼吸をした。


 怖い、不安で体が震える。

 長い歳月受けて来た、何かの傷が疼く。

 でも、行く。ここを出る。

 

 お母さんがこちらに気づき、振り返って小さく頷く。


「あ」


 あの子がこちらに気づいた。

 だけど、あらゆる意味での先手を取る。

 本当はずっとそうするべきだった。


「にゃああああああああああ!」


 そう叫んだ。今までのありったけの憂さを晴らすように。思いっきりふざけた。

 両手をばたばた動かし、狂ったように叫び続ける。獣のように、怪物のように。僕こそがモンストゥルム。そう、こうあるべきなのだ。


「にゃあああああああああああああああああああ!」


 意味不明には意味不明で戦うしかない。

 何よりエネルギーだ。勢いだ。

 驚かして、相手が呆然としている瞬間、お母さんが押しのけてくれて、その隙間を走り抜けた。猫を被ったまま。

 

「待って、翔太ぁぁああああああああああ」


 後ろから追いすがる声を振り払う。


「いってらっしゃい!」


「にゃあああああ!」


 お母さんの声にだけ、そう答えた。

 猫を被って逃げ出した。

 もう何もかも関係ない。

 だって、猫だから。

 

 そして、青き学び舎へと駆けていく。いつかあの方に届きますように、何かの糧となりますように。そう願い、何よりも自分のために己の創造を育てるのだ。

お読みいただきありがとうございました。

葵ちゃんについては、何らかの補足となるお話を書けたらいいなと思っています。


本作は少々謎な設定ですが、連載中の別作品「ファン失格だけど、綺羅星のあなたを讃えてもいいですか?」という作品と世界観を共有しています。主人公ではありませんが、翔太くんとお猫様も本編のどこかで出てくる予定です。https://ncode.syosetu.com/n9471jd/


もしこのお話をお楽しみいただければ、広告下のご評価★★★★★やご感想などを頂けると飛び上がるほどに嬉しいです。

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