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Archimedean twist



前二一六年の J・アルフレッド・プルーフロックは海の中より生まれ出づる。


これはつい先ほどの晩、シチリア行きの木船の上で、ボロ布を纏った歌唄いから聞いた笑い話だ。

無名の天文学者にして、太古以来変わらぬ女性の生命力におびえていた男。巫覡でもあった女が崖際の小屋から突き落とされたとき、一目散に彼はボートの係留ロープを十重二十重に固く結わえ、次いで雷雲を呼ぶ呪符を腔内に溜め込み、次いで赤や褐色の海藻を山のように積んで香を焚いた。このような試みはことごとく間抜けな結末を迎える。だがあるいはそれゆえに、失敗のたびに遡行して女の小屋がより高い場所──落下まで数日かかるような──に建っていたことになり、やがて女を溺死せしめたのだ、と(「そうじゃないのよ、ほんとに。そんなつもりじゃなかったのよ」)。

だってそうでもなければボートは間に合っていたでしょう、と若い歌唄いは言う。その通りだ、とは言わなかった。私は以前女と同じ死に方をしたことがある。


J・アルフレッド・プルーフロックは相も変わらずくたびれた中年ふうの男、しかし光ある眼で五つの大宇宙を旅し、巧みな腕でもってLSDを時空にまき散らしてきた。此度もそうなるのだろう。

階段を登り降りするローマ兵たちは交替でアホウドリの内耳を持ち、浮遊している。私は慌てて物陰に隠れた。

「時間はあるだろう」

「時間はあるさ」

「殺戮と創造の時間」

「日々の手仕事のための時間」

「皿の上で問題をつまみ上げ、また下に置く時間」

しばらくして、階段の上の扉からは魚の鱗をした太い腕が飛び出し、しなかやかに中空を撫でた後そっと扉を閉めた。


井戸の底には塔の方へ向かう地下通路が隠されている。進むほど細く暗くなる道の途中、石壁からほのかに光って浮かび上がった、互いにぶつかるにつれ端から解れてゆく弦の言葉たち。

──星の海を何千万年も泳いで、二十四の種族が同時に衝突する偶然を待ち続けると思うと、あたしはたまらなく寂しくなる。──むかし怪獣たちが、都市を赤くし、帝国を赤くし星を赤くして、その上に黒い形骸を横たわらせ、手厚く葬ってやったそうな。──フェニキア人の水夫は発作的に局部光合成をしたがるので、肛門は陽にさらし油をさし虫にさらしてやった方が良い。──君の最後の子どもは、みたび君の祖母になり──。

これらは横書きなら縦に、縦書きなら横に読むことで、やがて諦めたように遠のく。むしろ気がかりなのは、遥か後方で瀑布のごとく轟きながら次第に近づいてくる(しかし決して走ってはならない)、私の足音の残響だった。


「一分間の中にも時間はある。一分間でひっくりかえる決断と修正の時間が」


失神から目覚める。

人が鳥の頭をしていたほどの大昔にオークの森の儀礼所だったこの縦穴で、今や要塞の一部として組み込まれたこの凍てつく氷室で、一昔前に異端セクトの主が蟄居していた。聞くところによれば、かの者はひたすら死の変形を追い求めていたという。それに必要な高次の空間概念と知覚の延長は、機械学的証明論によって補われた。往時には何百という弟子たちとともに、隕鉄で覆ったユリの根をてこの片方に据え、他愛もない瞑想にふけった。研究の甲斐なく牛糞を塗りたくった腕を犬に噛みちぎられて空しくなった。少なくともあの歌唄いが言う女の伝承の半分ほどは、この教団で培われた訓話に由来するらしい。

ズボンの裾を折り曲げ髪を後ろで分けた J・アルフレッド・プルーフロックは低い声で語り始める。連星の刻は来たれり、と。


そうして私たち獣たちはただ一つの岩の前に横臥した。その皮の下では、鼻先から尾の先まで触肢が緊密に張り巡らされ、血汐と胞子の流れはどんどん速くなって、彼方より来るはずの合図を今か今かと待ち望んでいた。そしてまた、これらの思惑とはあまり関係なく(ということは、それゆえに)私たちは古層と新層をひっくり返すに至った。今世において前二一六年は、近さが遠さになり遠さが近さになった最初の年として記録されるだろう。やがて地を這う鳥にも翼ある蛇にも似たアステリオルニスの狩りは、いかがわしさを塗りつぶし確信ある誠実な労働として尊ばれ、鉛錘からまた別の鉛錘へと滴り落ちる水までもが、平衡状態において青く澱んでいくだろう。


巨大な雄叫びとともに何度も叩き潰されるがらんどうの箱。微振動、落下する木片、竜血の粉、廃樽の中の鍵。ある意味ではもう遅く、しかし、あった! このスクリューポンプこそ、私が「身も凍る思い」で探していたもの。かじかんだ手でポンプをそっと持ち上げる。

ところで、崖の下から歌唄いの腕が伸び、私の剥き出しの脊髄を引き抜こうとした、まさにその瞬間。歌うような嬌声に囲まれたまま、J・アルフレッド・プルーフロックは蟹のはさみを抱いて睡りこけているのだ。


まだ時間はあるさ。まだ、二千年ほどは。



T・S・エリオット『J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌』(1915年)の引用は岩崎宗治訳『荒地』(岩波文庫、2010年)による。


初出:https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2023/11/21/215012

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