第1.5話 17年まえの記憶の整理
僕は昔虫歯にならない体質だった。ある日突然虫歯ができるようになる。虫歯菌について調べてみると、もともと虫歯のできない体質の人間は外から菌が入ってこない限り絶対虫歯にならないという。
彼女とキスをしてから虫歯ができるようになったのだ あれから17年、僕はこのいまいましい虫歯すら今はいとおしく感じられる。
彼女と出会ったのは高校1年の4月、入学したての頃だ。初めて見たときは衝撃をうけた。電気が走った。小柄な女の子が楽器を持ちながら所在無げにたたずんでいる。現実の人とは思えないかわいさだった。
その日は新入生がはじめて部活選びをする日だった。僕は中学でバスケ部にはいるが長続きしなかった、スポーツは苦手だった。
だから高校では絶対文化部と決めていた。音楽なら自信があった。幼稚園から小6までいやいやながらピアノをやっていたからだ。ピアノは操作が複雑だ、楽しくない。でも管楽器なら、という打算もあった。吹奏楽部は演奏で新入生を出迎えた。希望者はこちらへと誘導され、あれよあれよという間に先輩たちの都合で僕はトロンボーンになった。スライドと呼ばれるU字型の管で音階を操作する大型トランペットと思っていただければ、ほぼイメージできると思う。
「ほかにも1年がいるから」といわれ、僕はのこのことついていき、電気が走るにいたった訳だ。
最初の1年間はろくろく口も聞けなかった。僕は天性の口下手だ、
必要最小限の会話しかできなかった。それでも毎日放課後が楽しみだった。彼女は中学でも吹奏楽部だったようで、すでに即戦力。先輩たちに混ざって演奏。こっちは来る日も来る日も練習と雑用、であるにもかかわらずだ。
1年がたち先輩も卒業し、いよいよ出番が回ってきた。その頃には彼女とも普通に話していたハズなんだが、どんなことを話したかどうもはっきり思い出せない。思い出せるのは、彼女のはにかんだ笑顔とクルクルとしか形容できない愛くるしい笑い声。そして反面急に別人のように無口になる姿だけだ。
少年の頃は恋愛感情というチャンネルが閉じているらしく、なかなか自分でも理解できない。だがその頃にはようやく僕が彼女のことを想っていると解釈できるようになっていた。画期的進歩だった。
この画期的進歩を放置していてはもったいないと思った僕は、無謀にも彼女を映画にさそった。意外にもOKしてくれたのだが。恋愛感情1年生の僕には、まだ彼女の真の気持ちが理解できていなかった。
映画当日僕は人生がひっくり返るような大告白をされて気が動転し、2〜3日理性が働かなくなるのだが、17年たった今にして思えばそんなものまだかわいい方で、彼女の抱える闇はもっもっと深かった。
なぜ彼女がOKしてくれたのか、今はわかる。そしてこの先起こる出来事の真の意味が。
映画当日、確か「k-9友情のなんとか」とかいう警察犬の出てくる洋画を見たような気がする。あまりの衝撃に記憶が飛んでいるのでご了承いただきたい。映画が終わり、マックで食事をした。
ここ沼津はアーケード街があり当時としては周辺都市の住民を呼び込むのに十分な魅力があり、映画館も近くにあった。ほかにも娯楽はあるのだろうが、当時も今も娯楽と言えば映画しか知らない僕は、後はどうしたらいいのかわからずとりあえずアーケードをくぐりマックに入ったわけだ。彼女は食事をせず、オレンジジュースだけを頼んだ。ここだけは17年たった今でもわからない、聞くと
「食べてるとこ見られるのがはずかしい」
との事だ。後々気つく事の大きさからついつい勘ぐってしまうが、多分あまり深い意味はないのだと思う。
当時、「高校教師」というドラマがあった。山崎ハコの曲がテーマ曲だか主題歌になっていて、高校生と教師の許されない愛をかいたドラマだ。ぼくはこのドラマが大っ嫌いだった。それはまさに映画当日の彼女の告白のせいだ。
彼女と先生が付き合ってるというのだ。しかも先生は妻子もち。
なぜ僕に言う?意味がわからない。混乱し、動揺し、記憶が一部不明になる。その後2人でどうしたか?どうやって帰ったか?完全に記憶にない。
なぜ彼女がそんなこと言ったのか?17年たち真実に気づいた今なら解かる。
おそらく彼女は自分を取り巻くしがらみから開放されたかったに
違いない。外の世界で自分を受け入れてくれる人がうれしかったのだ。先生や僕、外の世界の人間とのつながりがうれしかったに違いない。しがらみ、まさにそれは、この日このときすでに僕に迫りつつあったのだ。同じマックの店内に…
その後の奇妙な学園生活は思い出すだけでも腹が立つ。告白したくせに事を荒立てないでくれという彼女。じゃ言うなよせっかくのデート台無しにしてと心で思いつつ押し黙る僕。なにも気づかないその先生。腹が立つけどなにもできないこの悲しさ。せっかく1年もかけて告白してこの結果だ。なにか得体のしれないインスピレーションが僕を後押しした。普段人づきあい苦手な僕が彼女を口説き続けたのだ!不思議なことに彼女はさほどの拒絶を見せなかった。
いや、実はこのときマックで始まった得たいの知れない何かが、水面下でもっと大きなことを起こしていたのだが、まったく気づかずに、この時は口説き続けた。
その後、得体の知れないそれは彼女と先生を引き剥がすことに成功したらしい。先生は不自然な転勤をした。当時いろいろ噂が飛び交ったらしい。がどれも真実ではない。
最初、得体の知れないそれは僕をターゲットにしていたらしい。友達の少ない僕に対し、クラスの女子2人組みがやたら仲良くなろうとするのだ。だがコミュニケーションスキルゼロの僕はまったくかみ合わない2人が理解できず、テキトーな対応をしてお茶を濁していた。そのうち2人はこっちをまったく相手にしなくなる。当時は、やっと興味を失ってくれたか。少し残念。などと悠長な事を言っていたが、彼女ら女子2人組みは僕と彼女が付き合っていると勘違いし、引き裂くべく放たれた刺客だったのだ!
その時は気がつかなかったが記憶がある、彼女がその女子2人組みを見たときの不安と嫌悪の入り混じった表情。印象的だったのではっきり覚えている。
得体の知れないそれには別班がいたようで、彼女を尾行し、真に付き合っているのは先生であるのを突き止め、何らかの方法で転勤させたと推察する。彼らにはそれだけの力があるのだ。
ちなみに彼らは仕事は完璧にする主義らしい、ある日自転車で下校中の僕の目の前に彼女が現れた。その日はめったに使わないルートを使ったので待ち伏せは不可能。しかも彼女は自転車もなくただ立っていた。どうやってここへ来たのか。
彼女は僕に手紙をくれた。今にして思えば書かされた別れの手紙だ。だが、初めて貰う女の子からの手紙に喜んだ僕はその状況の不自然さなどどうでもよくなり、内容もどうでもよかった。別れの手紙なのに、それに対して返事を書いた。意外なことに返事を貰えた。
1年目は見ているだけ、2年目は玉砕。しかし3年目先生もいなくなり状況がかわりはじめる・
何度か手紙を書いた。電話もした。しかし快い返事はもらえなかった。しかし明確な拒絶もないまま3年生になっていた。
あれは いつのことだったか… その日は吹奏楽の練習は後輩たちのみで僕らは早く帰る予定だった。3年は早い時期で受験勉強に入るため引退が近いためだ。
人気のない廊下の隅で僕らは2人きりで話した。彼女は煮え切らない態度で付き合えない事をつたえる。けど明確な拒絶でないため納得がいかなかった。彼女は珍しく髪を高い位置でポニーテールにしていた。めちゃくちゃかわいい。普段は低い位置でしか束ねていない。その日はこのために特別にこの髪型にしてきたというのだ。喜ばしたいのか悲しませたいのか当時の僕のコミュニケーションスキルでは理解不能だったが、彼女の並々ならぬ決意だけは伝わってきた。
おそらくここで別れたら、もう2度と会えない
直感がそう告げていた。2度と会えない。当時の僕には死刑宣告にも等しい。死ぬなら、死ぬ前に伝えたいことがあった。それまで遠慮して言えなかった彼女の悪口。そして恥ずかしくて絶対に言えないような本音。脳の奥でしか出さないような小さな小さな心の叫びまで全部ぶちまけた。もう2度と会えないんだから、これでいいんだ。嫌われてもかまわない。まくし立てながら、終いには泣いていた。最後には母親にだって絶対言えないような恥ずかしい言葉を吐いていた
「僕は、甘えて、すがって、支えになってくれる人が欲しかったんだ!」最後はたしかこう叫んだと思う。しかも泣きながら。誰かもし見ていたとしたら、どう思っただろうか?しかしそんなことこの時の僕には関係ない。
終わった
そう思った、泣きながら。おそらく今泣いたがためにつぶった目を開けると、そこには軽蔑のまなざしの彼女がいるに違いないと確信していた。でも悔いはない。初めてのまともな恋、やり遂げた!と不思議な充実感があった。そんな悲しいんだかそうでないんだか解からない感情のまま目を開けると、そこには、初めて見たとき以上にかわいらしい表情をした彼女がいた。
「そこまで本音を言ってくれた人ははじめて…」
顔を赤くしてたたずむ彼女を見て、一瞬で状況が変わったことに気づく。彼女は何もしゃべれないでいた。
ようやく涙をぬぐうゆとりができた僕は袖で目を拭きながら
「もう2度とこんなこと言わない」とか言ったように記憶している
自分の事なんかどうだっていい、忘れてかまわない・
「顔を見られるのがはずかしい」
そう言ってうつむく彼女。その時どうして思いついたのか僕は彼女の1センチすぐ前に移動した。驚く彼女に対して
「これだけ近づけば顔下にしなくてもみえないよ」
僕が身長160センチ、彼女が150センチ。10センチ差でそうなる。
彼女がようやく和らいだ。案外気が合いそうな気がしてきた。
世界が変わりはじめた
17年たって思う。彼女は彼女なりに僕を気遣ってくれていたのだ。こっちにくるな、関わるなと。だけど、こっちから猛ダッシュで飛び込んでその壁を破ってしまった。おそらく、得体の知れないそれも、2人そろって付き合っているのを隠せば気づかなかったかもしれない。けど、彼女はそれを打ち明けなかった。打ち明けていてくれれば…と思うが、通常打ち明けた場合、気が狂ってると思われるかギャグを言ってると勘違いされるかになる。当時の僕も残念ながら絶対信じなかったと思う。17年後の今だから解かるのだ。
その日は天国のような日だった。彼女はぼくを知らない世界へ連れて行ってくれた。当時の僕からすれば彼女ははるかに大人だった。
人には語りたくない大切な思い出は誰しもがあると思う。初めてのキスは天国よりもはるか高いとこに僕を連れて行った。
僕も彼女も吹奏楽部としてほぼ毎日練習のため学校で顔をあわせた。“彼ら”の仲間は部の中にもいる。なぜそう思うかというと、例の女子2人組みに向けたあの不快感を表した目線を時々彼女が“彼ら”に向けていたからだ。そういう目線の時はたいてい彼女はよそよそしく、他人のようにふるまった。僕はあいかわらず気まぐれだな…でもかわいい。などと鈍感さの極致を窮めていた。
僕ら2人の行動は完全に隠密行動だった。事情を知らない僕は正直不満だった。そんなに僕と付き合ってるのを隠したいのか?とも正直思った。だが時間が経つにつれ、それも徐々に緩和されつつあった。
彼女ももう大丈夫と安心したのだと思う。だがそれは油断だった。
あの春の日。この日初めて彼女は“それ”の存在に気づき、怒りを見せた。もう来ないと思っていたものがまだ来ていたからだ。
いや、もっと前に気づいたのかもしれないが、少なくとも彼女の明確な憤りを見たのはその日が初めてだった。
その日、僕らは自転車を牽きながら歩いて2人で下校していた。暖かな日差し、風になびく草、2人並んで下校する。まるでドラマの1シーンのようだと感じた。でもドラマではない、現実であり、現にとなりに彼女がいる。永遠に続くんじゃないかと思えるその光景、だが当時の僕はまだしっくり来ていなかった。彼女は何か隠している。そう感じた。自分はこんなに心をさらしているのに…、まいずれ話してくれるだろうと、わずかな心のしこりを抱えていた。17年後の僕からすればなんともったいないことか、彼女は心底お前を信頼してるんだぞと言いたいのだが、当時の僕には届かない。
そんな感じで美しい風景とは裏腹に心で引っかかっている僕と違い彼女は楽しそうだった。いや現に本当に楽しかったんだと思う。しがらみのない世界で自由だからだ。
そこにそれは突然現れた。
黒系の色の車が徐行してこっちに来る。中には20歳前後と思われる男が4人。こっちをみて「ヒューヒュー」と茶化す。かわいい彼女連れてからかわれるのはそんなに嫌な気分がしない、僕が照れていると車は行ってしまった。
車が行くのを確認すると、彼女はものすごい不安と憤りのまじった表情で
「今のしりあい?」
と半ばケンカごしで聞いてきた。怒りすら感じる。照れ笑いの最中だった僕はマヌケにもその表情のまま否定。
それまで楽しそうだった彼女が急に地獄に来たような感じになってしまった。気づけよ!当時の僕。だがおそらく現在の僕でなければ彼女があの4人の男からどれほどのプレッシャーを受けていたのかを説明できないだろう。
その日以来、彼女は尾行に気を配るようになった。いや当時はわからなかった。今思い返してみるとそう思う。当時ぼくは呑気な子供で、彼女がどんな世界に身を置いているのか想像外だった。そういえば大人びていた、当時の僕は単純に彼女をそう思い、尊敬すらしていた。彼女から何かを学びたいとすら思った。なんて根性のある子なんだろうとも思った。だが、それらはすべて錯覚だ。現実の彼女は根性なしだ。根性があれば、変人扱いも承知の上で僕に信じるまで告白し続けたはずだし、大人びて見えたのは、そうならざる得ない環境のせいで、現実にはまだまだ子供で、信頼する人を欲していたのだ。気づけなかった…
今、思えば彼女はシグナルをいくつも出していた。それらをつむぎ合わせると1つの真実にたどり着くのだが、当時の17歳の少年僕には不可能だった。
その頃になると2人は小さな“神社”の社の前で、毎週木曜日に会うようになっていた。特に暗くなる時間帯に。まるで周囲の目を気にしていたように…、というか事実彼女は気にしていて、僕はまったく気づかなかった。
ほの暗い神社の境内、その奥にある倉庫ぐらいの小さな社。その社の小さな階段が2人の指定席だった。まずそこに人がいるとは誰も思わない完璧な隠れ家だった。彼女は1人になりたいときよく“神社”を訪れるという。ここもそうした過程で見つけた場所らしい。
2人でじゃれ合いながら過ごしているとあっという間に時間が経つ。まるで2人の周囲だけ別時間が流れているように…。
あの日以来、ここへは別行動で合流するようになっていた。決して2人で一緒には来ない。待たされるのはたいてい僕のほうだ。
僕は待つ間いつも不安になる。もしかして来ないんじゃないか?そう思うからだ。学校で会うとき、時々どうしようもないくらい彼女は他人行儀になる。コミュニケーションスキルゼロの僕は、彼女が僕と付き合っているのを恥かしいと感じていると思った。申し訳なく感じた。こんな僕でごめんとも思った。だから、来てくれた時は本当にうれしかった。来てくれるんだから大丈夫。そのうち普通の恋人同士のようになれる、そう思っていた。
僕は完璧に彼女に振り回されていた。心のどこかでもてあそばれているように感じることもあったが、この頃はまだその思いも無視できるレベルのものだった。大丈夫、いつか彼女は秘密を打ち明けてくれる。ともかく待とう。そう思っていた。
だが事実は違う。彼女は必死に僕との大切な時間を 得体の知れないそれから守ろうとしていたのだ。もてあそぶだなんてとんでもない誤解だった。おそらく彼女は必死に尾行を撒いていたに違いない。時間をかけて。
彼女はポケベルを持っていた、当時高校生としては珍しい。
「それどうしたの?」と訊くと。
「お兄ちゃんからもらった」と彼女。
「兄弟いるんだ」と訊くと、彼女は否定する。
「通信費とかどうしてるの?」と訊くと、そのお兄ちゃんが払っていると言う。ここに重大なヒントの一部があったのだが、ちらつく男の影と先生とのことを連想し、気が気でなかった。
ポケベルは彼女にとってとても重要なものらしく 2人だけの隠れ家である神社にいても、呼び出されたら絶対行かねばならなかった。たとえ僕がいても。悲しかった。
そんな彼女が、隠すことから戦うことに転じたのは夏祭りの日からだと思う。記憶の限りにおいて。
沼津の夏祭りの日、祭りなんだから祭りに誘えばいいのに僕は映画に誘った。映画しか娯楽を知らないからだ。で見終わったらついでに祭りによろう、そう考えていた。彼女の方は祭りがメインと考えていたのか浴衣で来てくれた。女の子の浴衣姿をこんなに間近で見るのは初めてだった。しかもこの浴衣は僕のために着てきてくれたのだ。人生でこれほどの幸せがあるだろうか?
待ち合わせは相変わらず別行動で現地集合だった。沼津駅北口の近くにある小さな神社を指定した。指定した時点では喜んでいた彼女だが、いざ当日行ってみると非常に不機嫌そうにしている彼女が神社にいた。浴衣姿で。こんな目立つかっこでこんなとこで1人待たせたんで怒ってるのかなと感じた。
「あそこの2人…」と彼女。
見ると神社内にあるブランコに大人の男女が腰掛けている。ああこんなとこで1人たたずんでいたんじゃそりゃ不機嫌にもなるなと思った。多分ごめんと謝罪したと記憶している。けど彼女はそうじゃないのよという。訴えていたのだ別のことを。察してほしかったにちがいない。たよれる男であるところを見せてほしかったのだろう。しかし彼女もそれが不可能であることを心得ていた。とにかく夏祭りだ。楽しまなければ。
映画ははっきり覚えている「紅の豚」。最初は渋っていた彼女も最終的には気に入ってくれた。
「最後のキスのシーンあるでしょ 震えがきちゃった」と言う。
ヒロインを守るためボコボコになった豚が、感謝のキスをもらうシーンだ。確信を持って言う。豚と僕を重ね合わせて彼女は言っている。ただ当時のぼくは容姿が豚だからか?と思い落ち込んだ。
だが今のぼくはこう思う。ぼくに戦ってほしかったのだ、映画の豚のように…。
映画館を出ると外はすっかり暗くなっていて、人でごった返していた。祭りといっても正確には花火大会で、アーケード街は花火目当ての客でものすごいことになっていた。僕は彼女と花火を見たかったが、いい場所は人で埋め尽くされ入り込む余地がない。
「ロマンチストね」と彼女が落胆した声で言う。彼女の置かれた現実から見れば、ぼくは花火を見たがる夢見がちな映画好き。しかたのない発言なのだが、当時のぼくはむっとした。
散々人を振り回すうえに馬鹿にするなんて、と思ったが飲み込んだ。そんなちょっと気持ちがすれ違っているとき、事件がおきた。
アーケードを出ようとしたあたりで、急に彼女が僕をほったらかしにしてどこかへ隠れた。
「知り合いがいたの」
高揚した顔で彼女が微笑む。尾行をうまくやり過ごせた勝利の笑顔なのだが、当時のぼくはそんなことわからず、僕と一緒のところを人に見られたくないのか?とイライラが増していた。
結局花火は人とビルにさいぎられ見れなかった。彼女は花火より僕との会話する時間の方を好んだ。じゃあどこか適当な場所をと思ったが、彼女は沼津から離れる事を選択。ここでは尾行に発見される確立が高いと考えたのだろう。僕はせっかく来たのに…と思いつつしぶしぶ同意。電車に乗った。
沼津から僕の住む三島まで通常、東海道線を使う。だが彼女は御殿場線を選択した。僕らの通う高校の近くの駅につながっている。
僕は乗ったことがなかった。今にして思えば、彼女は彼女なりに尾行の裏をかいたつもりだったのだろう。しかしそれは甘かった。
彼らは身内のなかに異端者が発生すると特別な方法で制裁を加える。よく似た実験を昔TVのバラエティー番組でやってたのを思い出す。タレントが全面ガラス張りの部屋で24時間すごす企画で、人の集まる夏のビーチにそのガラス張りの部屋は設置されていた。
中に入ったタレントは最初周囲の人に愛嬌を振りかざしていたが、2時間が経つと人の目線に耐え切れなくなりギブアップ。24時間持たなかった。たった2時間で人間は無数の目線にさらされると精神が狂ってしまうらしい。
電車にのった。僕は一番いいアロハシャツ。彼女はかわいい浴衣。
周りのみんながこっちをみる。きっと彼女がものすごくかわいいからに違いないと思った僕はその事を彼女にささやく。当然いつものようにはにかんだ声で恥ずかしがると思いきや、まったく予想外の答えが返ってきた。
消え入りそうな声で
「そんなわけないでしょ…。わからないの?」
わからないのでその通りこたえた。この時の彼女の落胆でもない、恐怖でもない、まるで罠にかかった獲物のような表情は今でも忘れない。
駅に着いた。歩いてぶらぶらする、話しながら。周囲は真っ暗で駅と言ってもろくろく街灯もない。最初緊張していた彼女もだんだん和らいでいく。あたりに誰もいないからだ。
コンビニにより、アイスや飲み物を買ったような記憶がある。それを持ち、またぶらぶら歩く、話しながら。彼女は楽しそうだ。買った物は腹に消え、手持ちぶたさになった僕は彼女にキスをした。
その時、突然車のヘッドライトが僕らを一瞬照らし、どこかへ行ってしまった。
「見られた…」
彼女のつぶやき、当時は人に見られたのが恥ずかしかったのかな?と思い
「いいじゃん、別に」と僕。
「よくないわよ!」彼女はさけんだ。おそらくこのあと、「事の重大さがわかってないわね」といいたかったに違いないが言わなかった。
彼女の中で何かがはじけた。戦う決意をしたに違いない。当時の僕は何かある、どうしたんだろう?キスしたこと怒ったのかな?僕がこんなとこでキスしたせいで、人に見られて恥ずかしい思いをして落ち込んじゃったのかな?それにしては気迫を感じるのはなぜだ?と思った。
だが事実は違う。彼女が必死にいままで守り通してきた大切なものが破壊の危機に瀕している。ばれた以上、戦うしかないと決意したのだ。当然この場合大切なものとは僕のことだ。今ならわかる。だが17年前の僕は彼女に愛されていることを信じ切れないでいた。
とりあえずどこかに隠れねばと思った彼女は近くに絶好の神社があることを思い出し
「こっち」と歩き出す。
ぼくは、また気まぐれか?訳わからんと思いながらついていった。完全に2人の気持ちはこの時すれ違っていたのだが、当時の僕には理解の範疇を越えていた。実に苦々しい…。そしてこの後に起こる破局の始まりを 17年たった僕は理解できるが。当時の子供なぼくは自分の不満のことばかり考えていて予感すら感じなかった。そしてこの後、ぼくは人生最大の過ちを犯す。まさにそれは17年の現在につながる道の始まりであり、たどり着いたゴールなのだが…。
神社は初めてきたところで長い階段があり、照明はなかった。彼女は前に来ていたらしく。自分の欲する隠れ場所として理想的だと確信した。階段中腹まできて2人座れば、暗すぎてあたりからは見えない。絶好の隠れ家だ。彼女は打って変わって上機嫌になり僕を階段に誘った。彼女は必死にぼくを守ろうとしていたのに、僕はそれを理解できず、振り回されているという被害妄想からストレスが増すだけだった。人間には表現力が必要だ、これは現在の僕がたどり着いた結論だ。
ぼくはこの日からずっと、彼女の気持ちを理解できる人間になりたい。ただそれだけを目指して17年生きてきた。コミュニケーション・スキルを身に着け、論理的思考法を養い、断片から文脈を読み解く方法を獲得した。みな彼女のあの時の気持ちを理解したいがためだ! だがこれだけそろえてもだめだった。永久に到達できないはずだったその目標は意外な形で現実のものとなる。
17年たち、まったくの偶然から僕は彼らのターゲットにされた。本来、身内の異端者にのみやっていたであろう集団プレッシャーの洗礼を受けたのだ。どうやら彼らは、団体構成員をいじめたものを
このような形で制裁を加えるようなのだ…。邪魔者は排除する。ということだ。
神社の階段で僕たちはくっついて座った。彼女はあたりを警戒している。すると、ぼくらより下の段、4〜5メートル下に母親と息子らしい2人連れが座った。息子の方は僕と同じ位の年で、妙にそわそわしている。一瞬でおかしなやつが来たと思った。
せっかくの二人きり邪魔されたくないと思ったぼくは彼女に場所を変えようと言った。だが彼女はガンとして譲らない、出て行くのは向こうの方よという。彼らの存在を知らない僕はその意思の強さに感動し、その後の人生で人とぶつかった時いつもこの時のことを思い出し、彼女のように絶対に退かない強い意思を持とうと心に刻み続けた。このおかげで今ではたいていのプレッシャーは跳ね返せるようになり、彼らと17年ぶりに遭遇したときも役立ったわけだが。そもそもが僕の誤解であり、彼女は強い意思の持ち主ではなく、
ただ僕を守るために歯を食いしばってがんばっていただけだと気づいた現在は、どう彼女に謝罪すればいいのか…、いやぼくはこの後もっと大きなミスをする。このミスがかわいく思えるようなでかいやつを。
どこまで隠れても逃げ切れないと悟った彼女は立ち上がり、堂々と振舞うことを決意した。階段を下り、堂々と2人で道を歩こうというわけだ。彼女が今、世界で一番大切に思い守り通そうと決めた男がまったくの不甲斐なさを発揮するのはこのしばらく後のことだ。
しばらくすると彼女のポケベルが鳴った。
また行くのか…。と思い落胆していると、意外な事に彼女はポケベルの電源を切った。あんなに大切というか、何よりも優先していた呼び出しを無視したのだ。それどころかポケベルの振動機能を使って僕にじゃれ始めた。いままであんなに大切にして、触らしてさえくれなかったポケベル。
そして彼女はついに告白した。言ってはいけない秘密の一部を だがそれは恐ろしく遠まわしな表現で当時の僕の分析力では限界があった。
前に付き合っていた、お兄ちゃんの話。お兄ちゃんといっても兄妹でも幼馴染みでもない。関係の部分はごまかして彼女は話を進める。言わなくてもわかってほしい。それが彼女の願いだ。あの映画の豚のように戦ってほしいと願ったに違いない。
けど僕は散々振り回されストレスもかなりたまったとこに前の彼氏の話かよと落胆し、聞き流してしまった! もし細かく聞いていたら、違っていたかもしれない。今の僕のスキルの何分の一でもいいから発揮できていたら、状況は変わっていたかもしてない。何より、気持ちがすれ違ったまま別れなかったかもしれない。
しかし当時の僕は自分に自信がなく、その前の彼氏と彼女のよりが戻ることばかり心配し、その辺を話しの論点にしてしまった。今の僕なら、相手が強調したい論点かどこなのか探りながら話をする事ができる。今できても、当時できなければ仕方がないのだが…。
彼女が指摘したいそれは“彼ら”のことだ。構成員同士を守りあい、子孫繁栄も仲間内のみで相手を決める。外の人間と付き合うのは異端であり、制裁の対象になる…。
と、このように言えばいいのだが、彼女も子供だった。17歳にしては大人だと思うが、やはり子供だ。今の僕から見れば。秘密を守るよう教えられて育った彼女はせいいっぱいがんばって説明した。
この僕に賭けたのだ。彼女の並々ならぬ期待は伝わってくるが、いかんせん話の筋が見えず当惑するばかりの僕。せっかくのデートだ彼女がこんなに一生懸命話しているんだから、意味がわからずとも笑顔で返さねばと思い、笑顔でうなずき続けた。
これこそが僕の人生最大の過ちだった。
そのせいで彼女は話が通じたと感じ、満面の笑みをみせる。僕も笑い返す。2人の気持ちが完全にかみ合ってないのに、もしわからないという顔をしていれば、彼女は僕が理解するまで説明しただろう。コミュニケーション能力の欠如。許しがたい、犯罪的なまでの欠陥。人生最大の汚点であり、ぬぐえない過去。
2人は完全な誤解状態のままその日を終え、帰宅した。彼女は充実感で一杯の顔だった。その笑顔の意味さえ当時のぼくにはわからなかった。彼女はぼくのような何の役にも立たない人らしい物体にはもったいないくらいの、本当にすばらしい、たとえようのない、最高の人なのに、ぼくはその輝きがまぶしすきて、その本当価値、すばらしさにきづけないアホまるだしだった。
この後の出来事は、できれば書きたくない。思い出すのも表現するのも死にたくなる。
僕がまったくわかってないと彼女が悟ったのがいつだったのかわからないが、しかし、あの最高の笑顔が時間とともになくなっていたのは確かだ。彼女はまた、ポケベルに従うようになる。彼女の落胆はどれほどのものか想像するだけで死にたくなる。季節は秋になっていた。彼女がもう会いたくないと言ったのはこの頃だと思う。
もう会いたくないという前、彼女は最後の賭けにでた。
彼女が前付き合っていた先輩。先生の後に付き合った人、だが。ある日突然、彼女は先輩の正体をあかす。それがどれほど“彼ら”にとってタブーなのか当時の僕は知らなかった。相当勇気を振り絞って言ったに違いない。なのにぼくは彼女の命がけの告白にピンとこづ。あろう事かその先輩にそうなんですかと訊いてしまった。それがどれほど彼女の立場を危うくするか気づきもせず。
この事実に気づいたのは17年たったごく最近だ。つい数週間まえまで、ぼくは彼女を気まぐれなひとだった、どーしたら彼女を理解できるだろう。もっといろいろ学ばなくちゃなどと思っていた。
数週間まえの自分に殺意さえ覚える。殺してやりたい。彼女がどれだけ必死だったのか理解した日の夜、ぼくは声を出して泣いた。たった一人のこの部屋で。
彼女とはここで終わるはずだった。しかし鈍感の極みをさらに磨き続けたぼくは、彼女に攻勢をかけつづけた。真実を知った今の僕には絶対そんなことできない。きっと彼女はこの頃にはぼくの天然記念物的アホさにあきれていたことだろう。
今考えればヒントはいくつもあった。初めて映画に誘った日、彼女はこういった。
「私の本当の姿を知ったら、きっと嫌いになっちゃうよ」と。
部活中、雑談の中で、唐突に電車で痴漢にあった話をする。
「大丈夫なの?」と訊くと。
「大丈夫」と嫌悪感なく、いじらしいといった感じの、気づいてよといった感じの微妙な笑顔でぼくを見る。きっとこのヒントに反応できるか見ていたんだと思う。みごとわからなかったんだが。
この時期、ぼくはクラスで完全に孤立していて親しい友達はゼロだった。思い返してみれば高校3年間ずっとそうで、思い出せるクラスメートの名前は一人もない。最初の1年は僕自身の責任だったから気がつかなかった。が、2年目以降は“彼ら”が介在していたと考えるとどうだろう。
対象の孤立化を図るのは彼らの常套手段だ。
小・中学校ではともにそれなりにいた友達がゼロなのは異常だ。だが僕は高校ともなるとちがうな、もつと成長しなくちゃと思って、気がつかなかった。普段無視するクラスメイトが時々はずす仮面の下の顔に気がつかなかった。時々、短時間だけ普通の人として扱ってくれるのに、教室内の人が増えると、また元にもどるということがしばしばあったのを覚えている。
この頃ぼくはどういう訳か朝食を食べられないほど、胃が痛かった。例の集団で視線を浴びせかける攻撃を学校で受けていたのが体に出たんだと思う。意識は気がつかずとも体が反応していたのだろう。日曜日には普通に朝食が食べれるので母親が訝しがっていたのを覚えている。
彼女との密会が再開してから、こんな会話をしたのを覚えている。
「僕、学校の同級生の顔ぜんぜん覚えられないんだよ」
事実、今でも人の顔はすぐ忘れる。だから今ではそのひとの癖で覚えるようにしている。
「それでか…」彼女は納得した。
もし僕がまともな神経の持ち主だったらこの頃精神がおかしくなっていたに違いない。天性の鈍感さゆえにこの程度ですんだのだ。
心配していた彼女は僕を再び受け入れてくれた。彼女を落胆させたあの鈍感さが、あろうことか僕を守っていたのだ。
なぜ、再び彼女は会ってくれるようになったのか?“彼ら”の尾行も承知の上で、彼女は責任を感じていたのだ。自分と関わったせいで僕がこうなったと。
第2ラウンドの始まりはこうだ。
この時期友達がいない事は話した。だがなぜか僕に近づき時どき話しかけてくる他クラスの男子がいた。親しげだが妙によそよそしい。今思い返すとこの親しげだが妙によそよそしい男子は2年から3年生の間何人もいた。ま、気は会いそうないけど邪険に扱うのもどうか、コミュニケーション・スキルを身につけるためには人と会話をしなくてはと思いそれなりに近寄ってくるたび話に応じた。
「友達なの?」
彼らと話していた僕に久しぶりに彼女の方から話しかけてきた。ものすごい心配そうな顔で。いたわりや愛情も感じた。それまで他人のようにされていた僕はうれしかったが、さもこれが当然といわんがごとく、以前の調子で彼女の言葉に応じた。
「違う、知り合い」
彼女の顔に恐怖が浮かぶ。
記憶があいまいなのではっきりしないがこのしばらく後、部活中彼女が突然両膝をついてしゃがみこみ、泣きながら・
「ごめんね、わたしのせいでごめんね」
と言ったことを覚えている。この時期の記憶は混乱していて、どう対処したのか思いだせない。彼らのプレッシャー攻撃のせいで大切な記憶が混乱しているとは死んでも思いたくない。
再び彼女からまた以前のように会おうといってくれた。
天にも昇る心地だった。やったようやく想いが通じた!あきらめないでよかったと心底思った。その裏で繰り広げられていることや、彼女の気持ちの変化には何ひとつ気がつかずに…
だが、今回はそんな僕の欠点すら受け入れてくれたように思う。この欠点のおかげで助かっているようなものだ。彼女は安心した。本気で僕を気遣ってくれていた。彼女は知らなかっただろう、この17年後にぼくがそのことに気づくとは。
密会の場所は相変わらず神社だった。以前と同じように。しかし季節は秋。春の時よりも日は長く、周囲は暗くなかった。遠くからでも監視できる。それでも彼女はこの場所を指定した。
再び、あの2人だけの時間が帰ってきた。僕と彼女の周りだけまるで別空間のようになる永遠の空間。人生最高の時。
覚悟していたものがついに来た。おそらく最初に気づいたのは僕だ。じいさんが1人とぼとぼとこっちに来る。神社の敷地を不自然に横切り、消えた。こちらを見ながら。彼女は気づいてない。事の重大さに気づいていない僕は、気づいていなかった彼女にそのことを言ったと思う、記憶が混乱している。彼女は覚悟していたのもが来たことを悟ったに違いない。
「どうしてその時いってくれなかったの?」
彼女は不安な声でそう言った。
密会は以前と同じ毎週木曜だった。次の週神社に行くと、ぼくらの指定席に幼児を連れた母親が2人いた。そのうちどこかへ行くだろうと思いきやいつまでも居座る。彼女は一旦ここを立ち去ることを提案。実際立ち去ってしばらくしてもどると。誰もいなくなっていた。ここまできても僕は気づかない。不自然さすら感じてない。彼女のこの人はこれでいいのよという目線が痛かったように思う。17年たった今、彼女のあの目線の意味がようやくわかるようになった。
彼女は言った
「曜日を変えましょう」
唐突な提案に驚いたが特に拒否する理由はなかった。
17年たった今、彼女のいじらしさがいとおしく、どうしようもない感動と動揺を僕に促す。彼女はこの時点でもうやめにしてもよかったのだ。相手は絶対勝てない相手だ。無理に抵抗しても無駄だ。
自分のせいで僕がこうなったと思うならもう充分つくしてくれている。これ以上自分の立場を危うくするほどの価値のない男であることは知っているはずだ。それでも彼女は抵抗する道を選んだ。この僕のために…。
曜日は確か金曜日に変更したように記憶している。実際その日行ってみると、まったく人気がなかった。完全な無人。今思うと、て事は木曜日には無意識のレベルで僕も人の気配を感じていたんだろうか?そう感じさせるほどの完全な無人状態だった。
彼女は歓喜した、久しぶりに見るあの満面の笑み。なんだかわかっていない僕もその笑顔が見れてうれしかった。あの瞬間を永遠のものにしたいと今は思う。あれが“彼ら”を出し抜いた最後になった。
このあともしばらく、毎週金曜日僕らは会った。
もっとも印象的に覚えているのは、2人で抱き合ったとき、ぼくが彼女の腰に手をかけたとき、
「だめ、むこうから見られちゃう」
といって、2人の位置を入れ替えることを要求した時だ。入れ替われば、監視者からは僕の背中しか見えないという訳だ。彼女はもう覚悟していた。
この頃季節は冬だった。ようやく日が暮れるのが早くなり、彼女を安心させた。これだけやたらと暗がりを好むんだからそろそろ気づけよと思うのだが、当時の僕には不可能だった。
人の記憶とは不確かなもので、時間が経過するほど現在に近づくんだからより鮮明に覚えていてもいいはずなのに、この頃の記憶は特にぼけている。
ぼくはこの頃彼女との関係をどう持っていけばいいのかわからなくなっていた。ぼくの望みは普通の恋人同士のようになることだ。
こんな暗がりでコソコソすることではなかった。どうすればそうなれるのか…。クラスや学校で続く孤立化作戦もあいまってぼくの思考は判断を誤り続ける。あろうことか彼女にイライラを再び感じ始めていたのだ。ある意味“彼ら”の勝利だ、くやしいが。ぼくは子供すぎて、彼女の保護なしではこの2人の関係か維持できないことに気がついていなかった。
そしてわずかながらイライラを彼女にぶつけるようになっていたのだ。それでも彼女はぼくをいつくしんでくれた。ありえないことだと思う。ぼくのどこにそんな魅力があるというのか今でもサッパリわからない。“彼ら”さえいなければ僕らは最高のパートナーになれたかもしれない。
知らないところで彼女は何らかの非難をされたらしい。今度は場所の変更を提案してきた。違う神社で会おうというのだ。もし現在の僕なら、そのワンパターンな手はもう通じないから、違う提案をしただろう。人海戦術はかれらのオハコだ。おそらく周辺のすべての神社に見張りをつけていたに違いない。まさに罠にかかりに行くようなものだ。そして僕らは見事にはまった。
その日僕は彼女と会話を中心にして挑もうと思っていた。僕は彼女のことをなにもしらない。お父さんのこともお母さんのことも、妹がいるらしいことは何度かの電話で知っていたが、ほかに兄弟がいるのかとか。
どんな風に育ったのか。何に今一番興味があるのか、将来どうしたいとか。どんな食べ物が好きで、今までの旅行でどこが一番楽しかったのかとか、僕は彼女がどこに住んでいるのかさえ知らなかった。何も知らなかった。いつも僕が一方的にしゃべるだけだった。
言えるはずがない。彼女の人生はすべて“彼ら”と関わっている。
説明できるはずがない。何度きいてもはぐらかされるからイライラしていた。
けど今日こそは聞き出してやると決意していたのだ。僕なりのわずかな成長だが、事態の切迫さと、局面が重大なとこまで来ていて、
まさに追い詰められているとこだとは夢にも思っていなかった。
それは2人ですごした、いやすごしたと思い込んでいる最後の密会となった。今は考えるだけでおぞましい。すべて見られていたのだ。最後の思い出は汚されてしまった。
次の週、もう会うことはなかった。電話でもう会わない旨伝えてきたのだ。僕たちは捕食者についに捕まり、餌食とされてしまった。
このあと、廊下ですれ違いそうになっても彼女の方から逃げる。僕の周辺には“彼ら”が常にいた。僕が毎日話している連中は“彼ら”だったのだ。その連中と何も気づいていない僕が歩いている様子を彼女はどんな風に見ていたのだろうか?僕と再び会うと僕にこれ以上の何かがおこるといわれていたのだろうか?事実今考えるとピンとくるものがある。大学受験の際、推薦受験資格がとれたのは担任の先生がたった1人でがんばってくれたからだときかされた。先生も事態の奇妙さから違和感を感じていた。成績が振るわなかったのは僕自身の責任だが、それにしても評価が低すぎた。近所で僕と同じ名前の犬を飼うおばさんがいて、わざとらしく我が家の前でブラッシングをしているのを家族から聞いた。わが一家は僕同様天性の鈍感人間がそろっているので変な人だねくらいにしか話題にならなかった。
部活ももうない。3年生は受験に専念する。クラスも離され、会う機会はほとんどない。以前は廊下で、はるか遠くに彼女をみつけるて、じっとにらんだりすると。こっちを振り向いたりした。目が合い、楽しかったなんて事もあった。それももうない。視線をむけても彼女は逃げる。けど完全に視界から消えるわけでなく、背を向けて僕の見える範囲で立ち止まり、じっとしている。けっして振り向かない。彼女なりの抵抗だったのかもしてない。あれが抵抗の限界だったと思うとなんといじらしいことか!あの状況でさえ僕にシグナルを送っていたのだ!
にもかかわらず、まったくもって気がつかなかった。とても僕と同一人物が過去行った所業とは想いたくないが、否定すると自分がおかしくなってしまうので受け入れるしかない。、
ある日彼女は髪を切った。ショートカットにしたのだ。正直似合ってない。その日以降本当に彼女は僕の周辺から感じられなくなった。
それでも本当にまれに顔を見る。チラとこちらを一瞬みると感じるのはぼくの勘違いかもしれないが、侮蔑の感情もあきれた感情も彼女からは感じなかった。だから僕はまだ脈はあると思って手紙を出し続けた。
今は思う おそらく彼女は僕が何事もなく無事でいるのを一瞬みて確認して安心していたんだと思う。彼女はこの時点でさえぼくを気使ってくれていた。
殺人的なほど鈍感な僕はまったくわからず手紙を出し続ける。けどその鈍感さがぼくの無事を保障している。手紙を見るたび、彼女が安心したのではと今は信じたい。
古い神社、今もあるだろうか…
そう思いごく最近地図をたよりに行ってみた。それはまだあった、周辺の様子もずいぶんかわり、とても隠れ家と呼ぶにはほど遠いものになっていたが、2人で座った社の階段は当時のままだった。
社の内部も記憶にある通りだった。
僕には3つの宝物がある
1つ目が先に述べた2人の思い出の社がある“日吉神社”
2つ目が夏祭りの後、僕の態度に心が影響された旨を綴った彼女の手紙。
3つ目が僕のへやで撮った2人だけの秘密の録画。
写真はなくしてしまった。あと「紅の豚」の半券もまだ持ってる。
これら品物が思い出を事実として僕に伝えかける。
彼女の望むべき世界が実現することを祈るのが僕の立場だ、今も昔も。もう1度あってこれらのことを伝えたい。彼女はきっと「ありがとう」と言うだろう。その言葉が聴けたら、ぼくはもう満足だ。
その奇跡を信じて…。
奇跡を信じて、ぼくは作品を作ろうと思う。ぼくは東京に出てから漫画を描いていた。1つだけどうしても足りないものがあった。それは“心”だ。彼女からは心をもらった。大切な大切な人を想う心。会えないなら、僕にできることはただ1つ。このもらった心を作品にぶつけるだけだ。奇跡を信じて。