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魔族の子。  作者: フツキ。
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8.少年と大浴場。

 ぱたぱたぱた。軽快な足音が宿屋の長い廊下に響き渡る。それに少し遅れてぎしりと床を鳴らす足音が響いた。目の前の子供は鼻歌を口ずさみそうなほど大喜びしながら、その後ろを追い掛ける我に言った。

「おじさん、はやくはやく!」

「その様に急がずとも、風呂は逃げんぞ」

「でも、でも!」

 大きなお風呂に一緒に入れるなんて!幼い子供が満面の笑みを浮かべながら、後ろを歩く我にそう告げる。風呂くらいで。そう思ったのだが、この子供にとって、それは大きな楽しみになるのだろう。

 我らが根城にしているいつもの宿屋には、大きな浴場が用意されていた。女主人いわく、お風呂は大きければ大きいほどリラックス出来ていいでしょう、とのことだった。確かに広々とした場所でのんびりするのは、精神的にも肉体的にもリラックス出来るのは同意する。

 この子を育てると決め、共同生活をし始めた頃は、部屋にある風呂には、良く共に入っていたのだが、最近は一緒に入る機会がほとんど無かった。子供がひとりでも大丈夫になったから、というのもあったし、我の素顔や傷だらけの身体をあの子に見せるのも、少々心苦しかったというのもある。

 我には大きな「仕事」が舞い込んでいた。突然の依頼だったので、我は受けるか迷ったものの、子供がひとりでも大丈夫と言ったので、その「仕事」を受けることにした。最近は我がいなくとも真面目に学校に行き、女主人たちの保護のもと、子供はきちんと生活できている。我にとってその成長ぶりは、喜ばしいことだった。

 大きなお風呂に入ってみたい。そう言い出したのは子供の方からだった。宿屋の者たちとだいぶ親しくなったこの子は、我がいないときは、様々なことを教わったり、ときには共に遊んだり、他愛のないお喋りをしているようだ。そこでここにある大浴場のことを聞いたらしい。何にでも興味を示す年頃だからか、どうしても行ってみたいと言われてしまった。

 我が他人と馴れ合わないようにしていることを、その態度で子供は何となくだが察していた。変なところでこの子供は聡い。人目を気にする我に、人の少ない時間に行こうと強請られてしまっては、否と言い辛くなってしまうではないか。この子には何事も経験させようと決めた我は、二つ返事でそれを了承したのだった。


 まだ早い時間に訪れたからか、大浴場には人影がなかった。滑って転ばないよう気をつけろと声をかけつつ、我らは身体を洗うために並んで座る。湯で軽く汚れを流し、本格的に身体を洗おうと我が布を手に取る。すると何かを期待するような眼差しで、となりの我を見つめる子供と視線がかち合った。この子が何を言いたいのか、だいたいの予測がついたが、とりあえず我はこう聞いた。

「どうした」

「おじさん、僕が背中を流すよ」

 どういう風の吹き回しか、子供がそう言った。子供と一緒に入浴しているときも、身体を洗うのは自分でやっていたので、まさかそんな提案をされるとは考えもしなかった。しかしその小さな身体で、我の巨体をどうにかできるとは、到底思えないが、一応、我は再度子供に問うてみた。

「…出来るのか?」

「それくらいは出来るもん」

 訝しげに聞く我に対し、自信満々の表情で子供がそう頷き返す。本当に大丈夫なのだろうかといささかの不安を感じつつも、我は子供に身体を洗うための布を渡した。やりたいと言うのだから、この子が満足するまでやらせてやることが一番だろう。

 我から布を受け取った小さな子供が、一生懸命石鹸で泡立てると、準備万端とばかりに出来たと呟いた。始めるよ、と続ける子供に、宜しく頼むと我は短く返した。はてさて、きちんと出来るのだろうか。まあ、やらせてみれば分かることだ。

「よーし」

 そんな意気込みの言葉を背中越しに聞きながら、我はぼんやりと正面を見つめる。するとごしごしと、子供が背中をこすっているのが感じられた。その一生懸命さに、我の頬も思わず緩んでしまう。だがすぐに、ひとつの大きな問題が子供に直面するのだった。

「うーっ、うーっ」

 子供が唸っている。背中の感覚から察するに、子供の腕では上の方まで手が届いていないようだった。それもそうだ、この子は我と比べてあまりにも小さい。必死に背伸びをしても、我の背中の半分より少し上くらいしか届かないだろう。それでも子供

は、一生懸命洗おうと奮闘している。

「大丈夫か」

「う、うん」

「本当か?」

「大丈夫!大丈夫だもん…」

 我の言葉を遮るように子供が反論の声を上げるものの、それも途中で泣きそうな声音に変わってしまう。ここまで意固地にならなくてもいいのに。一度やると決めたらやり通そうとするその頑固さは、出会った頃から変わらないらしい。

 だがこのまま続けていると、本格的に泣き出しかねない。仕方なく我は子供の作業を中断させ、なだめながら己の身体を洗うことにした。小さい身体ながら、良くやったと我は褒めてやる。

「…ごめんなさい…」

「気にするな」

 身体についた泡をお湯で洗い流していると、隣で子供が同じように身体を洗いつつ、しおらしくそう謝る。小さな身体では出来ることと出来ないことがあるのだから、仕方が無い。我がそう言うものの、子供の表情はいまだ曇ったままだ。

 この子の悲しげな表情を見続けるのも、こちらとしては心苦しい。子供の機嫌を直してやろうと、隣りにいる子供に合図を送る。それに気付き、とてとてとこちらにやってきた子供を前に座らせると、髪を手ぐしで梳きながら我がこう告げた。

「我が髪を洗ってやろう」

「ほんと?…うれしい」

 湯で髪を濡らし、わしゃわしゃと膨らんでいく泡に、子供が大喜びで笑う。相手の機嫌を伺うように丁寧に頭を洗ってやり、たっぷりとお湯でその泡を洗い流してやる。いつもと勝手が違うからか、子供が無意識にぷるぷると首を振って、派手に水滴を飛ばした。その様はまるで小さな犬と変わらない。

「行儀が悪いぞ」

「ごめんなさい」

 そう注意すると、子供がそう謝る。そうであっても、笑顔を絶やさない。こうやって触れ合うのも久しぶりだからだろうか。二人とも綺麗さっぱり全身を洗い流したので、この宿屋自慢の巨大な浴場へと入っていく。部屋にある浴槽より少しばかり深いので、沈まぬように子供を膝の上に乗せてやった。

 白い湯気が昇っていき、湯の流れる音だけが響いている。我らが大浴場を楽しんでいる間、他の来訪者は無かった。ゆえに、とても静かだ。そうしていると、膝の上の子供が、こくりこくりと船を漕ぎ始めた。ちょうどいい温かさの湯に浸かって、眠くなってしまったのだろう。

「そろそろ上がるぞ」

 ざばりという大きな音を立てて、我らは立ち上がる。微睡みつつある子供の身体を拭ってやり、我も同じようにタオルで身体を拭く。そして寝間着を着せてやると、目をこすりながら、子供が我を呼んだ。

「おじさ…」

「うん?」

 曖昧な返事になってしまった。だがそんな我に構わずに、子供がうつらうつらとしつつも、こう言った。

「お姉ちゃんが、言って…お風呂、上がりには、ミルクを、飲むもの、だって…」

 まったく、どんな入れ知恵をしたのやら。あの少女らしいといえばらしい。きっとお風呂の後はこうするものだと、冗談交じりで子供に話したのだろう。そんな冗談を本気にしてやりたがるのは何とも子供らしい。

「分かった。我が用意するから、お前は部屋で待つといい」

「うん…」

 今にも眠りそうな子供にそう言うと、こくりと頷いてそれを了承する。我らはこれから混み合うであろう大浴場を後にし、自室に戻ってくる。ほとんど眠りかけている子供をベッドに横たわらせてから、我は一階の食堂へと向かう。そこにはいつも通り、カウンターに少女が立っていた。

「いらっしゃいませ〜」

「冷たいミルクを二つ頼む。部屋まで持っていく」

「かしこまりました」

 我の注文を聞いた少女が、そそくさと持ち帰り用のカップにミルクを注いでいく。その様子を眺めながら、我はこう聞いた。

「子供に入れ知恵をしたのはお前か?」

「ん?何かありました?」

「風呂の後にはミルクを飲むものだと言ったそうだな」

 我の発言を聞いてようやく、少女は己の発言を思い出したらしく、ああ!と声を上げた。そして悪戯っぽくにこりと笑ってみせた。人を惹きつけるような、愛らしい笑みだった。

「まったく、妙な入れ知恵をしおって」

「えへへ。でもお風呂上がりのミルクは格別ですよ」

 確かにそれに関しては同意しよう。だが純粋としか言いようのない子供に、下手な知識を与えるのは、保護者としてあまり良い気分ではない。まあこれくらいのものであれば、我が否定すればいいだけの話だが。何より悪意のある情報を与えることは無いだろう。

 お待たせしましたという声と共に渡された紙袋を手にし、我は小銭をカウンターに置く。きっと今頃、子供はベッドでぐっすり眠ってしまっていることだろう。もし眠っていたら明日に、起きていたら、そのまま一緒にミルクを飲めばいい。またどうぞ〜という声を背後に聞きながら、我は食堂を出ていったのだった。

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