7.少年と風邪。
子供が風邪をひいた。どうやら術式の授業の宿題に熱が入りすぎたのか、我のいない間に少し無理をしてしまったらしい。ごめんなさいねと謝る女主人に、仕方のないことだと我は返した。留守の間は彼女が面倒を見てくれていたので、責任を感じているのだろう。
小さな子供は体調を崩しやすいとも聞く。無理がたたった影響なのか、我が帰還したその日から、高熱を出して寝込んでしまったようだ。女主人は大慌てで子供を抱えて懇意にしている医者を訪ね、薬を用意してもらっていた。その医者はご丁寧に子供用の飲みやすい薬を用意してくれたようだ。そんな事情を聞いてから、我は食事用のミルク粥を持ち、部屋へと向かった。
「けほっ」
部屋に入った途端、少年の咳が聞こえた。さっきまでは眠っていると聞いていたが、どうやら起きているようだ。もしかしたら我の気配を察して、目を覚ましてしまったのかもしれない。
「大丈夫か?」
「おじさん…うん、少し、すっきりした」
サイドテーブルにトレイを置いてからそう聞くと、額のタオルを桶に入れてから、にこりと笑って少年が起き上がった。一人で起きられるくらいには回復したようで、我は安堵の息を吐く。最初はまったく動けぬほどに憔悴しきっていたくらい、酷い風邪だったようだ。薬も効いているようだし、これ以上酷くはならないだろう。
赤みを帯びた額にそっと触れてみる。もともと白い肌の持ち主だからか、熱を持つとすぐ赤みがさしてしまう。その姿が痛々しく見えて、女主人でなくとも落ち込むのは仕方ないことだと思った。しかし我のいないときにこんなことになるとは、何ともタイミングが悪い。
「熱は…まだ下がりきっていないな。食事は取れるか?」
「たべたい…」
時折咳を交えながら、少年がそう答える。小さな身体を抱き寄せて膝の上に乗せてやると、縋るように少年が抱きついてくる。やはり一人でずっと眠っていたのが寂しかったのだろう。だからといって我の「仕事」を疎かにするわけにもいかない。それはこの子供も理解している。なので側にいるときは、なるべく優しくしてやろうと決めた。
匙で粥をすくい上げ、少し冷ましてから口元に運んでやると、小さな口を開けてそれを頬張っている。昨日からまったく何も口にしていなかったと女主人が言っていたからか、久方ぶりの食事に少年は嬉しそうにおいしいと微笑んだ。だがやはり、食がいつもより細い。
「もう少し食べられるか?」
「うん」
「これを食べ終わったら薬を飲まねばな」
「うん…」
そう言ってやると、こくりと子供が頷く。薬を嫌がるかと思ったが、予想に反して子供は素直だった。まあ我が戻るまでおとなしく薬を飲んでいたから、もう慣れてしまったのかもしれない。何よりずっとベッドに居続けるのは、本人としてもあまり楽しくないのだろう。ようやく術式が分かり始め、楽しくなってきた時期だったから、看病する女主人に、早く風邪を治して学校に行きたいとも言っていたようだ。
ミルク粥を半分ほど食べ終えたので、少年をベッドに座らせると、我はサイドテーブルの端に置かれていた薬を用意する。中身を見てみると、どうやらこれは粉状になっている薬を、甘いゼリーで包んでいるものらしい。確かにこれであれば、子供でも難なく薬を飲めるだろう。医学も日々進歩しているということか。
「薬は飲めるか?」
「大丈夫」
「よし」
薬と水の入ったコップを渡して聞くと、そう答えてから、子供が薬をごくりと飲み込む。水をごくごくと豪快に飲み干して、ふう、と子供が安心したように息を吐いた。ミルク粥をすべて食べ切れはしなかったが、これだけ食べられれば十分だろう。薬も飲み終えたので、もう横になっていいぞと伝えれば、子供はゆっくりとベッドに沈んでいった。
「僕、ちゃんとお薬飲んだよ、おじさん」
「偉いぞ」
必死に飲み終えたことを主張する子供の頭を我が撫でてやると、満足そうにアイスブルーの瞳が細まる。不意に彼の額に触れてみると、ずっと眠っていたせいか汗でしっとりと濡れていた。このまま眠らせてしまっては、また身体を冷やしてしまうだろう。
「汗をかいているな。身体を拭くとしようか。このままでは風邪を悪化させてしまう」
「悪くなっちゃう?」
そう聞く子供に、そうだなと我は短く答える。とりあえず着替えの服と、身体を拭く道具が必要だ。シーツも変えるべきだろうか。とりあえず替えをこれから用意をすると子供に告げてから、我は部屋を出た。そこにちょうど良く食堂の少女が通りかかったので、我は事情を説明し、それの道具を借りたいと頼んだ。
「お任せください!すぐ用意しますね。傭兵さんはお部屋で待っててください」
少女は我の願いを快諾し、そそくさと下の階へと戻っていった。その後ろ姿を見送ってから、我は再び部屋に戻る。食事と薬のおかげか、さっきよりも顔の赤みが引いたように見える。
少し待っていると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえる。どうやら頼んだものを持ってきてくれたようだ。ドアを開けると、荷物を抱えた少女が、持ってきましたよ、と我に告げた。思ったより持ち物が多かったので、そのまま少女を部屋の中へ通してやった。
「お待たせしました。…調子、どうですか?」
「だいぶ良くなったようだ」
「良かった〜!マスター、かなり気にしてましたもん」
そんなことを交わしながら、少女が頼んでいたものをてきぱきとした動きで、サイドテーブルとベッドの上に並べていく。着替えにタオル、お湯の入った桶、新しいシーツなど、さすがに量が多かったので、我も並べるのを手伝った。何かあったらすぐに言ってくださいね。そう最後に付け足しながら、少女は仕事へと戻っていった。
「身体を拭こう。服を脱げるか?」
そう聞くと少年は言葉なく頷き、纏っていた服を脱ぐ。シーツを取り替えるために小さな身体をすぐ近くの椅子に座らせてから、我はシーツを替える。そして子供を抱きかかえると、丁寧に彼の汗をふき取っていった。時折どうしてもくすぐったいのか、少年がくすくすと笑った。笑えるくらいに体力が戻ったようなので、我は一安心する。
「おじさん、くすぐったい」
「我慢しろ。すぐに終わる」
言い聞かせるようにそう告げると、楽しそうに少年がまた笑った。丁寧に顔から首、胸や腕のあたりを拭いてやる。下半身はどうしてやろうか。そう思案していると、僕ひとりで出来るよと、こちらの考えを見透かすように子供が言った。
さすがにそこまで世話になるつもりは無いようだ。分かったと答えてから、我は汗で汚れたタオルを洗い、きつく絞ってから子供に渡してやる。身体を拭くのを見守るのもどうかと思ったので、我は視線を外すように脱いだ服を畳んだ。
「おわったよ、おじさん」
そう言って子供がタオルを渡してくる。我はそれを受け取って桶の中に入れた。新しい服に着替え、すっきりとした表情で、少年はベッドに横になる。借りたものを返さねばならないし、子供の眠りの妨げになってしまったら良くないと、我は部屋を去ろうと立ち上がる。そんな我のマントの裾を、子供の小さな手が掴んだ。
「どうした?」
「そのっ…おじさん…」
どう言い出したら良いのか分からないのか、一度は口を開いたものの、子供は何も言えぬまま俯いてしまう。だがマントの裾を掴む手は一向に離れようとしない。膝を折り少年を見つめると、おずおずともう一度おじさん、と名を呼ばれた。
「…ひとりは、さみしい…けど…でもかぜがうつったら…」
恐る恐る、子供が言葉を紡ぐ。今日まで我は「仕事」で子供の近くにいてやれなかった。そんなときに病気を患ってしまい、きっと寂しい思いもしたに違いない。否、寂しくて仕方なかっただろう。風邪をうつしてしまったら問題になるゆえに、どうしても部屋の中でひとりの時間が多くなってしまう。
我は身体が丈夫だと自負している。風邪をひいたことも、そもそも病気を患ったことなども記憶にない。ならばこの子の側にいても問題は無いだろう。何より、側にいてやったほうが、有事の際にすぐに対応できる。
「大丈夫だ、我はもうどこにも行かん。ただこれを返しに行くだけだ」
「ほんとう?」
「我が嘘をついたことがあったか?」
子供の質問に、我も質問でそう返す。それを聞いた子供が、首を横に振って否定した。
「何かあればすぐに呼べ。我は側にいる」
つとめて穏やかにそう言い聞かせてやれば、安心したように子供が分かったと小さく言って頷く。その銀髪を、我は優しく撫でてやった。
「もう眠れ。早く風邪を治すのだろう?」
「うん。おやすみなさい」
我の言葉にそう応えてから、子供が目を閉じる。そしてしばらくして、穏やかな寝息が聞こえてきた。今のうちに用事を済ませておくか。眠った子供を見届けてから、我は着替えやら借りた桶やらを持って、女主人や少女がいるであろう階下へと向かったのだった。