28.少年と声。
白い霧に紛れ、物々しい気配を纏いつつ、巨大な歪みが現れた。その姿は不定形だが、敢えて言うならばそれは粘度を持った液体状の魔物のように見えた。薄暗い澱みがゆっくりとこちらに近付いてくる。脳内で響く悲鳴がますます強くなった。来る。我は咄嗟に剣を抜いた。
「来ないで」
子供が小さくそう呟く。我ですら身構えるほどなのだから、子供にとってはとてつもない迫力と恐怖だろう。だが敵から視線を外すわけにはいかない。少しでも油断をすれば、我らの命は、一瞬で失われる可能性もあるのだ。
「来ないで…」
「どうした」
再び、子供が同じ言葉を紡いだ。術式適性の高いこの子には、恐らく我よりも強く声が聞こえるのかもしれない。何度も何度も来ないでという子供に、堪え切れずに我は短くそう聞いた。外気がどんどん冷えていく。どうすれば、どうすればいい。我にその声は聞こえない。言葉にならない悲鳴に聞こえるだけだ。でもだからといって、耳を塞いでもどうしようもないだろう。これは直接頭に響いているのだから。
「おじさん、幽霊が…僕を、よんでる。帰ろうって」
「どういうことだ…?」
「わかんない。でも、帰ろう、帰ろうって…」
泣きそうな声で、子供が続ける。帰ろう。その発言の意味が分からない。もしかしたら目の前の幽霊は、子供を何か別の存在だと思い込んでいるのかもしれない。無念の死を遂げた幽霊の中には、強烈な思念に囚われて、冷静な判断を下せなくなっている場合が多い。それとも、それ以外の理由なのか。ただ目の前の存在に呼びかけているだけ、という場合もある。分からない。
ゆらりゆらりと、澱みを含んだ幽霊が近付いてくる。我は剣を澱みの中に突き立てた。効果があったのか、悲鳴が強くなる。頭の中の声が強くなりすぎて、軽く頭痛がした。それでも戦わねばならない。子供を守るため、我は戦わねばならぬのだ。
帰ろう。幽霊がそう言っていると、子供が呟いた。それはどちらに対して放った言葉なのだろう。もしくはどちらでもないか。この幽霊は何らかの過去に囚われて、ただただ帰ろうと言っているだけかもしれない。我があれこれ考えたとしても、答えは出て来ないだろう。そうしているうちに、幽霊は距離をどんどん詰めてくる。我は思考回路を一切止めて、突き立てた剣を真横に払った。叫びがますます強くなる。
「やだ、やだよ!……僕は、帰らない!」
悲鳴にも近い叫びを子供が上げた途端、バリンという派手な音が響き渡る。どうしたのだとそちらを見やれば、お守りの石が割れて粉々になっていた。途端に眩い光が周囲を照らす。さすがの我もその光によって視界を奪われてしまった。今我の周囲がどうなっているのか分からない。強烈な閃光のせいで、何も見えない。すぐ近くにいるはずの子供すら。
幽霊はどうなった。光は収まったものの、そのせいでまだ視力が元に戻らない。子供がどうなったのかも分からない。石を叩く金属の音がする。我のものではない。何者だ。何とか周囲が見れるようになり、我は注意深く近くを見る。そこには見知った青年が、我らと幽霊の間に挟まるように立っていた。
「傭兵!」
「っ、お前は…」
そこにいたのは、宿屋のバーテンダーだった。確かこの男は心霊関係に強いと聞いたことがある。こいつがいるということは、女主人の差し金か。幽霊の周りには、守護札の付いたナイフが、それを囲うように刺さっている。悲鳴は止まらないが、足止めは出来ているようだった。
「下がって。ここは俺が。貴方は子供を」
「…分かった、頼む」
気付けば子供は石畳の上に倒れていた。圧倒的な恐怖と、無意識に放った強力な術式の影響で気を失ってしまったのだろう。幸い息はあった。仕方がない。今回は子供の安全を最優先にしなければならない。我はバーテンダーの青年の好意を快く受け入れることにした。ぐったりとしている子供を抱え、宿屋へ向かい全速力で走った。とにかく今は、この子のことだけ、考えよう。




