3.少年と名前。
「そう言えば、この子のお名前を聞いていませんでしたね」
術式適性の調査を終えた神官が、子供を連れてやって来た。適性はこの世界で生き抜く上で必要不可欠なため、無料で、どの立場の者であろうとも受けることができる。ゆえに己の素性を語りたがらない者も、少なからずいる。神官はそれを分かった上で、我にそう聞いてきた。
「……名前はない」
「何か事情があるのですね」
この神殿には様々な者たちがやって来る。ここに対して悪意を持たぬ限り、神官たちは訪れる者に対して、深入りはしない。この子も訳ありなのだとすぐに判断した神官は、我に抱きつこうとする子供を見やりながら結果を告げた。
「適性ですが、この子は凄まじい術式能力を持っています。身体的能力も高いようです」
「他には?」
「特にこれといった異常はありませんでしたよ。どちらの適性も高いのは、珍しいですが」
術式とは、この世界に住まう姿の見えない精霊に働きかける奇跡の力だ。それが高ければ高いほど、起こせる奇跡は多い。そして身体的能力は、その名の通り、己の運動能力のことだ。腕力があったり、速く走れたり、遠くのものを見通せたり。種類は様々だ。とにかくこの子供は、どちらの適性も高いことが判明した。
我はこの子供を、然るべき場所に連れて行くつもりだ。女主人は育てればいいと気軽に言ってくれるが、戦うことしか能がない我にそんなことが出来るわけがない。何よりこの子供のことを一番に考えれば、きちんと育ててくれる施設に入ったほうがためにもなる。
「この子を、施設に送りたい」
そう、我は神官に話す。神殿はあらゆる施設とパイプがあるため、身寄りのない子供を引き取る孤児院にも顔が利く。我の言葉を聞いた子供が、不安げにこちらを見上げてきた。意味は分からずとも、雰囲気で自分がどうなるのか察したようだ。
「…おじさん」
ぎゅっと、子供が我のマントを握り締める。まるで置いていかれたくないと主張するように。
「…これはお前のためだ」
「おじさんと離れたくない」
目に涙を溜めながら、子供がぽつりと主張する。そうは言われても、我は傭兵であり、いつもこの子の面倒を見てやれるわけではない。この少年は助けてくれた我を、まるで、刷り込みのように、親かそれに近い存在だと思い込んでいる。
今にも泣き出しそうな子供を見かねてか、ずっと様子をうかがっていた神官が、差し出がましいのですがと枕詞を付けて我にこう言った。
「数日、様子を見たらどうですか?少し落ち着いてからのほうが、この子にも良いでしょうし」
孤児院へはいつでも行けますから。神官にもそう説得されてしまったので、仕方なく我は子供を根城にしている宿屋へ連れて戻った。途端に暇を持て余してロビーを彷徨いていた女主人が、おかえりなさいと我らを出迎えた。
「どうだったんです?」
「適性はどちらもかなり高かったようだ。孤児院に連れて行きたかったが、泣かれそうだったのでな、一旦連れて帰った」
「そうだったの。頑張ったわね、お疲れ様」
女主人にそう語れば、彼女は笑って子供にそう言う。そんな女主人に、頑張ったよ、と子供が少しばかり胸を張った。そんな子供に部屋に戻るぞ、と告げてからその小さな手を握る。すると不安げにこちらを見上げてから、子供は我の手を握り返した。
部屋に戻るまで、子供はずっと無言だった。我と離れ離れになる…つまり孤児院に預けると言われたのがよほど堪えたのだろう。部屋に入っても、子供はなかなか我の手を放そうとしなかった。どうしてそこまで、我と離れたくないのだろう。我はこの子の親という立場にはなれない。それを一番、我自身が理解している。
ようやく手を放し、子供はベッドにちょこりと座った。我も無言のまま近くの椅子に座る。考え込むようにもじもじと手を動かしながら、おじさん、と子供が我を呼んだ。その姿はこの子なりに、必死に考えて、言葉を探しているようだった。
「僕、いい子にしてるから。おじさんの、言うこと、ちゃんと聞くから……置いていかないで」
「それなら、然るべき場所に行くのが一番だ」
「……おじさんの、側がいい…」
子供はどこまでも頑なだった。この子の術式適性は高い。その能力があれば恐らくこの子を引き取ろうとする者は多いだろう。我は所属していないが、成長して独り立ちすれば、ギルドである程度の仕事を請け負うことも出来るだろう。何より孤児院に預けられれば、少なくともそれまでの衣食住には困らないはずだ。
我が何とか説得の言葉を紡いだとしても、子供はそれでもここがいいと言った。だが我が情けをかけて譲歩してしまえば、この子の将来にも良くない。だが子供は目先のこと…今のことしか考えられず、その将来までは考えられないのだろう。
「もう、置いていかれたくない」
そう言って、とうとう子供が泣き出した。途端に周囲の空気がざわめき始める。この子の強い感情に、精霊たちが呼応してしまっているのだ。術式適性が高すぎる者は、感情が昂ぶるだけで奇跡を起こせてしまう。仕方なく我は泣くなと言ってから子供を抱き寄せる。すると呼応していた精霊たちの動きがぴたりと止まった。
もう置いていかれたくない。その言葉に、己の過去を思い出してしまう。我も物心つかない幼い頃に、親の顔も知らぬ頃に、魔物が跋扈する場所に捨てられていた。もう少し遅ければ魔物たちの餌食になっていただろう。我を保護してくれた者たちは、優しく、そして穏やかに我を守ってくれた。忘れかけていた記憶が、子供の何気ない一言で蘇ってしまう。この子も、かつての我と同じなのだ。
これでは、無理やり引き離すのは無理だろう。孤児院に預けた途端に、子供の感情に揺さぶられた精霊が何を起こすか分からない。何よりこの子供に対して、我は持ってはならぬと自戒していたはずの感情を抱いてしまった。我は親になれるのか。それは分からない。この子供と共にいるつもりならば、なれなくとも、ならなければいけない。
これはこの子を拾ってしまった我の責任でもあるのだろう。だが見捨てることも出来なかった。ヒトの死はたくさん見てきたが、やはり子供が死ぬ姿を見たくはなかった。しかし、そうであっても、とんでもない子供を拾ってしまったものだ。腕の中でおとなしくしている子供を見ながら、我は内心でそう嘆息した。