16.つがいの蝶。
噴水の音がする。まだ早い時間だからか、行き交う人の姿はまばらだ。そんな静かで穏やかな公園に、我らはいた。いつも纏っている鎧は「襲撃」の影響でまだ修理中なので、あまり見せない軽装でベンチに座っていた。あまり慣れぬ服装のせいか、どうも居心地が悪い。
「見てあげなくてもいいんですか?」
ベンチに座ったままの我に、少し距離をあけて同じように座っている少女が、そう声をかけてくる。彼女は朝市の買い物途中らしく、もう少し休憩したら再度、市場へ出かけるという。そんな二人の目の前には噴水の前で黙々と作業をしている子供がいる。学校の宿題で、街の風景を描く…いわゆる写生の課題が出されたのだ。
本当ならば子供ひとりで出掛けてもまったく問題ないのだが、仕事道具をすべて修理に出してしまった我は何もすることがなかった。そしてこれといった趣味もない。気付くと仕事が趣味…否、生活のひとつとなってしまっていた。つまり、手持ち無沙汰なのだ。それを察してか気付いていないのか、子供が一緒に行こうと提案してくれたのは有り難かった。
「見てやっても、我には芸術というものは分からぬ」
「芸術かあ…私も小さい頃同じことやったけど、あんまり分からないなあ」
そう答える我を見てから、少女はぽつりと呟いて心地よい風に吹かれながら目を閉じた。我はあまり芸術というものに触れたことが無いゆえ、そういうものはまったくもって分からない。なので子供にあれこれ聞かれても、こうだという正解を教えてやることが出来ない。それがいささか気まずかったが、出来ないものは仕方がない。
穏やかで静かな時間が、過ぎていった。さわさわと木々を撫でる風の音、そして噴水の音。「襲撃」で擦り減っていた神経が、少しずつ、それでも確実に癒されていく。このような時間も、悪くない。
子供は学校でも良くやっているらしい。その自主性を考えて、我はあまり干渉はしないようにしている。月に一度、教師である神官から、日々の態度や学習の成果を報告されているのだが、成績も悪くなく、友人とも仲良くやっているようだ。最近は友人の話を聞かせてくれたり、彼らに誘われたので出掛けたいという願い出も、何度も許可したこともある。
学校の生活を楽しんでいるのは何よりだ。我は保護者という立場ではあるが、この子供の身を守るための存在であるのだと認識している。未だに互いの距離感がなかなか掴めずにいるけれど、それが保護者の苦悩というものなのだろう。この性分であるから、我は妻を娶ることも、子を持つことも無理だろうな。内心でそう自嘲した。
「あっ!」
我は、少し遠くから聞こえる子供の声で目を覚ました。隣の少女も異変に気付いたようだ。ベンチから立ち上がって周囲を見まわすと、噴水のあたりから子供の声が響いた。さっきまで作業に没頭していたのに、今はそれを放棄してしまっている。何があったのかと近づくと、子供が噴水の淵から、噴き上がる水を見つめていた。
「あ、おじさん」
近づいてきた我に気付いた子供が、無邪気に手を振る。驚いた声を上げたから何があったのだろうと思ったが、特に異変は無いようだ。念のためにどうしたのだと聞くと、子供が嬉しそうにえへへ、と笑った。
「あのね、ちょうちょを追いかけてたんだけど…」
子供はそう答えて、噴水の上のあたりを指差した。どうやら写生に飽きてしまったらしく、道具は近くに放置されていた。まあ、子供なんてそんなものだ。新たな興味の対象が現れれば、自ずとそちらに流されてしまう話を聞いた後で、さりげなく注意を促しておくことにしよう。
視線の先には、噴水の水と戯れるかのように、蝶がひらひらと飛んでいた。このあたりでは良く見る、珍しい種類でもない、ごく普通の蝶だ。
「あそこにいるなんて、ずるい」
別に取ろうと思ったわけではないのだろう。ただ追いかけていただけなのだが、あそこにいては、これ以上は追いかけることも出来ない。子供はささやかな楽しみを取られてしまったからか、柔らかなその頬を少し膨らませた。
「あ、ちょうちょ!また!」
子供がさっきまでのやり取りをすっかりと忘れて、また楽しそうに声を上げる。二人の目の前にいた蝶は、ひらひらと舞うように飛びながら、噴水の頂上にいるもう一匹の蝶へと近付いた。それはさっきのものよりも一回り小さく見えた。
ひらり、ひらりと、二匹の蝶が噴水の水と戯れるように飛んでいる。その様はどこか舞を舞っているようにも見えた。番なのだろうか、それとも、親子なのだろうか。否、親子というのは有り得ない。親は命を懸けて子を残し、先に死んでいくものなのだから。
「あの蝶は番みたいだな」
「つがい?」
そう告げた我の言葉を、子供が不思議そうに首を傾げて反芻する。そうか、まだこの言葉は教わっていないのか。そうしていると、少女が助け舟を出してくれた。
「恋人同士ってことかな。あの蝶は、好きな人同士なの」
ごくごく簡潔に、少女が分かりやすく答える。番いの蝶は、しばらく噴水の水と戯れた後、ひらりひらりと空へ消えていった。
「あのちょうちょ、仲良しなんだね。僕もおじさんが好きだから、僕たちみたいだね」
そう言って、子供が我に微笑みかける。それを聞いた少女が、笑いを抑えきれずに吹き出していた。失敬な。そうは思ったが、我も子供のことは嫌いではない。だからといって我らは番というわけでもない。だがその差異を子供に説明する語彙力を我は持ち合わせていない。後で女主人に説明を求めるとするか。仕方なく我はにこにこと笑っている子供の頭をそっと撫でてやった。