12
ゲメトの沼。
ノクスの街の西側に位置する、湿地帯。
深い葦が生え、葦と沼を抜けた先には墓所、聖所に至る。
大柄の男たちは沼地を平たい板で区切り、その中の泥を掻き出していた。
硫黄の匂いに似たものがあたりに広がる。
掘っても掘っても泥は無くならない。
積み上げた泥は、積んでも雪崩れていくので、これもまた板で区切った枠に放り込んでいく。
かなりの重労働だ。
男たちに交じり、若い女がいた。
長い紫の髪を括り、いつもよりは多少動きやすいパンツに長靴を履いている。
男の一人が、彼女を見つけて声をあげた。
「ナールさん、無理ですよ。こんな沼地、地質調査も出来ない」
「聖所の付近はどう?あの辺りは比較的岩盤が硬い筈よ、ダガン」
「あっちはあっちででかい岩盤の上に立ってるみたいでな。固くて掘れねぇや。昨日一刻程進めたら、刃がこぼれちまって。一応今日もやってみますがね」
「ギンナル様は厳格な方だから、きちんと調査しないと納得なさらないわ」
「でしょうなぁ。見つかるまでは動けそうにありませんなぁ」
ダガンは曲がった腰をよいこらせと正した。
ナールは長靴のまま墓所を抜ける。
泥によって朽ちた墓がさらに寂れているように見え、足が重く感じる。
そのまま独り言ちる。
「ここに鉱脈があるはずはないのに」
噂の出所がわからないのが忌々しい。
ギンナルはあまりこの噂に乗り気ではなかったが、ダン商会が黙っていなかった。
ステッラと違い、ここにはいくつもの鉱山はない。
また石の妖精も鍛冶の街ルードスや結晶の街ステッラに住み着いているとされ、ノクスはその祝福を満足に受けられない。
ノクスは港街だ。
輸送と交易の窓口としての需要がこの街の支えであり、ホイホイと鉱脈が出るはずがない。
この前マーガが見つけた法石の鉱脈が出たのだって、数十年ぶりだった。
だからなのか、ギンナルのしかめ面はひどかった。
これで鉱脈が出ないなどと報告すれば、確実に機嫌を損なうとナールは感じている。ギンナルは合理的で無駄なことには、一切費用を割きたがらない。
かといって万一投資の価値あるものを見逃せば、損失を嘆く。
ある程度は広く拾いながら、引き際が肝要だ。
ギンナルの下について、彼のやり口は長年見てきたから解る。
昔はそこまでひどい男ではなかった。
身寄りのない子供達を拾って、居場所を作ってくれるくらいの人情家でもあったのだ。
たとえそれが聖所に対抗する措置であったとしても。
聖所が見える。
箱型の灰色の漆喰、襤褸屋根の上には風見鶏のように信仰の偶像が置かれている。
朽ちて黴た場所には似つかわしくない若々しい体躯が皮肉だ。
偶像は天宮の崇拝するデリング教のようだが、そうではない。
聖所の庭先には掘り進めた跡があり、硬い岩盤の白と茶の層がのぞいている。
鉱脈がないか注意深く地層を確かめながら、近くには刃こぼれした道具が散乱していることに気づいた。
なぜだかそこに違和感を覚える。
ダン商会は頭より体が動いてしまう人達の集まりだ。
体を使う作業が得意で、職人気質が多い。
だから、自分が使う道具にはこだわるし、今日だって道具の刃がかけるのを酷く気にしていた。
そして、ナールは気づいた。
聖所の扉が開いている。
聖所の僧侶、マルヴは変わった男だった。
世間知らずで落ち込みやすく、開放的なのかと思ったらひどく閉鎖的で。
彼の教えは解りやすかったが、何処か潔癖で排他的に感じられた。
彼の神は犠牲の神だった。
何かにつけては人の罪を替わり、あらゆるものを犠牲にし続けた神。
八年前の疫病の時は、彼の神と彼自身の二面性が顕著に現れていた。
ナールは当時十一の子供だったが、優しい僧侶が急に聖所の門を閉じたこと、人が変わったように暗く、陰鬱な顔を朧気に覚えている。
それ迄はこの庭で毎日のように走り回っていたのに、閉め出された日のことだ。
行き場のないナールたちを助けたのは、他でもないギンナルだった。
彼女がはぐれたマーガと知っても、態度は変わらなかった。
それが嬉しかった。
聖所を追われれば行き場がなかった身だ。
恩義に感じないわけがない。
施設の教育は厳しく難解だったが、何とか食らいついて合格点をもらえた。
英才教育を施すのだと、聖所だけでなく集められた多くの子供がいた。
その子供達が脱落するなか、自分が生き残れたことが誇りだった。
殊に薬学と解剖学、生理学、生化学については相当な知識を詰め込まれたため、かかりつけの医師からも太鼓判を押されている。
だが、結局は秘書業務をこなしている。
知識を持て余すことを医師も残念がってはいたが、彼女の出世を喜んでいる。
つんとした刺激臭がした。
昔のことを思い出したのは、記憶にある刺激臭と、今嗅いでいる匂いが酷似していたからかもしれない。
招かれるように足が動いた。
黴た匂いが鼻腔を刺激する。
廊下から礼拝所に入ると、異様な空気の重さを感じた。
導かれている、それは必然のようにも思えた。
警告音が聞こえた気がして、ナールは一瞬躊躇う。
だが、欲求には勝てずに手を伸ばした。
心音がやけに鼓膜に響いた。
どこか背徳的な事をしている緊張感、所在のなさがそうさせるのか。
胸が締め付けられるような圧迫感を理性で押し止める。
そうしないと心臓が飛び出てしまいそうだ。
金の装飾を纏ったそれは。
「これは、もしかして」
「やだぁ、触らないで」
女の声がして心臓が跳び跳ねる。
混乱して彼女が振り返るより先に、ナールの意識は失われていった。